第三十四夜 二つの幻術
──『幻術』──
この魔術は、他の魔術とは幾分か異なった趣向のものである。
幻術は、人間が持っている五感──視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚──のどれかに働きかけることで、相手に幻覚を見せる術。
故に、自分の感覚だけで発動出来る、例えば火術や風術などと違って、相手の状態や体調、更には心理状態にまで己のイメージ力を浸透させなければならない。そのため、使いこなす以前に、使える人物は極端に少ないのである。
更に言えば、先程も例に出した火術や風術は直接的に相手にダメージを与えることが出来るが、幻術にはそれがない。幻術はあくまで“幻覚を見せるに過ぎない”ため、それ単体で一気に勝利を決めることは難しい。だから、魔力的には使える者でも、態々使おうとは思わない訳である。
クラウドとムーバルは互いのサイドに着き、何時ブザーが鳴っても良い状態であった。
だが、そこでムーバルが動いた。
「ブザーを鳴らすの、ちょッと待ッた」
ムーバルが虚空に向けて大声をあげた。突然のことに観客達はざわざわとざわめき出す。
「テメェラに一つ注文だ……」
そう言って見渡すのは観客席だった。それにより、更に騒がしくなる観客達。
「この試合に関してだが……、一言も声、いや、音を発するな……」
ムーバルの懇願、というよりは命令が続く。
「幻術ッてのはなァ、テメェラが考えている以上に繊細なんだよ……。ちょッとした刺激で術が解けちまう程にな……。だから喋るな。無音でいろ。もし、少しでも音を発してみろ……、ブチ殺すゾ……」
偽りない殺気に充てられ、観客達は息を飲んだ。このような試合を見に来る物好き達なので、極端に気の小さい輩はいないが、それでも無意識に体が震えてしまっている者もいた。
そして、皆が理解する。
──これが、“二つ名”……。
無音の空間が形成され、それを是と取ったムーバルは満足そうに視線を正面に戻した。そう、クラウドの方へと。
「さァ、最高の舞台は整ッた……。これで下手ないちゃもんは付けられなくなッたぜ」
両腕を広げながら言われた言葉に、クラウドは鼻で嗤って応えた。
「ハン……、貴様の幻術は観客のざわめき程度で破れる程脆いのか……。たかが知れるな」
「チッ……、良い度胸じゃねェかテメェ……。非殺だか何だか知らねェが、関係ねェ……ブチ殺すッ!」
簡単な挑発にも激化するムーバル。それほどまでに格下に莫迦にされるのがムカつくのだろう。
「殺れるものなら、殺ってみな……。ま、貴様には到底ムリだろうがな」
ビーッ!
タイミング良く鳴るブザー。何か言い返そうとしたムーバルだが、結局何も言えずにフィールドに足を踏み込んだ。ただ、その怒りは内に溜め込まれていく。
一方、言いたいことを言えたクラウドは、薄ら笑いを浮かべながら同じくフィールドに踏み込む。
そして、互いに数歩歩んで足を止めた。隠れようとする意思は全く見えない。
「まァ正直よォ……、テメェのその勝ち気な性格、俺はキライじゃねェんだよ」
「……あ、ン?」
またもや突然喋り出したムーバル。流石のクラウドも呆気にとられた。
「だが、テメェは弱ェ……。弱ェヤツが意気がる姿ッてのは、俺は大嫌いだ……! 意気がるなら強くなってからにしろッてんだ。だから、俺はテメェを殺す!」
それだけ言うと、ムーバルは両手を胸の高さまで挙げた。掌を向かい合わせにして、その間は約十センチ。
「ただ、だからこそ俺の“代名詞”で決めてやる。有り難く思いな!」
そして、クラウドの目を睨む。睨み付ける。
「……そうか。それは楽しみだ」
クラウドも、ムーバルに負けじと睨み返す。視線と視線がぶつかり合い、火花が散る幻想が見えるほどだ。
そして、二度目の、ブザーが、鳴る──
ビビーパァンッ!!
──や否や、更に大きな音がそれに被さった。
クラウドも、流石に反応出来なかったようだ。ピクリとも動いていない。
そして、静止していた時の中で唯一動いていたムーバルは、一人樮笑んでいた。
「俺の、勝ちだ──」
────ッ!?
ムーバルの宣言で、観客達に驚きが走る。ただなんとか、声をあげずに済んだのは幸いか。
「俺は、試合前に幻術勝負を打診したが、悪ィな……。テメェの勝ち目はハナからなかったんだよ……」
ムーバルは、合わせていた両手を離しながら続ける。
そう。唯一動いていたのは、ムーバルの両手だった。
「俺の最高の幻術は、『拍手』。その名の通り、手と手を打ち付けて起こした音波で、テメェの聴覚に働き掛ける術だ。……どォだ?」
そこで、両腕を広げるムーバル。
「──グニャグニャだろ?」
言われたクラウドは、未だにピクリともしない。その目はグラグラと揺れており、何処を見ているのか分からない。
「まァ、聞いてねェだろォな。自分の視界に戸惑ッて、それどころじゃねェハズだからな」
やはり、クラウドから返答はない。
「今のテメェは、脳震盪を起こした状態と一緒だ。しかも、待っていれば治まる脳震盪とは違い、それは治らねェ」
ムーバルは、試合前に投げ捨てた己の固有兵装〈開戦告げる天の角笛〉に向けてゆっくりと歩を進める。
「理論は簡単だ。さっき言ったように、音波に乗せた俺の幻術をテメェの耳から脳に直接叩き込む。それだけだ」
ここで、一度足を止めクラウドに振り返るムーバル。
「音速より速く動ける人間はいねェ……。つまり、俺の幻術から逃れる術はねェんだよ……!」
そして歩みを再開し、遂に〈開戦告げる天の角笛〉が転がっている場所に辿り着いた。
「………………ァ?」
辿り着いた、筈である。しかし、そこに〈開戦告げる天の角笛〉は無かった。
「おかしいな……。此処だったハズだが……」
頭をかきながら辺りを見回すムーバル。だが、彼の長剣の姿形は何処にも無い。
「…………どォいう事だ?」
流石のムーバルも訝り始めた。少々焦った様子で辺りに視線を這わす。この瞬間、ムーバルの中からクラウドの事はキレイに消え去っていた。
だからであろう。ムーバルが、柄にもなく驚いてしまったのは。
「……そう言えば忘れていたな、〈開戦告げる天の角笛〉の事を」
「──ッ!?」
響いた、響く筈の無い声に、ムーバルは慌てて振り向いた。その方向は勿論、立ち尽くしている筈のクラウドである。
「──なッ!?」
だが、そこには変わらず立ち尽くしているクラウドの姿があった。
「……どォいう事だ……?」
あまりにも理解出来ない状況に、同じセリフを続けてしまった。
(……『拍手』は解けてねェ。まさか……もう慣れたのか、あの歪んだ視界に……!?)
呆然と、そして壊滅的に悠長に、思考の海に沈んでいたムーバル。このタイミングでならば、例え四桁ランカーでもムーバルを倒せてしまうだろう。しかし、ムーバルの視界に入っているクラウドは未だピクリともしない。
「何処を見ている? ほら、貴様の御所望の物は直ぐ後ろだぞ?」
「──ッ!?」
またもや振り返ったムーバル。そこには──、
「ば、バカな……」
先程は確かに無かった〈開戦告げる天の角笛〉が、悠然と地に突き刺さっていた。
「………………」
遂には二の句が告げなくなってしまったムーバル。その目には動揺がありありと現れている。
「……どうした、手に取らないのか? 貴様の愛剣だぞ?」
再三響く、クラウドの声。この声が、ムーバルを追い込んでいく。いや、もう追い詰めた。
「ッ! 何なんだッ!? テメェは一体何をしたッ!?」
急な激昂。人間、追い詰められればやることは限られてくる。
「……何をした? 何をしたも何も、貴様が提案した事じゃないか」
呆れた口調で言い放ったクラウドに、一瞬、呆気に取られたムーバル。
「……なに? テメェ、何を言ってやがる……?」
「分からないのか? “幻術をかけた”と言ってるんだよ」
口をパクパクして声を発しようとしたが、出てこなかった。
「……バカな」
なんとかこれだけ言えたが、先程の弁舌ぶりは鳴りを潜めている。
「ならば、これでどうだ?」
その言葉に慌てて身構えたムーバルだが、その必要は無かった。
「……嘘だろ……」
ムーバルは目を疑った。何故ならば、立ち尽くしているクラウドの姿が、まるでノイズがかかったかのようにブレ始めたからだ。
「信じたか? 貴様は、オレの術中に嵌まっているんだよ……」
「………………。どうやって」
半ば諦めた感が漂い始めたムーバルだが、まだ納得はしていなかった。
「いつかけた? 言っとくが、俺の幻術の発動のタイミングは完璧だった。あれ以上は……ない」
そう言って振り向いたムーバルの視線の先で、クラウドが唐突に現れた。本当に、気付いたら、居た、というような然り気無さで。
「確かに、貴様の幻術ではあのタイミングが最高だろう。だがな、オレの幻術よりは……、遅い」
クラウドは、下駄をカランカラン鳴らしながら左右に行ったり来たりする。
「………………まさか」
「そう──」
そこで止まったクラウドは、ムーバルを見ながら左手で左の下の瞼を引っ張った。まるであかんべぇをするように。
「オレは、視覚で嵌める」
そしてまた行ったり来たり。
「確かに制約はある。相手と視線を合わなければ、かけることが出来ないしなァ」
「だから煽ったのか、俺を……」
苦々しげなムーバル。クラウドはその表情をチラリと見て、口角を上げる。
「嗚呼、そうだ。怒れば怒る程、人はその相手の目を睨むからな。そうすれば、後は簡単だ」
またもや唐突に、今度は消失するクラウド。ムーバルも僅かに目を見開くが、直ぐに表情を戻す。
「貴様が幻術を発動するためには、“手を叩き音を出し、それを聴かせる”、という二工程を踏まなければならない」
今度もまた後ろから。ムーバルはゆっくりと振り向いた。やはりそこにいたクラウド。
だが、今回はそれだけではなかった。
「だが、俺の幻術は“相手の目を睨む”、ただそれだけだ」
二人目のクラウドが続ける。
「一工程で済む幻術が、二工程かかる幻術に遅れを取る訳がない」
三人目が現れる。
「ましてや、こちらは視覚、つまり光だ……」
次々と、ムーバルを中心に出現するクラウド。その数は、そろそろ十に達する程だ。
「光速が」
「音速に」
「敗ける訳が」
「ない……」
順々に喋るクラウド。このまま聴き続けていたら、混乱してしまうこと必至だ。
「俺は、試合前に」
「幻術勝負を受け入れたが」
「悪いな……」
「貴様の勝ち目は」
「ハナから」
「なかったんだよ……」
ステレオと言うのも生易しい、多方向からの同じ声。これだけで、充分な脅威となる。
「……クソッタレ」
小声で悪態づくムーバル。もう、それしか出来ることがなかったのだ。
「さァ」
「そろそろ」
「この不思議な」
「夢幻の世界に」
「お別れを告げよう」
そして、同時に懐からナイフを取り出すクラウド達。その構えには、寸分の違いも見つからない。
「無論だが」
「この試合は」
「オレの勝利で」
「終わらせてもらう……」
「それでは──」
一拍、間が空く。
『さようなら』
この言葉を合図に、クラウド達は一斉に駆け出した。
それを、ただ見ているだけだったムーバルは、
「チッ……」
ここで、意識を失った。
ドサッ……
『えっ…………』
急に倒れたムーバルに、つい声を出してしまった観客達。だが、それを咎める者はいなかった。
試合開始のブザー直後にムーバルが掌を打ち合わせた以降、戦いらしい戦いもせず、ただムーバルが何事かを喋り(観客席にまでは聞こえなかった)、うろうろしていたら、急に倒れたのだ。その間、対戦相手のクラウドは試合開始地点から一歩も動いていない。
そう。当人達は緊迫した騙し合いをしていたが、観客からしてみれば、最低で最高につまらない試合だったのだ。
《……あ、あれ? お、終わり?》
実況も、状況を全く把握出来ておらず、どうすれば良いのか分かっていない。
そんな中、クラウドは一人踵を返し、フィールドから出ていく。一度、首をゴキッと鳴らす。
《……ええー、状況が全く分かりませんが、取り敢えず、『拍手』ムーバル・ヴァンガードが試合続行不可能のようですので、勝者、クラウド・エイト!!》
シーン…………
気まずい静けさが、辺りに漂う。それも仕方がないだろう。
貴賓席に座っているユリア王女と護衛達も、あまりの試合内容に唖然としていた。
「これは……なに?」
ユリア王女は、クラウドを呆然と見つめながら護衛達に尋ねるが、尋ねられた護衛達も何も言えなかった。それほどまでに動きが無かったのだ。
「実力、分かりました?」
今度の質問も、視線は先程と一緒だったが、確実に特定の一人に向けて放たれていた。
「……いや」
当然それを分かっていた護衛の女性だが、上手く言葉が出てこない。
「……でも、まあ、一応、No.13には勝てるということが分かったかと……」
しどろもどろに言葉を探す護衛。
このような雰囲気は、会場全体に広がっていた。なんとも形容し難い結末。待ち望んでいた二つ名対決なだけに、期待を大きく下回った試合に、ある意味度肝を抜かれたのだろう。
だが、その中で、ユリア王女の注目度は、確実に上がっていた。
なんとも言えない空気を残しつつ、No.77『暗殺者』クラウド・エイトとNo.13『拍手』ムーバル・ヴァンガードの試合、ここに閉幕。