《第6章:ふたたび触れ合う記憶》
名もなき鍵は、弥生を静かに導いていた。
握るたびに、かすかに熱を帯びる――まるで、誰かの記憶が宿っているかのように。
どこかで見た気がする金属の文様。地図にも記録にもない“なつかしさ”だけが、確かな道標だった。
夜都の奥、忘れられた旧区画。
一枚の塀の向こう、崩れかけた門の前で、弥生は立ち止まる。
「……ここ、だったと思う」
声に出した瞬間、鍵が微かに震えた。
扉は、音もなく、静かに開いた。
中に満ちていたのは、夢と現の狭間のような沈黙。
壁を這う蔦、砕けた硝子――それらの荒廃とは裏腹に、空気だけはどこか柔らかく、深く息づいていた。
それは、幼い頃に一度だけ見た気がする風景。
あるいは、“確かにあった記憶”が歪んで残した残響。
弥生は奥へと歩を進めた。
その先――廃墟と化した図書室のような空間。崩れかけた棚に残るのは、言葉を失った本たち。
ただひとつ。
中央に置かれた一冊だけが、開かれたまま、待っていた。
ページには何も書かれていない。
けれど、そこに指が触れた瞬間、音がした。
それは、風でも誰かの声でもない。
弥生自身の、幼いころの声だった。
「……おかえり」
記憶の中の声。
忘れたはずの“誰か”の気配が、胸の奥で静かに波打つ。
けれど、その輪郭はまだ曖昧で、名前も顔も霧の向こうにある。
* * *
一方、アレンは、夜都の別の路地を歩いていた。
さきほど交わした影人グレムの言葉が、今も頭から離れない。
――「夜に沈むころ、街に忘れていた景色が、勝手に浮かび上がるんだ」
あの言葉は、ただの比喩ではなかったのかもしれない。
アレン自身もまた、忘れたものに導かれているのだと、どこかで理解していた。
ふと、路地の先。
空気がわずかに揺らぎ、“記憶の泡”が、静かに浮かんでいた。
以前よりもはっきりとした輪郭。
それは、過去の亡霊のようでもあり、未来の残響のようでもあった。
アレンが手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、淡い光が溶けるように広がる。
――「また、ここに来た」
少女の声。まなざし。
視線が交差した。ほんの一瞬――けれど確かに、そこに“誰か”がいた。
幻ではない。それは、胸の奥に何かが触れた感覚として、深く沈んだ。
「……名前、思い出せなくても……」
泡がはじける直前。少女の唇が、確かに動いた。
その言葉は音にならなかったが、アレンには聴こえた気がした。
――それは、呼びかけのようであり、祈りのようでもあった。
* * *
その夜。
ふたりはまったく別の場所で、同じ音を聴いた。
遠く、空間の裂け目から漏れるような、古びたオルゴールの旋律。
音階の外れた不完全な音色が、夜の深みに滲み出していく。
その旋律が鳴るたび、世界はわずかに揺らぎ、
ふたりの記憶のどこかが――ふたたび、静かに触れ合った。