インド
「印度に行からずんば、人に非ず」
インドに行くまでは人ではなかった。インドに行ってからは人となった。ではインドで私を人たらしめたものとは一体何だったのだろうか?
人間だと自称する者に問うが、君は本当に人間なのだろうか? 人間であるということにすがってはいないだろうか。人間であることに驕っていなかったと果たして誰が言えるのだろうか。驕っていなかったと確信をもって言えるものだけが、人間である。しかし、想像すらつかない出来事に関しては人は誠に無力である。脳みその外側へ出かけていくのはほぼほぼ不可能である。不断の努力が必要だからだ。インドに行かばそれが労せずに自動的に得られる。我々の高慢ちきな驕りが、向こう見ずな知恵が、想像不可能な事象に関する脆弱性が、命知らずな怠惰が。
鉄道の開け放しの扉と、そこから半身を乗り出して風に当たっている青年、背後に見える移ろいゆく景色、何とも言えない微かに甘く鼻につく匂い、線路を渡る老夫婦、埃まみれの扇風機、肌にじっとりと纏わりつく湿気、列車の床に座ってスマホをいじっている若者、いちゃつく若いカップル、座席に座って眠りこくっている老人、ヒンディー語でぺらぺらと喋っている男、餌を求めて近場を漁る犬、扉のそばでぼーっと突っ立って景色を眺めている男、カラッとした熱気、足を通り抜けていく心地よい風、陽に照らされる木々、ゴミまみれの線路脇、古びた家、遠くから鳴り響く断続的なクラクション、背の高い新築の施設、電話の着信音。
ゴミと歴史と人と文化と犬と電話と木と車と牛とバイクと匂いと湿気と風とクラクションと熱気をごった煮にしたような風景。
私は間違いなくインド人だった。曖昧な抽象名詞ではなく、具体的な名前を持ったひとりのインド人としてそこにいた。遥か遠い昔からずっとそうだった。それを今に至るまで忘れていたのだ。何故今まで忘れていたのだろう? 何故今まで気がつかずにいられたのだろう? インド人とは、インド国籍を持つ者の総称ではなく、あの景色を眺めていたものの、あの瞬間を共有していたものの名前なのだ。
無論そうではない。そうではないが、そんな気がしたのだ。あの時は確実にそうだったのかもしれない。
そんな瞬間はもう二度と訪れることはないのだろう。でもそのことを残念に思うことはない。我々はインド人だし、これからもインド人なのだから。あの車窓から流れ行く街並みを見ればすぐに思い出せることだろう。インド人を呼称するのは自由なのだから。それが認められようが、認められなかろうが関係ない。
これがインドである必要性など全くと言って良いほどない。フランスだろうがドイツだろうがロシアだろうがアメリカだろうが、あろうことか日本であってさえも問題ない。ただそれがインドであるような必然性を見出すのは私の勝手だろうか。
実際のところ私を人たらしめたものが何だったのかは正直皆目検討もつかない。ただ頭をガツンと殴られたような衝撃だけが残る。昔は人だったのか、それとも人に似た何かだったのかすら怪しいのだから。よく覚えていない。それを覚えておくこと価値があるのかすら分からない。そもそも人であることを、人でないことを確信できること自体が言わずと知れた驕り高ぶる事象そのものだからだ。そうは言っても一旦は人間であると錯覚できたのだからそれで良しとしよう。