《序章:記憶の風が吹くとき》
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風が、どこか遠くで囁いていた。
それは言葉にならない音だった。けれど、確かに弥生の耳に届いた――まるで、忘れかけた誰かが、記憶の奥から呼びかけてくるような。
彼女は目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸する。夜の空気は冷たく、けれどどこか懐かしい匂いがした。アスファルトのようでもあり、土のようでもあり、夢でしか嗅いだことのない匂い。
気づけば、そこに“街”があった。
灯りはある。人影のようなものも歩いている。けれど、そのどれもが、どこか輪郭を失っている。
名前も、時間も、言葉さえも忘れてしまった街。
ただ、彼女は知っていた。この場所に来たのは初めてじゃない。ずっと昔に、夢のなかで幾度も見た場所――それが、「夜都」。
時計塔は止まっていた。高く、静かに、天に突き刺すように建っている。まるで世界の“時”そのものが、この街では意味を持たないかのように。
とある瞬間、どこかで音楽が流れた。
それは弥生にしか聴こえない旋律だった。優しくて、切なくて、どこか痛みを含んだ音。
――君がすべてを思い出すとき、夜は終わる。
遠くから、そんな声がした。
少女はゆっくりと歩き出す。迷いのなかで、確かに何かを探すように。
夜都の中心、忘却広場へと。
記憶の綻びから零れ落ちた夢が、彼女をもう一度、夜へと連れ戻す。
忘れていたはずの声が、名もなき闇の奥で、静かに彼女の名を呼ぶ。
――そして、夜がまた始まる。