《第7章:現の岸に残る影》
朝の光は、遠い夢のように頼りなかった。
それは現実を照らしているはずなのに、弥生の肌の上ではどこか冷たく、透き通ってすり抜けていった。
彼女は教室の隅、窓際の席に静かに座っていた。
外では風が校庭の砂を巻き上げ、誰かの笑い声が、音のない幻灯のように遠く揺れている。
机の上には、開いたままの教科書。
けれど文字は、もう意味を成さない。
ただ紙の上を、視線と時間だけがすり抜けていく。
「ねえ、弥生ちゃん。今日、帰りに――」
「……ごめん」
その一言で、世界が音を失った。
語りかける声も、差し出される手も、しずかに遠ざかっていく。
ひとりでいたいわけじゃない。
けれど、誰かといると、息がうまくできなくなる。
そんなふうに思ってしまう自分が、一番きらいだった。
***
夜。
帰宅すると、母は台所にいた。
振り返らず、ただ黙々とまな板の上で包丁を動かしていた。
「学校、どうだった?」
「……ふつう」
「また、その返事?」
投げかけられた声は、冷蔵庫のモーター音にかき消されていく。
対話は交わされないまま、宙に浮き、音のない壁に消えていった。
その空白を、祖母の声がふわりと埋めた。
「弥生、おいで。今日の空を見たかい?」
縁側に座る祖母の目は、茜色にほどける西の空を見つめていた。
雲間からこぼれる光、遠くで鳴く鳥の声。
「空ってのはね、時々、心の底を映す鏡になるんだよ。
今日は……泣き出しそうな色だね」
弥生は何も言わず、その隣に腰を下ろした。
その言葉のあたたかさが、どこか夜都の空の色と似ている気がしていた。
だがそのぬくもりさえ、今は遠い。
記憶の縁にすべり落ちて、手の届かない場所にある。
夜都の影が、ふたたび足元に満ちてくる。
――現と夢の狭間。
弥生の心は、光と闇のあわいで、しずかに揺れていた。
***
夕空はいつの間にか深い藍に沈み、風も、蝉の声も、どこかへ消えていた。
まるで、時間そのものが息をひそめてしまったかのように。
そのときだった――
弥生は、**“軋み”**を感じた。
耳で聴くのではない。
皮膚の裏で感じるような、世界の裂け目のような、微かなひずみ。
空気が揺れる。
影が、音もなく波打つ。
そして、あの囁き――
「……また、ここに来た」
ふと目の端に、観覧車の影が浮かんだ。
確かにそこにあった。けれど、瞬きを一度しただけで、それは消えた。
弥生は目を閉じた。
眠るのではない。呼ばれているのだ。
――夜都が、再び彼女を迎えに来たのだ。