七、蜘蛛と桜
まだ空が明るいことだけが救いだと空を見上げ、なにも起こらないようにと祈りながら歩く壮介は、ふと自分の行き先に人の気配を感じ視線を前に向ける。
夕方の帰宅時間、それなりの人通りがある中一人立つ白い着物の女性は異質な存在感を放っており、道行く人の視線を浴びるが動じることなく立っている。
黒く長い髪は足首まであり、前髪は顔を覆い隠し表情を窺い知ることはできないが、なぜか視線が自分に向けられていることを感じた壮介は思わず後ずさりしてしまう。
ゆっくりと歩き始めた着物女性の足は裸足であることにも不気味さを感じたが、それ以上に長い髪が揺れているというよりは、うごめいているような違和感を感じた壮介は目を凝らしてしまう。
長い髪を所狭しと這いずる小さな黒い物体は沢山ある足を動かし、これまた沢山ある光る目を壮介に向ける。
「ひっ」
悲鳴さえも飲み込んでしまうほどの嫌悪感を感じさせる存在を凝視してしまい、走って逃げようと踵を返すが右腕に鋭い痛みを感じて壮介は苦痛の表情を浮かべる。
「く、蜘蛛っ⁉ う、うわあああっ」
自分の腕の上を這う無数の蜘蛛が、鋭い牙で噛みつき流れる血を啜っているのを見た壮介は悲鳴を上げてしまう。必死に腕を振って蜘蛛を払いのけようとするが、蜘蛛は牙を深く喰い込ませ離れてくれない。
壁に腕を擦りつけ蜘蛛を潰そうと試みるが、逆に深く牙が刺さってしまい痛みから腕を抱えてうずくまってしまう。
腕に力を入れ頭を地面に擦りながらもがく壮介の視界に髪の長い女性の足が入り込む。その足は異常なほど白く、血の気のないうえに所々黒く穴が空いていた。
そのことに異常さを感じるよりも、痛みに耐えるのに必死な壮介はジリジリと近づいてくる足を前にしても立ち上がることができずに、もがきながら四つん這いで後ろに下がる。
汗ばむ顔を上げ見上げた壮介の目には、前髪の隙間から見える耳まで裂けた大きな口でニンマリと笑う姿が映る。
髪の長い女性が骨ばった腕を伸ばし壮介に触れるところまで手が近づく。思わず目をつぶろうとする壮介の視界に黒い塊が飛んできたかと思うと、長い髭の女性は素早く後ろに飛び跳ね塊を避ける。
地面にぶつかった塊は、人の子供程度もある巨大な蜘蛛で天に向けた脚を僅かに動かしていたがやがて動かなくなる。黒い霧になって消えていく大きな蜘蛛の代わりに現れた少女に、壮介は痛みを一瞬忘れる程に安堵感を感じてしまう。
「お前が本体か。大っきい蜘蛛が無駄に妖気をまいているせいで騙されたぞ」
キリッと長い髭の女性を睨んだ柊依は番傘の持ち手に手をかける。
細く骨ばった手を広げると指先から鋭い爪が伸びる。
ゆらりと柳のように揺れた長い女性がふっと消えると次の瞬間には、長い爪と番傘がぶつかり合う。おおよそ爪と傘が奏でる音とは思えない甲高い音と共に火花を散らす柊依と髪の長い女性との攻防は、柊依が番傘から抜いた刀の刃先が首を捉え終焉を迎える。
白い着物を着た首のない体が膝をつきゆっくりと倒れていく。その後ろで長い髪を軌跡のように伸ばし地面に落ちて転がった頭が静かに佇む。
「うっぐっ!」
蜘蛛に噛まれ痛む腕を押え唸りながら後退りする壮介の腕をチラッと見た柊依が、刀を番傘に納めると持ち手に手をかけ腰を低くする。静かに集中しているように感じた壮介が、柊依がなにをするか勘づき止めようとしたとき、腕スレスレに銀色の軌跡が走り壮介の腕に噛みついていた蜘蛛たちがバラバラに砕け散る。
「お礼」
再び番傘に刀を納めた柊依が言ったセリフに、目を丸くして自分の腕を見ていた壮介が我に返る。
「いや、普通やる前に一言尋ねるよね!」
少し大きな声を出す壮介だが、柊依は眠そうな目のまま首を傾げる。
「世間一般はそうするのか。なるほど、じゃあ次は言ってやろう」
それだけ言うと番傘の本体を左手で持ち、右手で持ち手を握る。戦闘態勢に入ったことに違和感を感じた壮介が柊依の視線を追うと、長い髪を四方に伸ばして転がる女性の頭がある。
「消えていない?」
これまで柊依が斬った相手が黒い霧になって消えていたことを思い出した壮介が呟いたとき、長い髪がより合い棒状に絡みあうと八本の脚となって、それらを伸ばし女性の首が立ち上がる。
耳まで裂けた大きな口を開け鋭い歯を見せつけ、血走った目玉をギョロギョロとせわしなく動かす。
頭を中心に伸びる八本の脚の関節を曲げながら歩く様は、蜘蛛のようでニタァっと笑みを浮かべる顔と相成って不気味さをまとう。
「女郎蜘蛛。こんな人里まで下りてくるとは」
ニタリと笑った顔のまま、脚をカサカサと動かし近づいてきた女郎蜘蛛の鋭い足先を、柊依が僅かに抜いた刀身で受け止め弾く。
そのまま大きく後ろに飛んで下がった柊依が壮介をじっと見つめ小さな口を開く。
「壮介」
「な、なんでしょうか?」
思わず敬語で尋ねる壮介に柊依が一言。
「蹴るぞ」
答える間もなく、壮介は柊依の強烈な蹴りを喰らって吹っ飛ぶ。
それは間違いなく女郎蜘蛛との戦闘に巻き込まれないための行動であり、先ほど突然斬りつけたことに対して、早速修正してきたのだろうと言うことは壮介にも理解できた。
だが柊依の放った強烈な蹴りは息もできないほどの威力があり、別の方法、もしくはもう少し優しくしてくれてもいいのではなかろうかと、お腹を押さえうずくまる壮介はそう思うのである。
柊依が番傘で脚先をはじくとそのまま持ち手を抜き刀を振るうが、女郎蜘蛛は残った脚を使いゆらりと顔を下げて避ける。
けけけけっと笑う女郎蜘蛛が口をすぼめると糸の塊を次々と発射する。
圧縮され高密度になった蜘蛛の糸は空気を切り裂き飛んでいき、柊依が避け代わりに当たった壁にめり込んで穴を開けてしまう。
まるでマシンガンのごとく次々と発射される糸の弾丸は、柊依が避ける先々を破壊していく。
「面倒くさい」
壁を蹴り電信柱を駆け上る柊依を狙って放たれた糸の弾丸が電信柱をへし折ったとき、柊依が電線を切ってしまう。
倒れる電信柱から解き放たれた電線は、先端に火花を宿したまま孤を描いて女郎蜘蛛に当たると凄まじい光と衝撃音を放つ。直視できないほどの光の中吹き飛ぶ女郎蜘蛛に向かって駆ける柊依だが、突然ブレーキをかけ地面を滑る。
女郎蜘蛛の脚の隙間から這い出てきた小さな蜘蛛、小さいと言っても人間の掌ほどの大きさの蜘蛛たちが尻から糸を出し飛び上がると、一斉に柊依目がけ飛び掛かってくる。
地面を滑り止まり切ったとこで番傘から柄を引き抜き高速の抜刀を放つ。
「散華」
柊依の放つ言葉が示す通り、小さな蜘蛛たちは一瞬にしてバラバラになり黒い花びらのようにハラハラと宙を舞う。
黒い花びらを押しのけ振り下ろされる尖った脚先を刃で受けた柊依と女郎蜘蛛の視線がぶつかる。
眠そうな黒い目と充血した目、二つの目がそれぞれの顔を映したのは一瞬、先に動いた女郎蜘蛛が複数の前脚を大きく振り上げると一斉に振り下ろす。
刀を持ち迎えうつ柊依だが、女郎蜘蛛の尖った足たちが突然崩れたかと思うと、ふわっと舞いながら元の髪の毛へと解け戻って行く。
髪の毛に戻った脚先は、柊依の刀に巻きつき引っ張ると強引に刀を手から奪い取る。してやったりと裂けた口角をこれでもかと上げる女郎蜘蛛に対し、表情の変わらずいつも通りの柊依が番傘を両手に持つ。
そのまま右手を柄に這わせ番傘を開くと回転させ、仄かに光を宿した露先に宿った光の鋭い刃となり女郎蜘蛛の顔面に食い込む。
「氷雨桜」
柊依が高速で回転させた番傘を振り抜き女郎蜘蛛の顔面を削り切っていく。空中に舞い上がる真っ赤な血は無慈悲に地面へと降りそそいでいく。
それは冷たい雨のようで、その間を霧散する血が真っ赤な桜の花びらが咲いているようにも見えて、残酷だが美しさを兼ねていると壮介は感じてしまう。
閉じられてなおも手の中で回る番傘を握って止めると、真っ二つになって黒い霧へと変わっていく女郎蜘蛛から柊依の刀が落ちる。それを柊依がキャッチすると、くるくると回し番傘に刀身を納める。
「苦い……」
黒い霧から取り出した黒い玉を口に放り投げた柊依が眉をピクッと動かし、舌を出してボソッと呟く。
「あのさ、前から気になってたんだけどなにを食べてるの?」
恐る恐る尋ねる壮介の方を柊依が振り向く。
口の中で飴玉でも食べているかのように黒い玉を転がしているのか、柊依の頬がときどきコロコロと丸く膨らむ。
「柊依は妖を食う」
「食うっ⁉」
妖を食う宣言に驚きを隠せない壮介が柚葉をまじまじと見つめていると、いつの間にか目の前に柊依の顔があることに気がつく。
「うわっ」
互いの鼻先が当たりそうな距離に驚き下がろうとしたときに上げた声と、胸ぐらを掴まれた衝撃に驚いた声が重なる。
「壮介」
「は、はい……なんでしょうか?」
「壮介は甘くて美味しい」
自分のことを「甘い」とか、「美味しい」と言われたときどうして、どう応えればいいのか、これまで生きてきてそんなことを考えたこともなかった壮介は返事に詰まってしまう。
「おそらく今後妖は増えていく。そのとき壮介は狙われやすいから気をつけろ」
「え? どういうこと?」
「壮介は理解力がないのか?」
お互い、コイツ何言ってんだといった顔で目を合わせる。
「妖はおいしい魂が好きだ。壮介は甘い。だから気をつけろってことだ」
「えーっと、つまり……僕は妖にとって餌ってこと?」
「そうだな餌だ。もっと分かりやすく言えばスイーツだ」
どこが分かりやすいのだと、口からでそうになる言葉を押えた壮介だが、目の前にいる柊依と鼻先が触れそうなのを思い出し顔を赤くして目を逸らす。
「そう、それよりも柊依さん……柊依は妖を斬るのが役目って言ってたけど、そんな仕事が存在するなんて聞いたこともないんだけど」
名前を呼ぶことにまだ抵抗のある壮介が照れ隠しも兼ねて、ややぶっきらぼうに質問をぶつける。柊依はそんなことを気にする様子もなく眠そうな目でじっと見つめていたが、やがて大きなため息をつきながらやれやれと首を横に振る。
「いや、なんかすごくバカにされている気がするけど、普通の人はそんな仕事知らないから。僕の方が普通だから」
「柊依の普通は妖がいる世界だ。人に悪さをする妖を見張り、人に仇をなすものがいれば斬るのがお役目だ」
柊依の口から出た『普通』と自身の口から出た『普通』が違うことに戸惑う壮介に柊依は言葉を続ける。
「壮介の普通も柊依と同じなはずだ」
「ど、どういうことだよ」
自分の『普通』が違う『普通』になっていく、そんな気がした壮介の声は大きくなる。
ぐー
小さなお腹の虫が声を上げる。
「柊依はお腹が空きました」
虫の飼い主がお腹を擦りながら、壮介をじっと見る。
「いや、なんで僕を見るわけ?」
「お腹空いた」
「言い方変えても何も持ってないから。そもそもさっき妖を食べたんだよね? なんでお腹空いてるわけ?」
「壮介……妖とご飯は別ものだぞ。食うって言ってもご飯じゃないんだぞ」
「いや、そんな常識みたいな言われ方しても共感できないんだけど」
やれやれといった感じでため息をつきながら首を横に振る柊依に、壮介は大きなため息をつきながら観念し、自分が持っている財布の中にある金額を思い浮かべる。