ふたりは、うわの空
うわの空、とはどんな空だろうか。
スマホから顔を上げ、なにやらぽやんとした表情をしている由布を見て、ふと思った。
土曜日の午後。俺は由布の家にお邪魔していた。
うちのばあちゃんが漬けた梅干しを届けるためだが、理由がなくても来ていただろう。貸したい本もあったし、ゲームも一緒にやりたいし。
小学生のころから変わらない。昔みたいに玄関で「由布ちゃん、遊ぼー」なんて声をかけたりしないだけで、結局やることは一緒に遊ぶ、だ。
今は梅干しを由布のお母さん……美津さんに渡し終えて、そのお礼にとジュースをごちそうになっている。
さらに美津さんは、キッチンで俺たちのおやつを作ってくれている。おつかいをしただけでそこまでしてもらっては申し訳ないと遠慮したのだが、すぐできるからリビングで待っててとソファに案内された。
由布は手伝おうかと腰を上げかけるが、美津さんは、今日はひとりで作りたいの! とつっぱねる。由布は肩をすくめながら俺の隣に座り直した。
「お母さん、お菓子作りがしたい年頃なのかなあ」
由布はふふっと笑いながら、親に向かってそんなことを言っている。
美津さんは少々細かいことが苦手らしく、きれいに切ったり丁寧に量ったり、といった料理は得意ではない、とよく口にしている。
だけど菓子作りにあこがれはあるらしく、簡単に作れそうなお菓子のレシピを検索するだけで満足していた自分から脱却する、と燃えていた。
由布は美津さんとは正反対で、細かい作業は大好きだ。砂糖や小麦粉などの材料を量るのも、クッキーの形をととのえるのも。コツコツじっくりやり遂げる。
「わたしが細かいことするの意外だねーって、友だちには言われるんだよねえ。ぼーってしてるからかなあ」
以前、由布がクッキーを手作りしたことを友人に話したとき、ひどくびっくりされたらしい。
「ああー……まあ、ぼんやりのプロだからなあ、由布は」
「プロ? そんなに? 知らない間にぼんやりの技術を磨いちゃってたかあ」
「磨いてるねえ。俺が見てる間だけでも十年は」
「そっかー」
由布は少ししょんぼりした表情を作ったものの、すぐに口の端を上げて笑った。自分の口調が笑いのツボに入ってしまったらしい。何度も「そっかー」を繰り返す。
俺も合いの手のように「そうだなー」を差し挟む。意味はまったく分からないのに、繰り返しているうちになぜか楽しくなってきて、ふたりで「へへへ」とだらしのない声を出して笑った。
こういうのって、あとになって、何がおかしかったんだろう……と謎に思うやつだよなあ。由布との長い付き合いで、そういうたぐいの謎はたくさん積み重なってきている気がする。解こうともせず、ただ積んでおいて時々ながめてはニヤついてしまうような、そんな謎。
友人から来たメッセージに返信するから、と由布はスマホを手に取った。俺もゲームにログインをしておこうと、同じくスマホに触れる。しばらくの沈黙。聞こえてくるのは、菓子作りを順調に進めていると思われる、美津さんの鼻歌だけ。
数分して顔を上げると、メッセージのやりとりを終えたらしい由布が、夢見るような表情で、視線を中空に向けていた。
絵に描いたような「うわの空」だった。話題にした直後に「ぼんやりのプロ」の熟練の技が見られるとは。
いつもなら、ああ、また妄想の世界に旅立ってるんだなと納得して、そのまま流すところだ。数十秒すれば戻ってくるし。
しかし今日はなんだか、その遠い視線が気になった。ので、尋ねてみることにする。由布のうわの空はどういう空なのか。
「由布、なんか嬉しかったことでも考えてるのか? なんかぼわーっとした顔して、めっちゃうわの空だったぞ」
「ぼわーっと? え、そんな顔してた?」
自分の頬を手でさすりながら、由布はこちらの世界に帰ってきた。おかえり。
「出てたっていうか、顔全体が緩みきってた。今日の昼、おにぎりだったのか?」
「ううん、今日はカレー! それも幸せ~だったけど、考えてたのはそれじゃなくてね」
由布はスマホをするすると操作して、俺にある画像を見せた。
「……入道雲?」
「きれいでしょ? さっき友だちが送ってくれたんだ。すごいなーってこの写真に見入ってたら、そういえば前、わたしも面白い形の雲撮ったなあって思い出して……」
言いながら、由布はふたたびスマホをスクロールして、画面を俺に向けた。
「お、この雲の形は……猫か?」
由布が撮ったというその雲は、斜めに向いた猫の顔に見えた。耳が付いてる。
「ええー、レジ袋じゃないー?」
「え、なんで」
俺には猫の耳に見えた部分が、由布にはレジ袋の手提げに見えているらしい。あれ、こんなやりとり、前にもしたような……?
首をかしげていると、由布は嬉しそうに俺を指さした。
「やっぱり然くん、おんなじこと言った! 前も猫だってゆずらなかったもんねー」
「ああ、これ、中学で行ったキャンプの時の写真か」
「大正解! わたし達が猫だレジ袋だって言い合ってたら、周りのみんなも入ってきて、うさぎとか旗とか、新しい意見が出てきて結論出なかったんだよね」
「雲の形もどんどん変わってくしな。最後にはちぎった牛乳パン、ってことになってたな」
「そうそう、なつかしいー」
なんだ。由布の「うわの空」は、思いのほか、俺とも共有できるものだった。
その後、美津さんお手製のボックスクッキーが焼き上がり、ごちそうになった。
切り方にムラはあるものの、うまい。バターのいい香りがする。
バターといえば……小学生のころ、由布が菓子作りの材料を買いに行くとき、美津さんに「買い物に付き合ってやって」とよく頼まれたっけな。由布ひとりだと、必要のない材料を買ってしまったり、他の魅力的なものに引き寄せられてなかなか帰ってこないからって……。由布はやっぱり、昔からぼんやりだった。料理の手際はいいのに。
「あー、然くんもうわの空!」
由布の声にはっとして、俺は現実に戻ってきた。
「由布の菓子作りの材料を買うのに付き合ってたこと、思い出してたんだ」
美津さんは覚えていたらしく、クッキーをかじりながらうなずいた。
「ああー、由布ってば、カラースプレーのチョコ、家にストックあるのに何個も買ってきちゃうから、然くんに監視してもらってたんだよねえ」
「そんなこともありましたねえ。由布は『かわいいからいくつでも欲しい』とか、意味不明な供述を繰り返してました」
「えー、そうだっけ?」
三人でクッキーとお茶を囲んで談笑する。お菓子作りというワンテーマだけでも、思い出話は次から次へと湧き出てきた。
食器の片付けは俺と由布でやることにした。キッチンの流しに二人並んで、食器を洗う。
「由布のうわの空、どこを飛んでるんだと思ったら、俺と雲の形の話してるときだったんだな。俺も知ってる空だった」
スポンジで立てた泡が雲のように見えて、俺はそんなことをつぶやく。由布はその泡をすくってちょん、とつつきながら答えた。
「あはは、それは、然くんとわたしがいつも一緒にいるからだよー」
「……そういやそうだな」
普通に答えたものの、あまりにも屈託のない由布の言葉に、なんとなく気恥ずかしい気持ちになった。
いつも、一緒。
由布と一緒なのは、もはや日常だし、今さらだ。だけど、ふとぼんやりしたとき、お互いのことを思い出すって、なんかこう……。
「同じ『うわの空』を飛べるくらい、一緒にいるって、すごいよね!」
にこにこと笑いながら、由布はダメ押しをする。
由布の奴。恥ずかしいから、俺は言わなかったのに。