Episode3「揺るがぬ覚悟があろうとも」②
「……どうしてそうなったのか聞いてもいい?」
覡の発言に驚いてはいたもののすぐに冷静さを取り戻したルカが、肺に入れた空気を全て吐き出す勢いで大きなため息をつきながらそう訊ねる。僕は未だ衝撃から抜け出せず、呆然と覡の瞳を眺めることしかできなかった。既に慣れたはずの恐怖に似た何かが、僕の脳みそにこびりついて離れない。僕たちは彼の返答に耳を傾ける。一体、どんな言葉が飛び出すのだろうかと。
「お前には覚悟が足りていない」
簡潔かつ残酷に、彼はぴしゃりと言い放った。その言葉は、昨日の夜に考えて考え尽くしてだした僕の決断を否定するようで、僕の喉はひゅん、と嫌な音を立てた。考えていた反応の言葉が、喉の奥でほどけて形を失っていく。動揺に動揺が重なって狼狽える僕を、目の前の死神は温度を感じない瞳で見つめていた。
彼は一体、何を思っているのだろう。僕に、どんな覚悟が足りないと言うのだろうか。変わる日常を迎える覚悟も、危険な目にあう覚悟も、僕はしてきたはずなのに。
「お前に不足するものはいくつかあるが……一つは、人を殺す覚悟だ」
骨張った彼の人差し指が、部屋をなお明るく照らす天井の蛍光灯を指す。
「死者を輪廻に還すということ。それすなわち、その魂に宿った『個』を殺すこと。俺たちは死神という種族名の通り、確かに人を殺している。俺たちが切ることで、間違いなくその『個』はこの世界から姿を消すからな。お前には、それを成し遂げる覚悟ができているか」
そう問われて、僕は何も答えられなかった。
肉体の死ではない、その人のアイデンティティの死。それが、彼ら死神のもたらすものだった。よくよく思えば確かにそうだ。僕たちに前世の記憶があっただろうか。持っている人も中にはいるかもしれないけれど、大抵は覚えてなどいない。前世の自分が何者であったかなんて。
つまり、人間は二回死んでいる。肉体が朽ち果てる此岸における死と、個人の記憶を喪失する彼岸における死。既に死んだはずの彼らがまだ「消えて」いないのは、まだ二回目の死を迎えていないから。無論、それはあらゆる幽霊に通用することだ。もちろん、死神と彼らは肉体の有無で大きく異なるけれど。
「お前はきっと、優しい人間だ。だからこそ、殺人という行為はお前の心をすり減らしていく。人を殺す覚悟がなければ、お前はすぐに正気を失うだろう。俺は、はじめから狂うことが分かっている死神を育てるつもりはない」
彼の言い分は理解できた。一体誰が、花を咲かせない種子を埋めるだろうか。一体誰が、身内に不幸をもたらすかもしれない存在を家に招くだろうか。
「人を、殺す」
呆然とした僕は、彼の言葉を繰り返す。それを舌の上で転がせば、確かな恐怖が胸の内からあふれ出してくるのが分かった。身体が震えて、うまく言葉が音にならない。
正直、考えてもいなかった。悪霊とは生者を脅かす存在で、大切なものを守るためならば仕方の無いことだと思っていた。だからこそ彼らという存在をあまりにも軽く見ていたのかもしれない。
彼らもまた、過去を生きた人間だったのに。
そう一度思ってしまえば、死神の仕事は悪霊達にとって害でしかないのではないか、と思う。大切なもののためなんて軽い理由で、彼らを屠っていいものなのか。
きっと覡が欲しているのは、「人を殺す」という言葉通りのものではなくて、彼らの命と向き合う覚悟なのだろう。その覚悟ができなければ、人を殺しているという罪悪感に苛まれ、いつか身を滅ぼすことになる。彼が言っていることは、確かに理にかなっていた。
深く考えるほど、どう答えたらいいのか分からなくなってくる。そんな僕に、彼は残酷な一言を突きつけた。
「もし、覚悟ができないのであれば。この仕事は……お前には無理だ。諦めろ」
人を射貫き殺せるほどの冷徹さを宿した赤い瞳が、僕のことを静かに見下ろしている。僕が感じたのは確かな恐怖と絶望で、非情にものしかかってきたプレッシャーが僕の心をゆっくりと押しつぶしていった。早く答えなければ、このまま家に帰ることになる。人を殺すことも嫌だけれど、このまま帰るのはそれ以上に嫌だった。
震える拳に力を込めて、必死に頭の中で言葉を探す。どうすれば、人を殺す覚悟ができるだろうかと。
「意地が悪いね、所長は」
そんな緊張感にあふれる空気を裂いたのは、底抜けに明るい男の声だった。
「ねえ深月、そんな難しく考える必要は無いんじゃないかな。確かにこの行為自体は『人をこの世から消す』ことなのかもしれないけどさ。考え方を変えたら、その行為の意味は変わってくると思うよ」
目の前に置かれたまま忘れ去られた冷たいお茶を、彼は傾けながら笑ってみせる。その笑顔はとても穏やかで、身体の震えがすっと和らぐような気がした。
「この世にとどまり続ける霊達は、それぞれ何らかの未練がある。その未練にとりつかれて、死ぬことを受け入れられないだけなんだ。この世に残り続けたところで、その未練が晴れるわけでもない。最悪の場合、未練という強い思いはその人に道を踏み外させて、悪霊にしてしまう」
昨日の霊を思い出す。ただ、生きたいと叫んでいた霊達を。死神への嫉妬に狂い、生者に手を出して悪霊と化した彼女を。
「悪霊になると、その罪が重ければ重いほど次の転生に時間がかかるんだよね。人は平等といっても、悪人と善人の境遇を一緒にはできない。これはきっとどんな社会でも一緒だろう。同じにしたら、善人から批判が殺到することは間違いないから」
それはそうだ。ルールを破った人間と守った人間。どちらも平等に扱ってしまえば、ルールというものが意味を成さなくなる。つまり、罪への罰が必要なのだ。この世とあの世、どちらの秩序も保つために。
「だからこそ、俺たちのこの仕事は……彼らを救うことにも成るんじゃないかと、俺はそう思うよ。俺たちが悪霊を冥界へいち早く送ることができれば、彼らの罪は軽くなる。まあ、現実逃避だって言われればそうかもしれないけれど、こういう一面は確かに存在するんだから」
死は救済である。
まことしやかに囁かれるその言葉は、現実世界ではただの言い訳にしかならないのかもしれない。それでも、理の異なるあの世でならば、確かに通用する言葉なのだろう。輪廻転生の理に従って、死ななければ不利益を被る世界だから。
そうルカに諭されて、僕の心はある程度軽くなった。行為だけでなく、その行動に意味を与える。そうすれば、この仕事をこなす覚悟ができるかもしれない。
「まあ、これはあくまで俺の意見だ。君は君なりに、この仕事の意味を見つけて欲しい。所長は性格がねじ曲がってしまっているから、今すぐ答えを出して覚悟を決めろとそう言っているけれど、急いで考えたところで意味は無い。時間をかけて考えた方がよりよい結果に結びつくと、そう思わないかい?」
違うかな、とルカは隣に座る男に圧をかける。ルカに性格についていわれて不機嫌そうに眉を顰めていた覡は、それでも無言で小さく首肯した。どうやら彼も、ルカの言い分には納得できたようだ。
「つまり」
パン、と軽快な音が鳴る。
「必要なのは経験だ。経験しなければ、どれだけ時間をかけても答えは出ないよね。だからさ、俺から提案があるんだ」
覡を言いくるめて満足したのか、彼は嬉しそうに碧眼を細めた。この話の主導権はすでに彼に渡っている。もう誰もそれを取り返すことはできないだろう。
白磁の手でテーブル上の忘れ物をつまみ上げ、僕と覡の両方を交互に見やると、彼は場違いな明快な笑顔を浮かべて、街を満たしている夜闇を払えるのではと錯覚するほどの明るい声で言い放つ。
「仮契約、っていうのはどうかな?」
すっかり放置されていた契約書を掲げて笑う彼は、どこまでも無邪気な青年にも、謀の巧い策士のようにも見えた。