日常
「正平お兄…ちゃん……、嘘だよ…ねぇ…」
自身の目の前で、変わり果てた姿となった実兄萩田正平を目の当たりにした海原あいりはショックのあまりその場にしゃがみこんだ。
そしてその実兄の足元には
『弱い自分でゴメン 今までありがとう』
と記された手紙が残されていたのである。
「海原さん、今日もお疲れ様。毎回毎回いつも足を運んでくれて済まないね。」
20XX年の9月中旬頃のとある火曜日、某都心部にある大手出版会社にて、編集者の瀬川健斗がいつもの通り海原あいりが持ち込んだ娯楽誌掲載用の執筆物を受け取りながら労いの言葉をかけた。
「いえいえとんでもないです。私の書いた物をまともに扱ってくれるのは瀬川さんだけなんですから。こちらこそいつもありがとうございます。」
海原あいりはいつもの様に謙遜しつつ、瀬川健斗に頭を下げた。
「ところでさ…、海原さん。君みたいに文才がある子がウチみたいな雑誌の小さな記事で匿名の執筆を請け負うなんてさ、勿体ないと思うんだよね。それにギャラだって大して払える訳でもないしさ。海原さん自身だって本当は実名名義で大きな作品を世に出したいんじゃないの?」
「あ…、いえ。そんな…。そりゃあ私だってもっと自分に才能があれば本格的な小説を世に出したいとは思います。だけど今の自分にはとてもそんな力はないし、第一自分の実名を下手に公開して『万が一の事があったら洒落にならない事に』なってしまうし、瀬川さんにも迷惑をかけてしまう事になるから、やっぱり無理です。」
「あ、ああ…。色々と難しいよね。本当は誰にでもやりたい事をしたり表現する権利はあるのにさ、どういう訳かそういう風に思わない人達がいるんだよね。何でだか分からないけどさ、特にここ最近は、ねぇ…。」
瀬川健斗は申し訳なさそうに海原あいりに頭を下げた。
「それじゃ私、そろそろバイトの時間がありますので失礼します。」
「ああ、引き止めちゃって悪かったね。それじゃ又次の火曜日よろしくね。」
その日の午後からアルバイトの予定を入れていた海原あいりは出版社を後にした。
出版社を後にしたあいりはいつも利用している路面列車に乗り込んだ。
(ああ、今日も疲れた~。と云っても今自分にできる事はこの程度しか無理だから仕方がないか。)
あいりは頭の中でこう思いながら車窓から景色を眺めていた。
(専門時代の校舎内にあちこちあった絵画だけど…、ええっと誰だったっけ。たしかOBが描いたって言ってたっけ…。あっ、思い出した!『井辻大典』だ。あの人もうちらと同じ出自なのに実名で絵画活動してるんだよね。自分にはとてもマネできない芸当だわ…。
時々特別講師として絵画コースの子達が授業を受ける機会があったって聞いたけど、こっちは文芸コースだったから同じ卒業生って云っても全然接点なかったし、正直『先輩』って言われてもいまいち『ピン』と来ないんだよね…。)
車窓から外を眺めながら、ぼんやりと自身の専門学校時代の事を振り返っていた。
気づいたら自宅最寄り駅まであと2駅ほどまでになっていた。途中で数人ほどの中高年女性客が乗車して来た。その時車内はガラガラだったので、彼女達は即座にロングシートに座り込み、大声で雑談を始めた。
「そうそう、そうなのよねぇ~。本当に参っちゃうわよねぇ~」
当初はどこにでもある井戸端会議程度の会話ではあったが、あいりの地元がある最寄り駅に近づくにつれ、『常識及び教養を備えた一般若しくはそれ以上のコミュニティ出身者』であれば耳を疑う様な会話が飛び出して来たのである。
「ねぇねぇ、ちょっと!今乗っているこの車両、もうすぐ例のエリアに到着するんじゃないの?」
「『例のエリア』って何?」
「やぁねぇ~。貴方達だって分かっているでしょ?ホラ、例の『汚れた根性の持ち主』とか『ハイエナ集団』とか、今話題の蓮田先生が云う『我々勤勉な人間を食い物にする穢れた輩共』の居住エリアよ!」
「ああ、あそこね!!!あんな所まともな人間が住むエリアじゃないわよ。第一今私達が乗っているこの電車だってどうしてあんな碌でもないい地域まで繋がっているのかしら?」
「そんな事知ったこっちゃないわよ。どうせリベラルだか人権派だか何だか分からない革新系の活動家がギャーギャー恫喝したんでしょ?」
「あらあら、そこまで言わなくたっても…。でも、まぁ彼らの人間性が変わるだなんてそう簡単ではないけどね。」
「そうそう、そうなのよ!『やってもらって当たり前』『人様の税金を吸い取って当たり前』『自分たちは可哀想な立場なんだから助けてもらって当たり前』って根性が何代にも渡って続いているんだから!」
「ちょっと貴方達!あんまり大声で言うと周りに聞こえちゃうわよ!!!!もしかしたら『彼ら』がここに乗っているかもしれないし、刃物なんか振り回されたりしたらたまったモノじゃないわよ!!!!」
「やだちょっと、物騒な事言わないでしょ。第一私達次の駅で降りるから関係ないでしょうよ。」
先程から言葉遣いこそ上品に装ってはいるものの、『とある集団』に対して露骨に顔をしかめたり、 時にはニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべて下世話な会話を続けていたその中高年女性軍団は、間もなくして降車した。
(ああ、また始まったよ…。まぁこっちとしては今更騒ぎ立てる事でもないけどね。)
あいりは「降車する女性軍団の背中を無表情かつ冷めた目で見つめていた。
路面列車はそのまま進行方向に向かって走り、最寄り駅の1駅手前に到着した。
(さて、私もここで降りよう。)
まだ最寄り駅でないにも関わらず、あいりは1つ手前の駅で降車した。
(だ~れもいないよね。よし、人気はなさそう。)
改札口を出たあいりは周囲に人の気配がない事を確認しながら自転車置き場へと向かい、自身の自転車にまたがって即座にその場を後にした。
ハイハイどうも済みませんでしたね。『汚れた根性の持ち主』で。『ハイエナ集団』で。本当に申し訳ございませんでしたね。『穢れた輩共』で。『税金泥棒』で!!!!!
だって仕方ないじゃん。そんな場所に生まれてしまったモノは。誰も好き好んで『例のエリア』を選んだ訳じゃないんだし。
別にこっちは貴方達に迷惑も何もかけてはいないんだし、むしろこっちがアンタ達がやれ『汚い』だの何だのって文句ばかり言っている事に対してお世話しているんだよ!あのおせっかいオバハン達、本当に大きなお世話なんだよ!!!!!!!!!!!
今更始まった訳ではない事くらい分かっていたあいりであったが、その『出身者』がいる事にも気づかず、傍若無人に大声でベラベラと言いたい放題言いまくる先程の女性陣達に対してイラつきながら、自転車のペダルをこぎ続けていた。
海原あいり 21歳 あと数か月で22歳の誕生日を迎えようとしていた頃の出来事であった。