《第5章:静かな街が囁く》
アレンは、夜都の裏路地を歩いていた。
灯りの届かない石畳はまだ濡れていて、足音だけが小さく響く。
月のない夜都では、影の方が人より多い。
ただし、それが“襲ってこない影”である保証は、どこにもない。
アレンはそのことを、すでに何度も思い知らされていた。
だから今夜の静けさも、彼にとっては不自然だった。
影たちが、遠巻きにこちらを避けている。
まるで、今の自分に“触れてはならないもの”が宿っているかのように。
ひとつ角を曲がった先、風も届かない路地の突き当たり。
そこに、じっと見下ろす視線があった。
「ここは、静かでいいだろう」
声が落ちてくる。
見上げれば、朽ちかけた建物の屋根。その縁に腰を下ろしていたのは、影人グレムだった。
片脚をぶらつかせながら、彼はいつものように、得体の知れない笑みを浮かべていた。
「……何が“いい”んだ。こんな街の、どこが」
アレンが吐き捨てると、グレムはわずかに肩をすくめた。
「音がないと、人の本当の声が聴こえる。……街が囁くんだよ、夜が深くなるとね」
その言葉がどこかに引っかかるのを、アレンは感じた。
自分の中に“何か”が触れる。けれど、それが何なのかは分からなかった。
「君は、僕のことを何か知ってるのか?」
アレンの問いに、グレムはしばらく黙っていた。
そして目を細め、まるで思い出すように呟く。
「知らないよ。ただ……おまえさんは街に似てると思っただけさ」
「似てる?」
「忘れたふりをしてるけど、すべてを憶えてる。見ないふりをしてるけど、いつも見てる。……そういう奴さ、おまえさんも。街も」
その言葉は、単なる比喩以上の重みを帯びていた。
アレンは応えられなかった。ただ、胸の奥に何かが沈むのを感じる。
グレムは立ち上がる。屋根の上で、影がふわりと形を変えた。
「夜に沈むころ、街に忘れていた景色が、勝手に浮かび上がるんだ。そういう夜が、そろそろ来る」
「……それ、どういう――」
だが、グレムはすでにいなかった。
その姿は、まるで最初から存在しなかったかのように、夜に溶けていた。
* * *
アレンはその場に立ち尽くしていた。
頭では意味のない言葉だと思っても、心のどこかにそれは確かに残っていた。
“夜に沈むころ、街に忘れていた景色が、勝手に浮かび上がるんだ。”
繰り返すたび、喉の奥がざらついた。
まるでその言葉自体が、過去のどこかと結びついているようだった。
歩き出す。
濡れた石畳の上を、無言のままに。
そのときだった。
視界の端が、かすかに揺れた。
空気が、まるで水面のように歪んだ気がした。
アレンは立ち止まり、目を凝らす。
何かが――浮かんでいた。はっきりとではない。けれど確かに“そこに在る”。
それは泡のように柔らかく、けれど、重みを持っていた。
触れれば、破裂しそうで。触れなければ、逃げてしまいそうで。
彼は手を伸ばした。
けれど、指先が届く寸前で、泡のようなそれは溶けるように消えた。
何もなかった空間。
だが胸の中では、確かに“何か”が触れた感触が残っていた。
――また、ここなの。
その言葉が、記憶の底から浮かび上がった。
誰の声でもない。けれど、聞き覚えのある気がした。
アレンはしばらくその場に立ち尽くしていた。
ただ、夜の静けさの中に身を委ねながら、今はまだ届かない記憶の輪郭を探していた。
* * *
その夜。
遠くで、微かに音がした。誰のものともつかない、ゆがんだ旋律。
アレンは気づかないふりをしたまま、ゆっくりと夜都の闇に歩を進めていった。