《第4章:眠りの回廊、幼き記憶へ》
空が、いつのまにか反転していた。
墨をこぼしたような黒ではない。まるで、燃え残った灰だけが天を覆っているかのような、鈍色の空。
弥生は、夜都の中心を取り囲む“暗河”を渡り、南に広がる“眠らない路地”へと足を踏み入れた。
理性の声は遥かに遠く、彼女を突き動かしていたのは、胸の底に巣食う名もなき焦燥だった。
ただ、あの屋敷へ。
巨大な影のように佇む屋敷へと辿り着き、門を押し開ける。
一歩、足を踏み入れた刹那——床が、微かに揺れた。
地面が彼女を拒んだのか、それとも迎え入れたのか、その判別すらつかないほどに。
足音が、しない。
周囲のすべてが、どこか現実の皮を剥がされたように薄い。
水面がひとりでに波立つ。そこに、光のようなものが射した。
「……ここも、知ってる」
弥生は呟いた。理由もなく、懐かしかった。
この道、この匂い、この風の触れ方。
そのすべてが、“まだ言葉を知らなかった頃の自分”に繋がっている気がした。
空間がひび割れる。
その裂け目の先に、誰かが立っていた。
それは、小さな少女だった。
あどけない瞳でこちらを見つめる、その子は――間違いなく、自分だった。
「……わたし……?」
少女は微笑んでいた。けれど、その笑みには影があった。
声は出さない。ただ、静かに、手を伸ばしてくる。
弥生がその手に触れた瞬間、風景が反転する。
彼女は、ひとつの記憶の内部に引きずり込まれていた。
*
それは、かつて暮らしていた家だった。
薄暗い部屋。鍵のかかったドア。
誰もいないのに、誰かの視線だけが漂っている。
「この場所、嫌いだった……」
少女の視点から、世界が見える。
窓の外を見ても、何も変わらない。朝が来ない。夜が続くだけ。
大人の声だけが、壁の向こうで、擦れるように交わされていた。
誰かが怒鳴る。誰かが泣く。
誰もが名前を持っていたのに、少女の名前だけが呼ばれなかった。
「わたしは……どうして、ここにいたの?」
弥生の声は、記憶の空間に吸い込まれるだけだった。
幼き自分は、ただ黙っていた。
だが、その目の奥にある「何か」は、確かに訴えかけていた。
――見つけて。
――わたしを、忘れないで。
再び風景が揺れる。
記憶の扉が閉じかける寸前、少女の瞳だけが、強く焼きついた。
その光景が途切れると同時に、弥生は元の夜都に戻っていた。
膝が震えていた。手が冷たく濡れていた。
だが、それが涙なのか、記憶のしずくなのかはわからなかった。
弥生の手が、ポケットの底に沈む。
指先に、硬いものが触れた。
まるで、ずっとそこにあったかのように、何の音もなく。
それは細く、冷たく、奇妙な意匠の施された鍵だった。弥生は、その金属の感触に微かな震えを感じる。
“誰かが、これをここに置いた。”
それは彼女自身かもしれないし、あるいは、忘れられた誰かかもしれなかった。