うわさ探偵 〜扉ノ怪〜
初のホラーです
ちゃんとホラーになってるのかわかりませんが、よろしくお願いします
夜は暗い。街は明るい。
まるで夜の闇を塗り潰そうともがくように、街には溢れんばかりの光が犇めいている。
昼と変わらぬ光の中、まだ営業している店々に吸い込まれては吐き出される人の波。
信号が変わるたび、何かに急き立てられるように疾走する車の群れ。
街は、とても明るい。
だけど忘れてはいけない。
本当は夜は暗いのだということを。
どれだけ光で埋め尽くしても、必ずどこかに闇はあるのだと。
例えばほら、あの路地の先なんかに。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
まだ週の真ん中の平日だなんて関係なく、酔っぱらいと若者たちが増える夜の街は、とにかく賑やかだ。
獣の遠吠えのような笑い声を聞きながら、僕は街を歩く。
駅から続くメインストリートを暫く進んだ先、そこはまだ目的の場所ではなかったが、2人の少女の姿を目にして、歩みを止めた。
制服姿の彼女たちは、アイスクリームを売る店の前で笑いながら、女の子が好きそうなポップな色合いの看板メニューを見ている。
彼女たちの姿を認めて振り返れば、面白くもなさそうに、連れの月見里が頷いた。
「すみません、ちょっといいですか?」
月見里に話しかけられた少女たちは、上げた顔を少し歪め、警戒心を隠しもせずにこちらへ向けた。
そりゃそうだろう。
ただでさえ長身で無愛想なのに、夜の闇を纏ったような黒いスーツを着た男だ。
十代の少女たちには、少しばかり恐ろしく映っているに違いない。
それにしたって、彼女たちの反応は妙によそよそしく、この時点で僕と月見里の予測が当たっているのが半ば確定されてしまい、うんざりした気分になる。
「……なんですか?」
少女の片方、気の強そうな吊り目の子が返事をした。
もう1人のショートカットの少女が、こっそりとスマホを握り締める。
月見里は、目線を合わせるように腰を折って、少女たちに近付いた。
2人の少女は、同時にびくりと体を震わせる。
「最近、噂になってる奇妙な話を知りませんか?」
少女たちの警戒心が、1段階上がった。
これはよろしくない。
もう少しやり方ってものがあるだろうに、これじゃあ直球過ぎて、下手したら事案になってしまう。
僕はすぐさま月見里の肩を掴んで、後ろに引いた。
僕の唐突な登場で、少女たちは警戒を驚嘆に変えていく。
「あははっ、ごめんね。いきなり黒くてデカいお兄さんに意味わかんないこと言われたら、そりゃ怖いよねえ」
隣から「おいっ」と脇腹を小突いてくる奴がいるが、完全無視だ。
だいたい、1か月前にも同じことをして通報されかけたのに、それを忘れてまた事案に発展させそうな奴を気遣えるほど、僕の器は大きくない。
僕はいつもよりずっと気を入れて、和やかな笑顔を作る。
ついでに、帽子とマスクをずらして素顔を見せてから、立てた人差し指を唇に当てた。
「君たちにちょっと話を聞きたかったんだけど、騒がれると困るんだ」
素早く帽子とマスクを元に戻すと、頬を紅潮させた少女たちは、無言で何度も頷いた。
これで月見里への警戒心は消えただろう。
警戒を解くのが僕の仕事で、話を聞くのが月見里の仕事。
後のことは全て月見里に任せるつもりで僕は引こうとしたのだが、少女たちはそれを許してくれなかった。
「あの、いつも見てます『うわさ探偵』」
「私もっ! 『うわさ探偵』の噂、本物だったんだぁ……」
騒がないよう小声で、だけど興奮を隠しきれずにはしゃぐ彼女たちの姿に、僕は一層笑みを深くする。
一刻も早く、彼女たちの側から離れたい。
顔を見せればこうなることを知っていたから、最初から月見里に任せておきたかったのに。
実は、僕が若い人たち相手にこういった反応をされることは、そう珍しくない。
もう少しご年配の方だと何の反応もされないことが多いけれど、この年代の少年少女たちに僕の顔はよく知られている。
動画投稿サイトで不定期配信される人気ドラマ『うわさ探偵』の主役、それが僕の役割だ。
それから、月見里の相棒としての役割も。
だけど、僕が少女たちから離れたい理由は、それとは全く関係ないところにあった。
「この前配信してた、鏡の世界に閉じ込められる話、面白かったです」
「真夜中に死人の声が聞こえるラジオの話も。……あれも全部、本当にあった噂なんですか?」
どうかな、と曖昧な笑顔を返すと、少女たちは見開いた瞳をキラキラと輝かせた。
ドラマ『うわさ探偵』は、奇怪な噂の陰で起こる犯罪を暴く推理ものだ。
妖怪や悪霊、呪いや超常現象などのせいにされて見過ごされている犯罪を、白日のもとに晒していくスタイルが、若者を中心にウケている。
そして、実際に巷で噂されている話が元になっている、というところも。
「まーそんなわけで、黒くてデカい脚本家のお兄さんと一緒に噂を集めてるんだけど。君たちは何も知らないよね?」
彼女たちが僕に対して見せる態度から、これ以上話すべき理由はないと解っていたし、それならばもうすぐにでも彼女たちと離れたかったから、ここで話を切りあげようとした。
そんな考えが透けて見えていたのだろうか。
少女たちの顔から、一瞬で表情が消えた。
紅潮した頬も、輝いた瞳も、全てが消えてなくなる。
1か月前、同じことを聞いたときには、嬉々として怪談めいた噂話を教えてくれた少女たち。
彼女たちはもう、僕たちと話したことも、あの噂のことも全部忘れてしまったのだろう。
僕は必死に、作っていた和やかな笑顔を崩さないようにするだけで精一杯だった。
これだから嫌だったのに。
引き攣りそうな頬をなんとか笑顔に保つ僕の目に、どろりとした白い塊のようなものが、少女たちの背後から肩を伝って、ずるりずるりと這い出してくるのが映り込む。
僕の腕よりも太く長く伸びた白い塊は、蛞蝓のように蠢いて、ねっとりと少女たちの耳と目を塞いでいった。
「噂なんて知りません」
「そうです。噂なんて知りません」
「何も知りません」
「聞いたこともありません」
「しししししりしりしりません」
「ありありありまりまりませせせせんん」
さっきまで興奮して上擦っていた声ではない。
もっと無機質な、電話の自動音声のような乾いた音だ。
滑らかに喋っているのに、抑揚はなく、同じ言葉だけを延々と繰り返す不気味な声。
少女たちの上で蠢く白い塊が、目も鼻も口もないのに、僕の方を見てニヤリと嗤った。
「そうですか、ご協力ありがとうございました」
低く安定感を持って響く月見里の声と、叩くような強さで肩に置かれた掌の温かさで、ハッとした。
白い塊はもうどこにもいない。
背中を嫌な汗が流れていく。
夜でも半袖で出歩ける程度には暖かい気候なのに、寒気が止まらなかった。
「すみません、お役に立てなくて」
「……う、ううん……いいんだよ。それより、次の配信も面白いから。絶対見てね」
「見ます! 私、チャンネル登録してますから!」
「私も! 絶対絶対見ますね!」
別れ際、少女たちに握手を求められた。
小さな白い手が、握った瞬間にどろりと崩れて蛞蝓のように僕の腕を這い上がる想像をしたが、そんなことは起こらなかった。
僕は、最後まで笑えていただろうか。
「あの様子じゃ、もう《喰われ》てたんだろ?」
「僕たちのせいだ」
傘屋、と咎めるような声が僕を呼ぶ。
「ごめん、わかってる。…………確認はできたし、行こう」
「ああ」
月見里が軽く僕の背を叩いた。
僕が見た悍しい光景は、月見里の目には映らない。
月見里だけではなく、僕以外の誰の目にも。
冷えた汗を吸ったシャツが触れて、酷く不快な気分になった。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
僕の肩書きは、俳優ということになっている。
主演とはいえ、ネット上の投稿サイトでしか見られないドラマ1つ出たくらいで俳優を名乗っていいのかは、未だにわからない。
月見里には、脚本家という肩書きがある。
こちらも僕と同じように『うわさ探偵』以外に脚本の仕事なんてしていない。
僕らは、ドラマの元になる《噂》のネタを探すために、こうしてたびたび街に出る。
聞き込みをすることもあれば、投書のこともあった。
僕らが何のために《噂》を探してドラマを配信しているのか。
そんなの知らない。
ただ《上》がやれと言うからやってるだけだ。
それは多分、月見里もそうだろう。
「ここの路地だな」
タブレットの地図を睨んでいた月見里が、顔を上げる。
昼間のように明るい表通りと違い、この辺りは完全に夜の領域だ。
料理屋とも飲み屋とも言えない、飲食店の立ち並ぶ建物の裏手。
エアコンの室外機と換気扇から流れてくる生温かい空気が、肌にへばりつく。
身体に悪そうな、油と煙草の匂いが混じった路地裏の一角で、月見里が立ち止まった。
「ここ? 壁?」
「いや、扉だ。土曜日の0時ちょうど、ここに扉が現れる。その鍵穴に木の枝を差し込むと、自分の死ぬ姿が見えるんだと」
「うへえ」
僕は心底いやな顔をした。
わざわざ自分の死ぬ姿を見るために、こんな所まで来る人なんているんだろうか。
そんな僕の疑問は、意外な形で知らされることになる。
「こらあっ! お前ら、ウチの店のドアに何しとんじゃッ!」
飲食店の裏口と思われる扉が開いて、中から小太りのおじさんが出てきた。
油と煙草の匂いが濃厚になって、僕の体内にまでべとついた空気がじわりと広がっていく。
だけどそんなことはお首にも出さず、僕はいつもの和やかな笑顔を作りあげた。
「お仕事中にすみません。私どもは、こういう者でして」
月見里が名刺を差し出して、僕は帽子とマスクを取る。
遅れて、自分の名刺を差し出した。
「脚本家に……浮気探偵? あんたら浮気調査でもしてんのか?」
「あーいえ……浮気じゃなくて噂です。うわさ探偵」
僕の名刺を見たおじさんが、一気に胡散臭いものを見る目になった。
気持ちは、ものすごくわかる。
何の冗談なのか、僕の名刺にはデカデカと『うわさ探偵』と書かれているのだ。
それもこれも《上》が作った名刺だから、仕方ない。
「噂って……あああっ! あんた、ネットのうわさ探偵か! えっ、本物かよ!?」
若年層にしか知られてないと思っていたけれど、意外なことにおじさんは僕を知っていたようだ。
「あはは……そうです。『怪奇の裏に潜ませた卑劣な罪は見逃さない。オレは、うわさ探偵さ』でお馴染み、うわさ探偵です」
ドラマでお決まりのセリフをポーズ付きで言ったら、おじさんが「おおっ!」と野太い声を上げた。
「いやあ、元々は娘がファンでねえ。この前の話、面白かったよ。まさか鏡が外れて、その向こう側から人を拉致してたなんてなあ!」
おじさんの話が長くなりそうな気配を感じて、僕は月見里を前に出す。
月見里も心得たもので、一瞬だけ呆れた顔を僕に向けてから、おじさんに向き合った。
「ご視聴ありがとうございます。実はその関係で、実際に奇怪な噂のあるところを取材しているんですよ」
「……ああなんだ、そういうことかい。こっちはその噂で迷惑してんだ。面白がってウチのドアの鍵穴に枝を突っ込む奴が増えちまって、先月は2回も鍵を交換するハメになったんだぞ」
僕がうわさ探偵と知ってニコニコしていたおじさんは、噂の話になった途端、僕らをぎろりと睨みつけた。
そりゃあ、今でさえ迷惑してるのに、ネット上とはいえドラマなんかで有名になったら、もっと面倒なことになるかもしれない。
自分の死ぬ姿を面白がって見に来る人たちの気持ちなんてわからないけど、大抵の人は本当に見えるとは思ってないし、実際見えないからこそ気軽に試してしまうのだろう。
僕には、正気の沙汰とは思えないが。
「いえ。奇怪な噂が実は説明できる現実なのだと、ドラマにして否定することによって逆に関心が薄れるんです。実は今までの噂も、ドラマ配信と共に消えてるんですよ。例えば――」
月見里の話を聞いて、おじさんは噂をドラマにすることに乗り気になってくれたようだ。
実際、ドラマの内容だけでどれほど火消しになるかは知らないけれど、僕らが配信すれば確実にその《噂》は消えてなくなる。
それだけは事実に違いない。
「最初に鍵穴に枝が突っ込まれたのは、確か春先だったなあ。そんでひと月前に、娘がSNSで噂になってるって教えてくれてな。その頃からはもう、毎週被害に遭ってんだよ」
僕はさっきから、おじさんの話を熱心に聞く振りをして、扉が現れると噂されている壁から無理やり意識を逸らし続けている。
そんな僕を嘲笑うように、絵筆に似た何かを持った黒い塊が、どろりと動くのが見えてしまった。
意識しないようにしているのに、どうしても僕は横目でそれを見てしまう。
コールタールかヘドロを人の形に固めたような、ドロドロでベタベタな気味の悪いそれは、ちょうど人の口の部分に当たる窪みを忙しなく動かしていた。
窪みは、横になり、丸くなり。また横になり、丸くなる。その繰り返し。
画伯でも気取っているのか、天辺がベレー帽のような形状をしているのが、何となく腹立たしい。
先端に絵筆を持っている部分は腕のつもりなのか、びろりと伸び縮みしながら長くなっていく様は、木の枝を這う毒虫の動きと似ていて気色が悪くて仕方ない。
さっきまでコンクリートの壁しかなかった所には、いつの間にか扉が現れていた。
黒い塊はどろどろと蠢きながら、絵筆を扉の上で踊るように滑らせている。
滑らかな動きのくせして、絵筆が動くたびに、釘がガラスを引っ掻くようなキイキイとした不快な音が脳を揺らす。
全てが不快で、吐き気がする。
扉はもう、半分くらい絵の具に塗れていた。
「鍵にイタズラする人たちを、見たんですか?」
「いやな、捕まえようと思ったことは何度もあるんだがな。今と違って、土曜の夜なんてウチみたいな店は忙しい時間帯だからなあ。気付いたら枝が突っ込まれてるって具合よ」
扉を塗り潰すようにして黒い塊が描いている絵は、くすんだピンク色の何かだった。
筆の軌跡を追うように、ぬらぬらと濡れたような、表面が鈍く光る不気味なものが描かれる。
細いものや、長いもの、丸いもの、少し青みがかったもの。
それらが壁の中で拍動し、蠕動している。
「1度、裏手から笑い声が聞こえたんですぐにドアを開けたけど、誰もいなくてよ。えらく逃げ足の早い奴らだったよ」
「ここから、見つからずに路地を抜けて逃げた? それはまた……消えたと言った方がいいような……」
油と煙草の匂いに混じって、鉄錆のような腐臭のような耐え難い異臭が、息をするたびに容赦なく胃を圧迫する。
懸命に吐き気を堪えようとして、思わず僕は顔を上げた。
だから、見てしまったのだ。
上から僕の顔を覗き込む、黒い塊を。
そいつは、間違いなく嗤っていた。
顔のような丸い部分の、口に当たる窪みを、歪な三日月のようににんまりと曲げて。
しまったと思ったときにはもう遅い。
窪みが、忙しなく動いていた。
横になったり、丸くなったり。
横になり、丸くなり、横になり、丸くなり、横に、丸く、横に、丸く、横に、丸く、横、丸、横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸横丸
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
「うえ……っ」
堪えていたものが、一気に膨れ上がった。
いや、後から考えるに、あのとき僕は必死だったのだ。
必死に、かき消そうとしていたのだ。
頭で考えるよりも先に、反射に近い直感が、あの絵をどうにかした方がいいと全身で叫んでいた。
黒い塊が振り上げた筆が、ぎらりと妖しく光る。
筆が振り下ろされるよりも早く、つんのめるようにして、僕は絵に辿り着いた。
その勢いのまま、堪えきれなかったものを、黒い塊が描いた絵に向けて一気にぶちまけてやった。
「う、おええええええ……っ」
びちゃびちゃと汚い音が、路地裏に響く。
残り少ないマヨネーズや歯磨き粉の容器にやるように、胃の中身を逆さにして絞られてでもいるのか、全てが噴き出して、汚らしく飛び散った。
つんとした胃液の匂いが鼻をつくけれど、それ以外の異臭はもう感じられない。
涙で薄っすらと膜が張って滲んだ視界には、薄汚れたコンクリートの壁だけが見えていた。
「……ぅあ……ずびばせん…………」
目からも口からも鼻からも液体を垂らして情けない顔をした僕が、余程みっともなかったのだろう。
月見里が、ふいっと視線を逸らす。
「ええと……連れが申し訳ない。こいつ酒に弱くて……そこら中からする酒の匂いで酔ったんです。……多分」
なんて酷い言い訳だ。
それでも脚本家かと睨みつけるも、月見里は平然としている。
「ウチも、店で客が吐くくらい珍しくはねえんだが。匂いで酔うほど弱いってのは、不憫だなあ……」
知らぬ間に、どろどろの黒い塊は消えていた。
すぐ耳元で「チッ!」という盛大な舌打ちの音が聞こえたけれど、気のせいだと言い聞かせて、聞こえなかった振りをした。
店の中に戻ったおじさんが、水とおしぼりを渡してくれたので、それをありがたく使わせてもらった。
他人の親切が身に沁みる。
月見里も心配してくれてはいたけど、後で僕がこのとき見たことを話したら爆笑したので、許さない。
他人の薄情も身に沁みた。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
「で、何が見えたんだ?」
街の明かりが、すぐ近くに見える。
こうして暗い場所から見ると、あんなにも必死に闇を追い払おうとして輝いている眩い明かりは、なんて不安定なんだろうか。
闇は、光の足元にだって忍び込むことができるのに。
「どろっとした黒い塊が、絵を描いてた。いや、違うかな…………」
僕は、ペットボトルの水をひと口飲んで、息をついた。
あれから、なんとか吐き気の治まった僕を抱えた月見里に、近くの公園まで連れて来られた。
都会のど真ん中にある、小さな公園。
石造りの冷たいベンチと、申し訳程度の細い樹と、頼りない街灯しかないような公園だ。
子どもが遊ぶようなところではなく、疲れた会社員が休んだり、お昼を食べるために存在しているような場所。
当然、夜になれば誰もいない。
僕らが話をするにはうってつけの場所でもあった。
「あいつは絵を描いてたんじゃないな。切り開いてたんだ。絵筆みたいな何かで、人の体を」
僕は話した。
僕だけが見て、月見里もおじさんにも見えてなかった、あの悍しい光景を。
吐き気を催すほどの、酷い異臭のことも。
脳を揺さぶる不快な音が、誰かが上げた恐怖の悲鳴に聞こえたことも。
「ふん。それで傘屋も切りつけられそうになって……吐いたら助かったって?」
「吐いたらって言うか、黒いのが描いた絵を、僕が上から塗り潰したからだと思う。折角作り出した『芸術』を台無しにされたから、気分を害して絵を放棄したんじゃないかな」
最初は絵を描いてるのだと思った。
けれど、筆の跡を追うように、異臭を放つ内臓の絵が浮かび上がってきたから、描いているのではなく切り裂いているのだと考え直した。
あの絵のようなものが、既にアイツに切り裂かれた誰かの腹の中だったのか、それともこれから切り裂く予定の僕を描いたものだったのか、それはわからない。
どちらにしろ、あの絵をどうにかするという直感に従った僕の判断は、正しかったのだ。
考え込む僕の横で、ふっと息が漏れる音がした。
見れば、月見里が蹲って、体を小刻みに震わせている。
「塗り潰したって、マジか……ゲロで…………アレを退けたのが、マジでゲロったからとか…………」
「ちょ……僕だって必死だったんだよっ! 黒いのは延々と『死ね』って言って嗤ってるし、あの絵が完成したら殺されると思ったんだから!」
「ぶくくッ……人気ドラマの主役が……ゲロで助かったって、おま…………っ、やっぱ最高っ……」
「…………僕の命が助かったのが、そんなにおかしいか」
結局、月見里が一頻り笑って気が済むまで、5分近くかかった。
そこまで面白い話でもないのに、よくもそんなに長く笑っていられるものだ。
結果的に僕は助かったんだし、間違った行動をとったわけじゃないのに。
「ま、この手の怪談ではありがちな部類だな。自分の死に姿が見えるってのは、その場で自分が死ぬってオチ。脚本家としてはクソつまんねえとしか言えないけど……」
月見里がにやりと笑うので、言いかけた「けど」の先を予測して、僕は半目になる。
クソつまんねえ怪談のオチでも、僕らはそれを面白いエンターテインメントにすり替えなければいけない。
それが僕と月見里の《上》が望むことだから。
面白くするために、月見里はこのエピソードもドラマに盛り込むのだろう。
クール系二枚目を気取っている『うわさ探偵』の人気が落ちなければいいんだけれど、などと心配する僕なんてお構いなしに、月見里が面白い脚本に仕立てるところまで想像できる。
僕はそれを、最大限に面白く見えるよう演じるだけだ。
「しかし悪かった。土曜じゃないから油断してた。傘屋の機転がなきゃ、あの場にいた俺たちみんな、怪異の餌食になってたかもな」
「いや……どっちかと言うと、僕のせいだと思う。アレにとっては目が合うかどうかが重要で、曜日や時間は単に人と目を合わせやすくする条件のような気がした。アイツは人が死ぬのが愉しくて堪らないって感じだったから、目さえ合えば、誰でも引き摺り込むよ」
奴らの行動に意味はない。
扉も絵も、全部あの黒い奴が気紛れでやっていただけで、そこに意味を持たせること自体、何の意味もない。
僕らが助かったのは単に運が良かっただけで、絵を塗り潰したから助かったなんてのは完全に後付けの理由だし、逆にアイツを逆上させる可能性だってあった。
もう1度同じことをしたら助かる保証は、ゼロに等しい。
目が合ったから襲い掛かって、その気がなくなったからいなくなった。
多分、それだけのことだ。
「ああ……傘屋はああいうのと目が合いやすいもんな。そういう意味では、あの店のおっちゃんは今まで目が合わなくて良かったというか、幸せ者というか」
おじさんは言っていた。
声がしてすぐ扉を開けたのに、誰もいなかったと。
つまり少なくとも2人は、確実に黒い塊の餌食になっている。
おじさんの言う通り、噂が春頃からあったなら、多分もっと多くの人があの路地裏を訪れているはずだ。
その全員が引きずり込まれたとは思わないけれど、2人だけということはないだろう。
あれだけ明るい街の中でも、すぐ足元で奴らは嗤っている。
ふと、思いついたことが口を出た。
「僕らが集めてる《噂》って、最初に言い出すのは誰なんだろうね」
「そら普通に考えれば、傘屋の言う黒い塊だろうな。もしかしたら、誰かが冗談半分に言い出した噂に黒い塊が便乗してるのか知らんけど……考えても仕方ないし、どっちでもいいだろ」
月見里の言う通りなんだろう。
どうせ僕らのような下っ端は、考えても仕方ないんだ。
大人しく《上》から言われた通りのことをやっていれば、間違いない。
だけどそれでも、僕は考えてしまう。
「黒い塊が人に害を及ぼす《噂》を、俺らがドラマにして拡散する。それをどうやってか知らんけど、傘屋の言う白い塊が関係者まるごと記憶を《喰って》なかったことにする。そういうふうに世の中はできてんだよ」
「……だとしたら、あのどろどろの白い塊は、僕らの仲間ってことになるのかな?」
「さあな。けど、黒いのと違って害はないだろ」
僕は曖昧に頷いた。
害はないかもしれないけど、あの白い塊も多分、悪いものだよ。
喉元まで出かかった言葉を、無理やり呑み込んだ。
見えるものが全てじゃない。
だけど、見えなければわからないこともある。
きらびやかな夜の街で出会った、2人の少女の姿を思い出す。
どろりとした白い塊は、彼女たちの背後からずるりと這い出してきた。
…………いや。
あれは、彼女たちの中から這い出してきた。
無機質なあの声は、彼女たちの意思ではない。
ではどこまでが彼女たちの意思だったのだろうか。
そもそも、彼女たちは1か月前に僕らが出会った少女たちと同じ少女だったのだろうか。
白い塊を身の内に飼う彼女たちは、まだ人間と呼べるのだろうか。
そんな曖昧な人間が、この街にあとどれだけ潜んでいるのだろうか。
この状況を意図的に招いているかもしれない《上》とは、何者なんだろうか。
もしも噂をばら撒くところから《上》が関わっているとしたら、僕らは黒い奴を餌に白い奴を養う片棒を担がされているのだろうか……
「そっか。そうだね」
僕は、月見里の隣で和やかな笑顔を作る。
誰よりも『うわさ探偵』を、いや傘屋という俳優を見てきた月見里は、僕が演技していることくらい見抜いているだろう。
恐らく、僕の考えていることまでも。
それでも彼は何も言わない。
何故なら、月見里は見えないから。
だから僕も、見えない月見里に、僕が見たことは必要以上に話さない。
言っても仕方ない。
考えても仕方ない。
僕らはただ、言われたことをやるだけ。
誰が何のためになんて、どうでもいい。
そうやってこの世界は、あやふやな均衡の上で成り立っているんだから。
気を抜けば足元から怖気が這い上がって来るような、悍しい世界の歯車として、僕らは綱渡りのような今日を生きている。