バイト
アルバイトの語源はドイツ語で、英語では、パートタイムが正式名称であることを、社会人になってから知った。でも、大学時代、私が時給で働いて、金銭を貰っていた行為は、バイトだ。アルバイトだと堅苦しいし、パートタイムだと、主婦が行うパートと混同してしまう。若い頃、金銭を貰うために時給で働いていた行為には、バイト、の呼び方が、私にはしっくりくる。
大学時代、貧乏学生だった私は、いろいろなバイトをした。長続きしたバイトは、塾の講師や家庭教師など、主に頭脳労働に関する分野だったが、肉体労働系のバイトも、お金欲しさに、試すことは試してみた。住んでいたアパートの近くにできた、サッカースタジアムの警備のバイトは、不手際で管理会社の方に怒られることもあったが、バイト自体は楽しかった。卒業論文や、他大学への大学院入試といった、人生を左右するイベントが目白押しの大学4年から始めたそのバイトは、塾講師や家庭教師のバイトも抱えていたため、左記との時間的な両立が難しくなり、2ヶ月勤めたところで、事情を説明した上で、一旦、先方に籍だけを残し休止にしてもらい、結局、戻ることはなかった。
大学入試に失敗し、2年間の浪人の末、私立大学の工学部に進んだ私だが、共働きだった両親は、少ない給料を、身を切る思いで、私に仕送りをしてくれた。私もその思いに応えるべく、単位を取る勉強に励み、大学3年を終了するころには、卒業に必要な単位が揃っていた。いわゆる、滑り止めで入った大学であったが、大学入試で培った知識を陳腐化させて遊ぶほど、私は思いっきりのいい人間ではなかった。大学の教授陣も、あくまで導入部分で中学校や高校で学んだ内容からはじめ、大学で扱う知識を講義で展開してくれるため、進学校である高校で味わった、授業内容が分からない、という不安も殆どなく、新しい知識を吸収できることに、喜びと面白さを感じていた。大学の勉強を優先させたため、アルバイトを始めたのは、大学2年の終わり頃だったが、大学4年の終わり頃には、アルバイト代で約100万円の貯金ができた。大学生のアルバイト、というと、大体が遊びに使うものと思われがちだ。しかし、私は、大学3年生頃から、他大学の大学院への進学を考え始めるようになり、アルバイトで稼いだお金は、その大学院に在籍する際に生活する生活費に当てようと考えていた。実際、私は、大学4年生の時、ある地方の国立大学の大学院の修士課程に合格することができ、アルバイトで稼いだお金は、その大学院に通う際に借りたアパートの2年間の家賃と敷金、礼金になった。大学と大学院で専攻を変えたため、進学した大学院では、指導頂いた教授陣に多大な迷惑をお掛けしたが、何とか修士課程を2年間で卒業することができた。アルバイトを始めた大学2年生の頃は、同級生に、
「親父が働かないから、バイトで学費を稼いでいる。」
という猛者にも影響を受け、大学院に通う予定の2年間にかかる生活費、学費の大部分をアルバイトで賄う野心があったが、大学の講義とバイトの両立は難しく、結局、家賃以外の生活費や授業料は、両親に負担してもらうことになった。その際、父からは、2浪しているから、学部卒で就職してもいいのでは、と勧められたが、私はその時点で、とても会社で通用する学力や技術があると確信が持てず、大学院で更に研鑽を重ねることを、父に願い出た。合格した大学の大学院が、日本で上から数えた方が早いくらいの有名国立大学だったため、父もなんとか進学を了承してくれた。
学生時代、適正があったバイトであっても、すんなりと事が進んだことは、あまりない。基本、中学生の高校入試対策の個別指導の塾講師として、週2コマ、家庭教師として2人の生徒を教えた経験があるが、塾講師のうち1コマは、途中で生徒が辞めてしまい、最終的には週1コマになった。家庭教師で教えていた2人のうち1人は、中学2年生の途中から教え始めたが、中学3年生になっても思ったように成績が伸びず、中学3年生の夏休み開けに、突然、家庭教師の契約を辞めたことを、保護者の方から通達された。家庭教師に関しては、個人契約ではなく、紹介会社を通じての紹介であり、保護者の方は1ヶ月前から契約解除を依頼しており、保護者側には落ち度がなく、問題があったのは、契約終了まで連絡がなかった、紹介会社の方だった。ただ、私も9月になって更に受験モードに移行しようとした矢先、いきなり契約終了を言い渡されたので、その場では結構驚いた。保護者の方から事情を聞くと、1対1の家庭教師での学習より、塾での集団授業の方が、効果があると考えたらしい。8月はお試しで塾の夏期講習に参加し、9月から本格的に入塾したそうだ。そう説明されると、自分の指導力のなさを自覚すると共に、これまで生徒の成績が上がらなかったから仕方ないか、と腑に落ちるところもあった。
個別指導で長期に教えていた生徒は、課外活動でサッカーのクラブチームの下部組織に所属していた、と記憶している。私も、クラブチームの下部組織から見たら、素人と同義だが、一応、小学校4年生から高校3年生まで、学校のサッカー部に所属していたこともあり、たまに生徒と雑談する時、サッカーの話で盛り上がったことを憶えている。その生徒は、これまでサッカー中心で勉強をしっかりしたことがないだけで、勉強の習慣と考え方のコツを教えたら、あとは勝手に成績が伸びていった。最終的には、私立高校の強豪サッカー部に推薦入試での入学が決まり、本人は、高校のサッカー部での飛躍に、心躍らせていた。
家庭教師として週1で教えていた生徒には、中学3年生の4月から、高校受験に向けて、勉強の面倒を見るためにその生徒の親御さんに雇われた。最初、学習方針等を決めるために、親御さん、生徒本人、私で3者面談を行うのだが、その3者面談は、なかなかパンチが効いたものだった。紹介会社から指定された日時、指定された一軒家を訪れた私は、その家の居間に通された。そこには、男性の老人、金髪ボブの女性、男の子が3人、座って待っていた。私が通っていた大学は、自由な校風だったため、私は、いろいろな髪型や色の学生を見てきたが、30代と思われる女性の金髪ボブの方と話すのは、今回が初めてであり、内心、多少の驚きはあった。私は、その驚きを表情に出さないようにして、今後、受験までの1年間の目標や、学習計画について、親御さんメインに話を進めた。もちろん、受験するのは生徒本人であり、本人がやらない限り、成績は伸びないのだが、生徒が自発的に勉強に集中できる環境を作ることも、意外と重要な要素であり、環境に関しては、親御さんの協力が必要である。私は、教えることは教えられるが、週1回、教えてもその後、何もしなければ、成績は伸びずに、また同じ勉強を繰り返し、成績が伸びないまま、受験を迎えることになる、と会話の端々で繰り返した。すると、金髪ボブの女性、ようやく、男の子3人のお母さん、という事を私が認識できた訳だが、お母さんは、煙草をふかしながら、
「その事は、私ではなく、本人に言ってください。」
と返された。3者面談を進めていくと、お母さんは、見た目とは別に、社会常識がある発言をしているし、3人の男の子のうち、指導することになる、長男の男の子も、性格が素直であることが分かった。当時、私は煙草を吸っていたが、流石に初対面で、初めて伺った家で煙草を吸う訳にもいかず、煙草を吸いたい昭堂をぐっと堪え、3者面談を進めていった。3者面談の結果、指導する生徒に関して、現在の状況では、公立高校で受かる可能性のある高校を探すことが難しく、まずは公立の高校に受かることを目的に、成績を上げて欲しい、という要望であることが分かった。私立高校も考えない訳ではないが、公立高校を第1志望で考えたい、というお話であった。3者面談の後、2階の勉強部屋で、生徒との指導の時間となり、まずは実力を図るべく、数学と英語で、教科書から数問ずつ抜き出し、10分程度で時間を区切り、小テストをやってもらった。すると、半分ぐらいは解けるが、半分ぐらいは意味不明な回答が返ってきた。ただ、私が間違えた所を指摘し、その生徒にもう一度解いてもらうと、すぐに問題が解けるようになっていた。この生徒も、勉強の習慣と演習が不足しているだけで、理解力が乏しい訳ではなかった。この生徒には、基本、学校の教科書をベースに指導していき、まずは、今の中学3年生の授業についていくこと、そして、合間をみて、中学1年生、2年生で学んだことを復習することを習慣つけた。結果、中学3年生の1学期の期末テストで、科目のばらつきがあるものの、国数英理社の5教科で、ほぼ平均点を取るまで、学力が向上した。それまで、中学に入ってから、下位に沈んでいた成績が、中間くらいまできたので、本人も勉強に対するやる気が出たように、私からは見受けられた。そこから、その生徒の成績は、成績は大きくは伸びることはなかったが、志望校選択の時まで、学年の中間クラスの成績を維持し続けた。その頃には、親御さんとも意思疎通が取れるようになり、月1回の3者面談は、お母さんも私も、煙草を片手に、和気藹々と面談を進めていった。その生徒との通常のやり取りで、印象に残っていることは、彼も中学でサッカー部に所属していて、私もサッカーの経験があり、サッカーの話で盛り上がった時、世の中には、大学でスポーツに関して研究している研究者がいるよ、ということで、具体的に、野球のピッチャーが投げる変化球に関して、航空力学の解析手法を使って変化量を解析している研究のことや、サッカーの戦術について研究している方がいることを、彼に伝えた。その時は、普段の指導の時よりも、明らかに目の輝きが違っていて、知的好奇心に溢れた顔をしていた。秋が過ぎ、冬に差し掛かる頃、その生徒の志望校選択の時期となり、私も卒業論文のテーマに対し、幾重にも重なった行列式を組み、解法を与え、そのシミュレーション結果に一喜一憂していた。その頃は、バイトと通学と寝る時間以外は、起きている時間のほとんどを研究室で過ごしていたが、夜8時を過ぎた時、急に私の携帯電話が鳴り始めた。電話の主は、金髪ボブのお母さんで、志望校に関して、指導している生徒が悩んでいるとのこと。その日は、指導の日ではなかったが、私は、動かしているプログラムを中断し、研究室に断りを入れて、急ぎ、生徒の家に向かった。家について、お母さんから簡単に事情を聞き、生徒が待つ2階の勉強部屋に向かった。その生徒は、学校の志望校調査に対して、現在の成績で確実に受かる可能性の高い、ランクを1つ落とした高校に志望を出すべきか、現在の成績よりランクを1つあげた高校へ志望を出すべきか、で悩んでいた。この相談にのることで、時給は発生しないが、それではあまりに無責任だ。私は、自分の考えである、現在の成績よりランクを1つあげた高校へ志望を出した方がいい、と勧めた。理由は、現時点で、学年平均の6割ぐらいの点数を取る実力があり、ランクが高い高校の合格のボーダーラインが7割だったからだ。試験当日までまだ2ヶ月以上あり、ここから勉強をすることで、6割取れる学力を7割にまで上げることは可能だ、と力説した。30分程、生徒と私の意見交換をしたところで、その日はお開きになった。お母さんには、何度も御礼を言われたが、
「これも仕事の内なので。」
と私は伝えた。私は、夜10時過ぎに研究室に戻って、卒業論文の研究を再開させた。後日、中学校の先生、生徒、お母さんとの3者面談が行われ、公立高校のランクは1つ下がったが、併願で私立高校を受けることが可能になった、とお母さんから電話連絡があった。お母さんからは、公立高校のランクは1つ下がったが、私立高校の併願が貰えるとは思ってもいなかったので、これはこれでありがたいことだ、先生のお陰だと、電話口で感謝された。私は。頑張ったのは、生徒本人ですから、と伝え、これからの受験期に向けて、さらに頑張っていきましょう、と応えた。その生徒は、受験期に入っても手を抜かず、学力をキーブし、私立高校と公立高校、どちらも合格を手にした。そして、4月から、家から電車で通える公立高校に進学することが決まった。私は、現在、通っている大学ではなく、別の地方にある大学院に進学することが決まっており、3月にはその地方に引っ越すため、2月末までがその生徒との指導の契約になっていた。2月の終わりに、最後の挨拶も兼ねて、3者面談を行ったが、お母さんからは、感謝の言葉を多く頂いた。特に、次男が4月から中学3年生に上がるので、できれば先生に、その子の指導もお願いしたかった、と言われた時には、心から嬉しかった。最後の訪問まで、その家族の中で、お父さんの姿を拝見することはなかったが、私は、家庭教師として教えるにあたって、いらぬ詮索をする必要はないと感じ、敢えてお父さんの事について聞かなかった。お父さんがいなくとも、その家庭は、おじいさんとお母さんで、お父さんの役割を担っており、子供たちもその事に不平不満を言うこともなく、その状態で完全な調和が取れているように私には思えた。
翻って、私が経験した中で、一番、肉体的に辛かったバイトは、引越し業者のバイトだった。大学3年生の冬休み前、たまたま日曜日に時間の空いた私は、大学の友達と一緒に、日給1万円を貰えることを目的に、とある引越し業者の1日アルバイトに電話で応募した。電話で簡単な申込みをするだけで、アルバイトに採用になった。電話で指示された日曜の朝7:30に、友人と一緒に、その引越し業者の事業所を訪れた。アルバイトで訪問した旨を伝えると、事務員の方から、その引越し業者の上着のユニホームを渡され、ユニホームを羽織って、屋上の小部屋で待つように、指示を受けた。言われた通り、ユニホームを羽織って、屋上の小部屋に向かい、扉を開けると、私と同年代の青年が数人、斜に構えた格好で座っていた。知らない青年達には、とても話しかける雰囲気では無かったので、私と友人は、部屋の開いている空間に身を寄せ、業務開始時間が来るのを待った。朝8:00頃になり、事務員の方が扉を開け、簡単な説明を受けた後、各人バラバラに、従業員の方に連れられる形で、トラックに乗り込んだ。私は、長髪の30代くらいの従業員の方と、20台後半の従業員の方、3名でチームを組むことになった。従業員の2人は、面識があるらしく、冗談を言いながらトラックを運転していたが、トラックの後部座席で体育座りを命じられた私は、1人、蚊帳の外だった。トラックで20分程移動した後、引越元の高層マンションに到着した。トラックは1階で、引越先の住宅は、5階にあり、4人家族の荷物があるようだ。私は、2人に命ぜられるまま、階段を使って、ダンボールの荷物を5階から1階に移動させた。最初の数往復は、何とか従業員の方のスピードについていったが、大学浪人時代や、大学3年生までに、しっかりとした体力づくりをしなかった体は悲鳴をあげ、私は、荷持は落とさなかったが、階段に足を取られ、転んでしまう場面が多くなった。従業員の2人は、私のその様を、虫を見るような目で眺めていた。最終的に私は、午前中で腕の筋力と握力がなくなってしまい、荷物を持ち上げることが困難になりつつあった。その様にしびれを切らした2人からは、罵声を浴びせられたが、致し方ないと自分の中で割り切り、やれる範囲で荷物を運んだ。2人の活躍で午前中に荷物をトラックに運び入れることができ、午後からトラックで別方向に20分程移動した引越先で荷物を降ろし、新居に運び込む段取りとなった。2人には日常茶飯事の作業だったらしい、特別体力を消耗させることもなく、引越先の近くのスーパーにトラックを駐車させ、昼休みになった。2人はうなぎを食べに行くといっていたが、貧乏学生の私に、そのお金はない。迷っていると長髪の方から、
「一緒に来なくてもいいよ。ただし、バテるから水は飲みすぎるな。」
と声がかかった。私は、そのアドバイスに従い、パンと、500mlのコーヒー牛乳をトラックで食べて、昼食を終えた。2人がうなぎ屋から昼食を終えて戻ってきて、引越先に移動し、引越作業が再開された。引越先も高層マンションで、階数は4回だった。作業が再開されても、筋力が戻る訳ではないので、私は、2人からずっと罵倒し続けられた。これだけ罵倒されたのは、ここ数年では、記憶にないくらい、罵倒された。ただ、指摘自体は至極真っ当だったので、私は、自分の心が2人の罵倒によって複雑骨折を起こしているのを感じながら、時間が過ぎるのを待った。途中、私が転んでしまい、1人から罵倒される様を、依頼者うちの1人の子供に見られた。その子供は、すごく哀れなものを見る目で、私を見ていた。その子供の目の色を、私はいまだに忘れることができない。冬の日没は早く、引越が終了する頃には、既に日が暮れていた。私は、行きと同じ様にトラックの後部座席に体育座りをして、気配を消していた。従業員の2人は、他のトラックが次の仕事を得て、現場に向かったことを、羨ましそうに話していたが、私は、ここで仕事が終わることに、内心、ホッとしていた。事業所に戻り、お金の申請の仕方を長髪の従業員の方から丁寧に教えて頂き、私はアルバイト代を頂くことができた。20代後半の従業員の方からは、厳しい激と共に、
「もう数回、現場で実績を積めば、絶対続けられるから。」
とこれまでにない熱い言葉を頂いたが、心が複雑骨折していた私は、曖昧に返事をすることしかできなかった。引越のアルバイトが終わり、同級生を見つけ、2人の帰り道の途中にある、私のアパートで少し話していくことになった。同級生も私と同じような状況だったらしく、アルバイト開始時の雰囲気が悪いこと、アルバイト中の従業員の態度が悪いこと、などをお互い、愚痴っていた。今後、いくら高給であっても、引越のアルバイトだけはしないと、お互いに堅い決心をしたところで、体力的に限界でもあったため、その会はお開きになった。次の日は、全身筋肉痛だったが、大学の講義には出席した。後日、引越のアルバイト先から、またアルバイトをしないか、とのお誘いの電話があったが、実際問題、冬休み開けの期末試験に向けて、勉強に本腰を入れなければならない時期だったため、お誘いは丁重にお断りした。
私は大学に入学する前の浪人時代に交通事故に遭い、左足の機能がアマチュアの運動選手レベルに戻らなかった時点で、肉体労働系の仕事に就くことは諦めていた。肉体労働系の仕事に就いて、体が動くうちに高給を稼ぐよりは、頭脳労働に就いて、細く長く仕事を続けていく方が、自分の性分にもあっているように思えた。引越のアルバイトをした時期は、大学で単位を取る勉強をするうちに、自分に勉強に関する適正があることを再確認できていた時期であった。今回の引越のアルバイトの経験で、頭脳労働に就きたいという意思が、さらに強固になった。大学の卒業論文と大学院の修士論文で、自分には学問を行う適正がないことは分かったが、理工系の大学で学んだ専門性を生かして、私は、現在でも、肉体労働系の仕事に就かず、頭脳労働の仕事でご飯を食べられている。体を動かすのは、自転車通勤の往復40分と、会社の中で引越などがある時の、限られた時間だ。最近、体についた贅肉が気になり、高校時代を思い出して、少しランニングをしてみようか、という気にはなる。しかし、今の会社を辞めて、高給だが肉体を酷使する仕事に転職する気には、私はなれない。年々増え続ける体脂肪を横目にしながら、自分に言い訳をしつつ、私はできる範囲の頭脳労働を続けていくのだろうと、実感している。また、通勤の傍らで、道路の土木工事をする職人の方や、家の建築、解体をする方によく遭遇するが、私は、彼らに、心から敬意を表している。自分が出来ない事を生業にして、生活している様には、いつも頭の下がる思いである。