《第8章:鍵が開けたのは》
夜都は、夢のようでいて、醒めることのない街だった。
その静寂は眠りではない。息を潜めながら、確かに何かを待っている。
弥生は、無人の本屋の前に立っていた。
あの小さな鍵を、掌の中でそっと握りしめながら。
「……どうして、ここに」
見慣れたはずの扉に、見たことのない“鍵穴”が浮かび上がる。
まるでそれは、ずっとそこにあったのに、今になってようやく目に映ったかのようだった。
迷いながらも、鍵を差し込む。
カチリ――乾いた音が響き、扉が音もなく開いてゆく。
中にあったのは、書棚ではなかった。
棚に並んでいたのは、“記憶の断片”だった。
光の粒となった想い出たちが、静かに呼吸しながら、空気の隙間を舞っている。
そのなかの一冊が、ふと弥生の足元に落ちた。
拾い上げると、その紙はやわらかく、どこか心臓の鼓動のように温かかった。
本は、自らページをめくる。
そこに、ひとつの言葉が浮かんでいた。
――「泣いてはいけない、と言ったのは、あのときの私だった」
息が止まった。
忘れていたはずの記憶が、波のように胸を叩いていく。
あの日の夕暮れ。
涙をこらえて背を向けたこと。
母の冷たい背中。
祖母の、小さな温もり。
「……これ、わたし……?」
言葉は喉の奥に沈んだまま、声にならない。
けれど、確かに知っている。
この鍵が開けたのは、本屋の扉ではなかった。
心の奥に閉ざされていた、記憶の部屋。
その入口だったのだ。
夜都の空が、ふたたび微かに軋んだ。
その音は、やさしさと痛みを等しく孕んでいた。
まるで、誰かが、遠くでそっと泣いているような音だった。