Episode19「夜闇に輝く極光のように」①
あの日、覡から調停者の座を任されたとき。私は彼の前で息巻いた。この冥界を支える「規律」は私が守ると。貴方が戻りたくなくなるほどの組織を作ってみせると。
それでも、その結果がこの惨状だ。第四区は爆破され、東ユーラシアはその首謀者に乗っ取られた。最も、私の地位が脅かされたのはこの際気にするべきことではない。私が何よりも案じていたのは、彼から預かった「規律」が揺らぐことだった。
規律。それは彼――覡紅夜が冥府の王に誓ったこと。混沌に満ちた冥界を、この「規律」をもって統べるのだと彼は宣言した。そのために彼は優秀な死神を集めて議会を開き、死神の原則の他に数多くの法をこの地に布いた。そのお陰で、東ユーラシアは弱者が割を食うことの無い平穏な世を手にすることができたのだ。
その偉業を疑う者はいない。彼の掲げる規律が素晴らしいものであったことを疑う者も。
けれど、私は彼とは違っていた。確かに私は彼の隣に居たけれど、彼のように市民の信頼を得ることはできなかった。ただ純粋に、私は力不足だったのだ。冥府に認められるだけの実力も信頼もなかった。
――私は、彼のようにはなれない。
それは確固たる事実であり、覆しようのない現実だ。
でも、だからこそできることもあるはずで。
できることがあるのなら、私は無力を理由に立ち止まりたくなくて。
私はそんな先の見えない夜を、ひたすらに執念だけで歩いている。
「楊蓮花。覡紅夜の右手として名が知れているわけですね。貴方の槍捌きは実に美しい」
「戦闘中も余裕そうね、そんな風にしていると足下をすくわれるわよ」
誰もいない屋上で蓮花はクリスに斬りかかる。しかし、クリスは先程から笑顔すら浮かべながら蓮花の攻撃をいなしてばかりだった。
二人が刃を交えてすぐ、クリスは天井に穴を開けて屋上へと場所を移動した。その意図は計り知れないが、場所が変わろうとも蓮花の武術は変わらない。目の前にいるのが、「規律」ひいては冥府の敵であるということも。
「――貴方には斃れてもらう。冥府に仕える死神たちのためにもね」
蓮花の大ぶりな攻撃がクリスへと繰り出される。しかしクリスはその槍を両手で難なく受け止めると、相変わらずの笑顔を浮かべてその攻撃を弾き返した。彼の両腕を覆う黒い装甲は、アリスの攻撃を受けても傷一つ付いていない。どうやら、彼のデスサイズは相当な練度をもって創り出されたものらしい。
肉体派の死神は決して多いわけではない。悪霊の葬送の本質が「縁を切る」ことである以上、死神は武器を創造する際に刃物を思い浮かべる。そして、実戦においても「縁を切った」時点で戦闘は終了する。
すなわち、死神において「殴打」という戦闘方法は選ばれない。その必要がないからだ。そして、彼のようにわざわざ「殴打」を選ぶ死神は――大抵の場合、ろくでもない理由を持っている。
「では、そろそろ私からも失礼しますよ」
そう言い放ったクリスは振り抜かれた蓮花の槍をひとつかみすると、大きく自分の方へと引っ張った。蓮花はクリスのその突然の行動に目をむくも、すぐに槍を引き抜こうとする。しかし、クリスの腕はびくとも動かなかった。まるで巨岩にでも槍を刺したかのようだ。
「肉弾戦の経験はございませんか、蓮花様」
「ぐっ……!」
そして、蓮花と距離を詰めた一瞬のうちに、クリスは蓮花の腹を足で蹴り上げた。肋骨の下、鳩尾を狙った直撃だ。蓮花は内臓が傷みに震えるのを感じながら、これ以上の攻撃は許すまいとクリスの身体を蹴り返す。しかし、その蹴りもまたクリスによって易々と防がれた。
「あまり慣れないことをするものではありません。武道初心者の方がいい蹴りをしていますね」
「うるさいわよ。足癖だけじゃなくて口も悪いのね、貴方」
しかし、蓮花の攻撃の手は緩まない。槍をほどいてもう一度武器を作り直し、クリスに向かって何度も槍を叩き込む。そのたびに槍と手甲がぶつかりあい、冥界の空に火花を散らした。
武器のリーチでは蓮花の方が圧倒的に上だ。槍と手甲の応酬の間に、蓮花は彼の拳が届かない絶妙な距離を探っていく。しかし、攻撃の素早さで言えば肉弾戦を得意とするクリスが蓮花を上回っていた。少しでも距離を取ろうとすれば、クリスはそれにめざとく気が付いて一気に距離を詰めてくる。
――碌な攻撃ができない。
恐らく、これもまたクリスの作戦のうちなのだろう。速度で距離の不利を補い、蓮花の隙を狙って急接近する。超近距離を得意としない槍では対処が遅れ、更に蓮花の隙がうまれやすくなる。そして、その瞬間を狙って拳を繰り出すのだ。
ここまで蓮花はクリスの攻撃をなんとか防いできたが、更に速度が増す彼の打撃にこれから先対応しきることができるかといったら怪しい。先程のように足まで使ってきたら尚更だ。
――であるなら、なんとしてでも早く決着をつけなければ。
両手で槍を握りしめ、蓮花は彼の動きを両目でしっかりと追い続けた。ジャブを二発、右ストレート、そして一旦僅かにひいて下からのアッパー。それらの攻撃の合間に蓮花の足を払うように足払いを行い、時折腹部めがけて大きく横蹴りを喰らわせてくる。こちらの隙を生み出そうとする、基礎的でありながら厄介な攻撃だ。
「美しい顔ががら空きですよっ!」
ジャブによる軽い攻撃を防いだ後、すぐにクリスの右拳が蓮花の顔に向かって振り抜かれる。その間およそ一秒。すんでのところで蓮花はその右ストレートを回避したが、頬の皮が僅かに切れてじんと滲む傷みが走った。
さきほどからいいようにされている。完全に向こうのペースだ。
「くっ……」
どうしたものか、彼の攻撃は次第に苛烈さを増していた。そのなかで回避以外に思考を持って行くのは至難の業だ。早く決着をつけなければと分かっていても、蓮花には決め手となる攻撃が分からなかった。
「ああ、極夜卿の右腕、極夜卿が信じた後継者の実力もこの程度ですか! 私のような一兵卒ごときに手も足もでないとは。貴方を選んだ彼の目が節穴だったということでしょうか」
「黙りなさい、テロリスト……!」
頭では分かっている。クリスは蓮花を動揺させ、さらに隙を誘発させようとしていると言うことくらい。それでも、蓮花には聞き捨てならない言葉を次々と吐くものだから、蓮花もまた彼の言葉に言葉を返すほかなかった。
「私のことはいくらでも侮辱しなさい。それでも、彼のことを侮辱するのは許さない」
「事実ですよ、蓮花様。もし彼の審美眼が正しいというのなら、今頃貴方は冥府の認証を受けていたはず。しかし、貴方の槍はいつまでも槍のままでしょう」
クリスの言葉に、蓮花の槍筋が僅かにぶれる。そしてクリスは、その僅かな乱れを見逃さなかった。彼は槍を高く蹴り上げて吹き飛ばすと、瞬きの合間に蓮花の懐に潜り込む。蓮花ははっと目を見開き、すぐに受け身を取ろうとするも、あらゆる行動がクリスの一歩後ろを行っていた。
「貴方がこんなにも頼りないから、彼が築いた『規律』は瓦解するのです」
耳元でそう囁かれた直後。蓮花の腹部に強烈な右ストレートが繰り出される。空気が震え、ビルまでもが振動で僅かに揺れるほどの一撃だった。蓮花の肉体はその一撃に吹き飛ばされ、はるか先で輝く「回生の樹」の巨大な幹に衝突する。その衝撃は冥府中を駆け巡り、そして東ユーラシアの住民達の視線を大樹へと集めた。「一体なんの騒音だ」と。
本部ビルにいた死神達も、仕事の手を止めて水面下で起こる騒動を認知する。蓮花に追随する死神は、「回生の樹」に吹き飛ばされたのが一体誰なのかを案じることしかできなかった。心の中で、「蓮花であってくれるな」と願いながら。
そうして、万人の視線が集まる先で蓮花は静かに瞼を閉じた。薄らぐ意識と暗闇の中で、目の前にかつての風景が結ばれる。
それこそ、「規律」が今よりも堅固で、誰もが彼の後ろを追いかけていた黄金時代。
もう二度とこの世界に現れることのない、眩く美しい過去の思い出だった。




