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懐水

作者: LeMac

 気が付けば、歩いていた、一本の道。

 木洩れ日に濡れた樹海のように、この道には、光と影が無数に交錯しています。当然のように、光を浴びれば、それはもう暖かく、影に包まれれば、それはもう暗く寂しいのです。僕は、この道を歩く最中、薄く目を見開いて、視線を宙に泳がせるのですが、曖昧に霞む遠景を見つめては途方に暮れ、ぐらぐら揺れる足元を見つめてはひどく幻滅してしまうので、なるべく無駄に身を削らないよう、ときに目を固くつむりながら――ときに後ろを振り返りながら――僕はこの道を歩き続けてきました。

 今日もまた後ろを振り返ってしまいました。いつものように、踏みしめる足元が頼りなくぐらつき、この先の展望が不鮮明なので、僕はたまらなく不安になったのです。ふっと立ち止まって、振り返ります。当然、後ろに、道はありません。歩いてきたはずの道は、すっかり消え失せており、僕がかつて見てきた情景が、いつもと変わらぬ表情で、僕を見つめているのです。その情景は、音も匂いも感触も、何もかも具有していないのですが、透き通るように美しく、神々しい光を放っています。陶酔。安寧。快癒。――僕は、その情景を恋しく思い、立ち止まって引き返そうとしたことがあるのですが、それはてんで不可能なことだと知っています。道が消え失せた跡に残るのは、距離の知れない深淵な闇。その真っ暗な闇に、ぷかぷかといくつもの情景が浮かんでいるのです。闇に灯る、美しい情景。過ぎ去った情景に浸ることは、今の僕には、もう許されません。

 

僕はその昔、落とし穴に落ちたことがあります。いつものように道を歩いていたとき、ふっと穴に落ちてしまったのです。穴があることに、僕はまったく気が付きませんでした。見据えていた前方の道は、平生と変わらず、幾万もの光と影が降り注いでいました。ちらちらと光の粒を浴びながら、ゆらゆらと影の帽を被りながら、僕はゆっくりと道を歩いていたのです。

ふと、重力に引かれ、穴に落ちました。それは、とても深い穴でした。僕は初めこそ、両手で穴の淵をがっしりと掴み、もう一度地上に這い上がろうとしたのですが、底の方からぷんと香る甘い匂いに誘われて、結局、僕は自らの意思で両手を離してしまったのです。

 それからというもの、僕の環境は一変しました。深い穴の底には、甘く柔らかい水がたっぷりと張っていました。快楽にも似た居心地の良さを感じた僕は、その中を泳ぎ回ってみました。優雅に、放埒に、酔い痴れながら――。呼吸をするのを忘れるほど、水に惹かれ、僕は無我夢中で水と戯れました。水面から顔を出し、天を仰ぐと、一筋の光が穴の底まで綺麗に射し込み、揺れる水面を煌びやかに輝かせています。一寸の翳りもありません。ただ、光のみの世界。僕は再び水に潜り、その光の水を泳ぎ回りました。甘く、柔らかく、温かく、きらきら、きらきらと、僕はその水に溶け込むことを望みました。

 泳ぎながら僕は、こんな思いが胸に去来しました。絶えず流れている時間の停止。世に蔓延る不幸への懐疑。だって、僕の周りには、こんなにも温かな光が満ちているのです。目に映るすべてが眩しく輝いているのです。「影」などというものが、そのときの僕にとっては、本当に架空のものに思えてなりませんでした。

僕は、来る日も来る日も、水と戯れました。水に愛の言葉を掛け、優しく愛撫し、泣きそうなくらいに抱きしめました。僕は水を愛していたのです。いとも簡単に、一蓮托生を願いました。このまま一緒になって、世界の終わりまで抱き合っていたかったのです。

かつて、考えたことがあります。幸せとは何だろうと。実体の無い概念に答えを見出すのは、甚だ難しく、僕は頭を抱えながら、ひとりもがきました。幸せとは――? 幸せとは――? 

ある日、ふと思いました。

(きっと、幸せとは、相対的なものなのだろう)

辿り着いた答えは、何とも陳腐な言葉でした。だけど、きっとそうに違いありません。僕は、この幸せの定義を、信じて疑いませんでした。幸せとは、そのときは気付かずとも、時間が経つと、徐々に色みを帯びて、表立って見えてくるものに違いないのです。僕は、ずっとそう信じてきました。

だけど、こうして、愛する水と戯れている刹那、僕は、幸せとは相対的なものなんかではないと思いました。信条の革命。幸せとは、今、此処に、在る。水を愛している今この瞬間が、何より幸せで、何よりも温かいのです。僕は今、憂き世から遠くかけ離れて、幸福に溺れている、そう思っていました。

僕は、水を永遠に愛し、この幸福の中で溺れ死のうと思いました。


――永遠なんてものは、存在しないの。


ある日、目が覚めると、水が減っているのに気が付きました。心なしか、水量が減っているのです。甘い匂いも薄れ、人肌のように温かかったはずの水温も、その温度を失っていました。なぜだろう? 急になぜ? 不安に駆られた僕は、以前のように、恍惚に包まれた遊泳などできそうにありませんでした。水はちっとも柔らかくなく、温かくもなかったのです。水が僕を受け容れてくれなくなっていました。泳ごうとすると、水はそっぽを向き、僕の皮膚をぴりぴりと突き刺します。すぐそこにいるのに、こちらを向かないというだけで、何よりも遠く感じるのはなぜなのでしょう。天を仰ぐと、眩しかったはずの光は、濁った靄で薄まり、僕が立つ水面までは万全に届きません。暗く淀んだ穴の底は、ひどく寂しいのです。僕は目を閉じて、眠りに堕ちました。


――もう、おわりだね。


 その声で、僕は目覚めました。水はすっかり無くなっていました。僕はじっとりと湿った地面にひとり倒れており、先ほど聞こえた声の主を探し、周囲をしきりに見回しました。しかし誰もいません。冷たく、硬い、寂しげだった声。あまりにも凛と冷え切っており、それを唐突に浴びた僕は、身体の体温をすっかり奪われたように、身を震わせました。寒い。ひどく寒い。かつてあった甘さも、柔らかさも、温かさも、すべて無に帰し、僕の身を包むのは、暗く沈んだ寂寥感だけでした。せめてもと望んだ、天からの一筋の光。しかしそれさえも、立ち込める濃霧ですっかり薄まり、頭上の光は、遠くの穴の口に、輪郭を失ってぽつんと灯り、僕の元へ届くころには、それはもう月夜の晩ほどの、本当に無頼な、くすんだ明かりになっているのでした。

 僕はしばし、穴の底で途方に暮れていました。何をするにも、気力が沸かず、だからと言って何も考えまいとすると、流星のように、かつての水の姿が、光を放って、闇の中をふっとよぎるのです。切り裂かれた闇からは、愛した水が止めどなく溢れ、僕の頭を掻き乱します。

 暗闇の中、あの温かさを思い出します。あの匂いを思い出します。ひどくリアリティを欠いた追憶でしたが、今の僕には、それしか縋るものがなかったのです。情けない。情けない。もう二度と振り向くことがない相手を、せめて記憶の中だけでもと、今一度振り返らせてしまうのです。優しく波打つ水面。僕を甘く包容する水温。決して淀むことのない水の底。――情けない。情けない。もう、忘れようとも思います。しかし、忘れることは決して簡単ではありません。意識的に無意識になることは、人間にはできないのです。それでも、忘れよう、忘れよう……。だけど、君には僕のことを覚えておいてほしい。僕が君の中を泳いだことを、覚えていてほしい。僕が幸せを感じていたことを、覚えておいてほしい。――これこそ一方的なエゴイズムなのでしょう。ああ、自分が疎ましい。

 僕は立ち上がって、穴から抜け出そうとしました。壁に手を掛け、這い上がろうとしてみました。途中までは順調に行くのですが、ある瞬間、なぜかふっと頭の中を、あの流星が横切るのです。そして、その切れ目から、飛泉のように、美しい想い出が溢れ出るのです。僕は身体が重くなり、どしんと地面に尻もちをつきました。またやり直しです。再び手を掛けようとするのですが、その瞬間、再び流星が横切ります。先刻の記憶が失せる間もなく、次の記憶が溢れ出るのです。堂々巡り。僕は、少しも前に進めません。

 その夜、僕は夢を見ました。僕はあの水の中にいました。温かく、柔らかい、きらきら輝く水の中にいました。僕が泳ごうとすると、水はそれを受け容れるかのように、優しい波を起こしてくれます。ゆらゆら揺れて、僕はその中で無重力を感じ、夢だと気付かず、とても幸せでした。

 夢から覚めたときの、あの空虚な思いは、他に例えようがありません。ぴりっと寒く、恐ろしいほどに暗い。音もなく、光もありません。手を伸ばすと、冷たく固い壁に触れます。僕はこのときほど、夢というものが、この先の未来を映すものであればいいのにと、思ったことはありません。

ひどく、寂しく思いました。ひどく、悲しく思いました。僕は、泣きました。薄暗い穴の底で、人知れず泣きました。潤んだ瞳から、幾筋もの涙が零れ落ちます。ぽたぽたと落ちた涙の粒は、湿った地面に瞬時に吸い込まれます。泣くな、泣くな、泣くな――。

愛するものを失ったということを、身に沁みて実感するときは、別れの言葉を告げられたときなどではない。もう会えないと、知ったときなのだ。

 濃い霧を透過して見える、頭上の仄かな光を見ながら、僕はそんなことを思いました。


それから長い時間が経った、ある日、僕は穴を抜け出していました。壁に手を掛けて、這い上がった記憶などはありません。気が付くと穴の外に居たのです。落とし穴に落ちる以前のように、僕は、一本の道の上にぽつねんと立っており、道の先を見ていました。相変わらず、道の先は不透明でしたが、不思議と木洩れ日は荒く、射し込む光の量が多くなっているような気がしました。僕は振り返って、後方を見ました。

 そこに、美しい情景が、あるのです。かつての美しい情景。しかし、それはただ美しいだけで、もはや僕に感傷をもたらすものではありません。もう誰にも触ることができず、覆すこともできず、消し去ることもできません。永遠は、そこに在るのです。不変なものはないと、人は言います。しかし過去は、不変なのです。過ぎ去った思い出は、不変なのです。

僕はまた道を歩き続けることにしました。舗装の甘い僕の道は、ときおりぐらぐらと揺れ、崩れ落ちそうになります。遠景を見つめても、茫漠としており、期待も不安も見えてきません。それでも歩き続けます。ゆっくりでいい。急ぐことはない。僕の道なのです。この先、心が折れそうになるようなことがあったら、少しだけ振り返ってみればいいのです。温かな情景が、消えることなく、そこに在り続けるのだから。


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― 新着の感想 ―
[良い点] やはり、こだわっていらっしゃる永遠の愛が存在するか、それを求めようとする人が(永遠でなくても一生)実在することへの感動を感じます。 [気になる点] 平凡。 [一言] なし。
[良い点] 身体でふるえました。文体が好感もてます。すべて5です。 [一言] この場所に堕ちた人間は出口が見つかりません。いくつになっても、落ち着ける、ぐっすり眠れるところはありません。「温かな情景」…
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