《第3章:記憶が触れ合うとき》
夜都の空は、今日も墨で塗りつぶしたように曇っていた。
星の代わりに、言葉にならない“囁き”が降る。
それは、誰かの祈りか、あるいは恐れか。
弥生は、静かに足を止めた。
「……また、変わってる」
昨日まであったはずの建物が、別の姿に変わっている。
朽ちかけた観覧車。ねじれた階段。
そして、ガラスの壁に囲まれた“空白の本屋”。
どこにも客のいない、静謐な空間。
弥生はその扉を開けることなく、ただ、佇んだ。
その時だった。
何かが、自分の中に触れた気がした。
それは風ではなく、音でもなく……記憶のようなもの。
胸の奥で誰かの声が、かすかに鳴る。
――「君は、誰?」
ハッとして振り返る。だが、誰もいない。
けれど確かに“誰か”が、すぐ近くにいた気がする。
その瞬間、夜都の空が微かに軋んだ。
空間の端が、滲むように揺れていた。
まるで、どこかで誰かが、同じ時間に同じ記憶を見ていたかのように。
*
一方、アレンもまた、“記憶の泡”に触れていた。
忘却広場の片隅で、何気なく足を踏み入れた場所。
そこに、小さな泡が浮かんでいた。
淡い光を帯びたその泡に触れた瞬間、
頭の奥で、少女の囁きが響く。
――「また、ここに来た」
知らないはずの声に、なぜか胸が疼いた。
見たこともない顔なのに、その声には懐かしさがあった。
アレンは思わず言葉を呟いていた。
「……誰、なんだ。君は」
泡はすぐに弾け、何も残さなかった。
だが、その余韻は、確かにアレンの中に残った。
誰かを“思い出しかけている”自分がいる。
それがただの錯覚ではないと、本能が告げていた。
彼は立ち上がる。
不意に、夜都の遠く――眠らない路地の方角に、赤い光が走った。
まるで、記憶が呼んでいるかのように。
「……行くか」
アレンは懐のナイフを確かめ、薄く笑った。
その笑みは、哀しみに似た色を帯びていた。
それぞれの場所で、弥生とアレンは気づき始めていた。
自分たちが、どこかで何かを分け合っていることを。
まだ名前も知らない、あの誰かと。