Episode2「その願いは叶わない」③
「さて、何となく想像はついているけれど、一応聞いてあげよう。君の、いや、君たちの目的は一体何かな」
閉じられていた瞼は持ち上がり、挑発的な眼差しが女性に向けられる。光源はないはずなのに、その瞳は爛々と光って見えた。彼の言葉に反応して、物陰からこちらの様子を窺っていた霊たちが次々と僕たちを取り囲む。その中心にいる女性は今までの淑やかな振る舞いを捨て去って、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「私たちの目的は、あなたをここで殺すこと。いくら死神とはいえ、一度に大量の悪霊は相手にできないでしょう。しかも毎月中旬はあなたの上司も出払っていて、この東京にいるのはあなただけ。助けはやってこない。それに人質をとってしまえば、あなたも大人しく首を差し出してくれるかと思ったの」
そう嬉々として語る彼女から、背筋が凍るほどの狂気を感じる。周囲の霊も、それに同調しているのだろう、歓喜のような、憎悪のような感情の奔流がこの場を支配している。最初から彼らはグルで、ルカを──死神を誘い込むために話をでっち上げたのだ。
「あなたが死んでくれるなら、この坊やたちを解放してやってもいいわ。それだけで、東京の居心地は良くなるからね」
「嫌だといったら?」
「彼らには私の糧になってもらう」
舌なめずりをする彼女を見て、ルカは息を吐きながら空を仰ぐ。次に聞こえてきたのは、普段の彼からは想像もできない、地を這うような声だった。
「調子に乗るなよ」
ぴり、と空気が張り詰める。腕の中にいる少年は恐怖で身体をがくがくと震わせていて、僕も思わず息を飲んだ。
「君たちが俺を殺そうなんて百年早い。俺の目の前で人を殺すのもね。境界を侵す横暴を、この俺が許すと思っているのかな」
そう語る彼は、まさに夜の支配者のようだった。異端者を許さない、圧倒的な断罪の執行者。その姿に恐怖を覚えたのは、霊たちも例外ではないようだ。何人かは、甲高い悲鳴を上げながら本堂の外へ逃げ出した。残った霊も、彼女も、ルカの一挙一動に釘付けになっている。彼はゆっくり、女性のもとへと近づいてきた。いつの間にかその手には黒い短剣が握られている。
「……う、動くな!動いたら、こいつらを殺してやる!」
女性は耳障りのする声で叫んだ。その声に反応し、ルカはぴくりと動きを止める。それを視認した女性は荒れた息を整えて、自分が未だ盤上を支配しているのだと、そう理解した。
しかし、ルカは僕を見て、何か確信を得たかのように、もしくは何か思い付いたかのように、口角をゆっくりと持ち上げた。彼と、視線が交わる。普段感じていた寒気はどこかへ消えていて、彼が何かを企んでいる──それだけが理解できた。
次の瞬間。目の前の女性の霊体が、周辺の空気ごと切り裂かれる。女性は何が起きたのか理解できていないようで、驚愕の表情を顔に貼り付け、自らを切り裂いた死神を睨み付けた。
「何を……!」
「簡単な話だよ。君が深月たちを殺すより先に、君を切ればいいだけなんだから。頑張って計画を練ったんだろうけれど、俺に怯えた時点で勝敗は決まっていたよ。あの時怖じけずに、俺のことなんて放っておいて人質の後ろに回ればよかった。君の負けだよ、大人しく輪廻に還ってくれ」
あの武器で切られたからだろうか、彼女の輪郭は少しずつぼやけていき、いつか見たように空気へと溶けていく。しかし、何かを察したのだろう、ルカは目を見開かせ、彼女から僕たちを庇うように瞬時に移動した。
「どうしたんですか……?」
嫌な予感がして、目の前の背中に声をかける。しかし彼は、なかなか執念深いようだ、とだけ言って、視線を前方に向けた。溶けていくはずなのにその場に漂ったままの彼女の霊体は、事態の異常さをもの語っている。
「どうして、どうして!」
あなたたちは生きることが許されるの。
嘆きとも、怒りとも取れるその声が堂内に響いたとき、彼女の霊体である黒い靄が急激にその体積を膨らませた。まるで突風が吹いたかのように、服がバタバタと騒がしく音を立てる。
「アアアアアアア!」
そこからは、理性をなくした慟哭が続いた。溢れだす黒い靄は、周囲の霊を取り込んではさらにその体積を増していく。僕たちも取り込まれるかと思ったけれど、ルカから貰った御守りと、僕たちを庇うように武器を盾に立っているルカのお陰だろう、黒い靄がこちらへと手を伸ばしてくることはなかった。
「深月、少年たちを任せていいかな」
迫りくる靄を凪はらい、ルカは切羽詰まったように続ける。
「俺は、もう一度あの悪霊を切りにいく。どうやら今回は切るだけじゃ駄目みたいだから」
「切るだけじゃ駄目って、どういうことですか」
「俺たちは現世との"縁"を切ることで霊を冥界に送っている。けれどたまに、強い生への執着が切ったはずの縁を結びつけることがあるんだ。そういうときは、その執着を弱めてからもう一度切る必要がある」
死神なんて呼称される存在だったので、てっきり魂を切っているのかと思っていた。混乱する僕に対し、ルカは後で説明するよと言ったあと、その手の短剣を構え直した。あの膨れ上がった黒い靄に、突撃するつもりらしい。本体を倒さなければ意味がないのだと、彼が真っ直ぐ中心を見据えていたことから理解した。
「なにそんな不安そうな顔してるのさ」
ふと、こちらを振り向いて彼が笑った。そんな表情をしていただろうか。彼の実力というものはまだ知らないけれど、一ヶ月前僕たちを助けてくれたときの動きをみれば、そして先程目にもとまらぬ速さの剣捌きをみれば、彼が弱いわけがないことくらい容易に想像できる。一体僕は、何が不安なのだろうか。
「大丈夫だよ、君たちを守り続けるのが俺の仕事だからね」
彼は空いた左手で僕の頭をぽんと叩き、少しだけ髪をかき混ぜて、にこ、と笑って見せた。きっと、僕のことを安心させようとしてくれているのだろう。僕が頷いたのを視認して、彼は黒い靄に飛び込んでいった。黒いスーツを靡かせるその背中は頼りがいがあって、まるで戦隊もののヒーローみたいに格好いい。僕は震える子供の背中を撫でながら、一人の青年を見守った。
「どうして、彼らは生きることが許されるのか」
黒衣の死神が、黒く塗り潰された世界で朗々と語り始める。
「それは彼らが現世で存在するための肉体を持ち、今を生きているからだ。死と生の巡る輪廻の中で、生という期間を過ごしている彼らは当然、生きる権利を有していると思わないかい」
壊れたラジオのような耳障りの悪い叫び声が、彼の意見に抗議した。黒い靄が更に勢いを増し、ルカへ向かって伸ばされる。しかし彼は動じずに、その一つ一つを素早く、けれど確実に短剣で切り裂いた。
「死んだ存在は輪廻に帰り、また新たな生を受ける。それが、死んだ君が生きるための一番の近道だ。君はそれじゃ納得できないかな」
切り裂かれた部分は空気に消える。けれど、少しずつ切っていてはきりが無いほど彼女の身体膨れ上がっていた。ルカの死角を狙うように、彼女は何度も何度も多彩な攻撃を繰り返す。殴打、薙ぎ、そして斬撃。けれどそのすべては軽々といなされて、彼女の表情にはだんだんと怒りと焦りが蓄積されていった。
一体何分たっただろう。凄まじい攻防を繰り返しながら黒い靄を切り進み、彼は中心のより一層濃い部分にたどり着く。短剣はただ、さらけ出された彼女の喉元を狙っていた。
「私が憎いのは」
彼女は、刃を前にしても足掻くことを諦めていなかったらしい。黒い靄のかたまりが、すさまじい速さでルカへと襲いかかってくる。ルカは即座に反応し切り捨ててみせたけれど、同時に死角から僕らへと攻撃が仕掛けられた。武器を構え直す暇も無く、彼はその身体を縦に強烈な殴打を受け止める。彼の身体から鳴ったであろう鈍い音とともに、ルカはそのまま突き飛ばされて堂の壁に叩きつけられた。
「ルカさん!」
木製の壁が少しだけ凹んでいる。そのままずるずると地面に落ちたルカの表情は、暗闇と黒い靄、そして乱れたダークブロンドの髪に遮られてよく見えなかった。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。冷や汗が伝い、子供たちを抱き締める力をさらに強めて、僕はようやく自分の感情を理解した。
僕が不安に思っていたこと。それは、彼が僕たちを守るために傷ついてしまわないかということだった。彼は僕たちを守ることを仕事と言った。無理矢理切っても成仏させられない状態で、ルカが取れるのは僕たちを守りながら説得するという行動のみ。けれど相手はこちらに危害を加えることも厭わないし、僕たちが先に逃げようにも出口側を陣取っているのは悪霊のほうだ。逃げることはできないだろう。つまり、彼女が死という運命を納得するまで、ルカは戦いつづけなければいけないということだ。
僕はただ見ているだけで、彼のために何か手伝えるわけでもない。危ないと忠告されたのに、僕は自分の欲求を押し通した。その結果、ルカは僕と子供二人、守ることを迫られている。もし、僕があの時素直に帰っていれば、ルカは守る相手を増やさずに済んだのではないだろうか──そんなことを考えて、僕は唇を噛み締めた。
自分の無力さに嫌気がさして。守られるだけの存在のくせして、相手を知れば何か対策が取れるかもと考えて行動して。結局、彼を傷つけてしまうなんて愚かにもほどがある。今、たった一人で戦っている彼を!
噛んだ唇から鉄の味がして、僕は目の前の悪霊を睨み付けた。死神を伏せた愉悦に浸る悪霊は、こちらを改めて人質に取るつもりだろう、少しずつこちらに近づいてくる。
「坊や、大人しく人質になって頂戴ね」
感情が落ち着いてきたのだろう。猟奇的な理性を宿した瞳が、こちらを見下ろしていた。
「……あなたが恨んでいるのは、死神なんですね」
彼女の感情が、ルカを吹き飛ばしてからいくらか落ち着いたのは、きっとそういうことなのだろう。そう思って僕が訊ねると、彼女は細い指を口元にあてて、ええ、と愉しげに笑った。
「だって可笑しいじゃない。あいつらだって死んでいるのに、記憶をもって、肉体まで与えられて、人の中で生きることが許されているのよ。私たちがどれだけ望んでもできないことを、冥府に認められたからってやっているの。そんなの、不公平だと思わない?」
同意を求めるかのように顔を覗き込み、狂気で光る目を開かせて彼女は続ける。
「私だって彼らのように死神に選ばれていたら、こんな風にならずに済んだのよ。生前は、警察のお世話になったこともないいい子だったから」
けれど、生きたいという願望が、自分とは違い生きることが許された死神への羨望が、ここまで彼女を歪ませた。
「私だって、死神に選ばれたかったのに。どうして私はダメで、あんな奴らが生きられるの?」
その嘆きはどこまでも切実で、哀しげに感じられる。何も言い返せないまま彼女の顔を見つめていると、僕は彼女の顔を黒い頬からぽろぽろと伝い零れる涙を幻視した。その時、ふと視界の隅で影がゆらりと立ち上がる。
「それが君の願望なんだね」
優しい声が、堂内に反響した。その声に驚いた彼女は、死神を叩きつけた壁の方を振り返る。けれど、そこには既に誰もいない。
「─────」
死神は、彼女の背後に回っていた。耳元で何かを囁いて、彼女が動揺し目を見開かせたのを確認すると、彼は夏空を想起させる瞳を細め、彼女の首を切るように短剣を静かに振り抜く。今度は素直に空気へと溶けていく彼女を、ルカはどこか哀しそうな目で見下ろしていた。