Episode15「分かたれた道」④
「……わ、わかりました」
森の中には腰掛ける場所など一つも無い。だから僕たちはそれなりに大きな木の根を椅子の代わりにして、そこに並んで腰掛けた。アリスはさっきから僕の隣にピッタリとくっついて、ぼうっと深い霧の向こうを眺めている。
僕はと言えば――未だかつて無い異性との接近に、心臓がこれまで聞いたことがないほど鼓動して、耳から心臓が飛び出そうなくらいに緊張していた。
いや、頭の中では、緊張する場面ではないことくらい理解している。
それでもやはり、こうして昏い森に二人でいるというのは、身体中が強張って仕方が無いのも確かだった。
きっと不気味な森の中にいることによる吊り橋効果だ。そうだ、きっとそうに違いない――動揺する自分はそう説得することにして、僕はちらりと隣に座るアリスのことを見る。
アリスは亜麻色の髪を垂らしながら、呆然と空を仰いでいた。その瞳は空虚な輝きを湛え、漆黒の林冠を映し込んでいる。何も言わない彼女に声を掛ける気にもなれず、僕も手持ち無沙汰に遠くに見える『回生の樹』を見つめた。
回生の樹。アリスが教えてくれたその樹の神秘は、この森に届いていないような心地さえする。この森は恐怖の他にもほのかに死の香りがして、森の奥の暗闇に意識を向けるとぞっと背筋が凍るような感覚が僕を襲った。
「……この森は、冥府の端をぐるりと囲っている。皆はここを『境界の森』と呼んでいるわ」
ぽつり、ぽつりと地面に零すようにアリスが続ける。
「この森を進んで行くと、どんどん霧が濃くなってくる。すると一フィート先も見えなくなって、魂は彷徨う霊魂へと変わってしまう。『回生の樹』は死せる魂を導くと説明したけれど、この濃霧は全ての導きを塗りつぶしてしまうのよ」
「――なんで、ここにきたんですか」
僕の問いに、アリスはふ、と苦笑いを浮かべた。目の前に広がる霧は決して濃くは無く、導きたる大樹もまだ見える。けれど、僕が引き留めていなかったのなら、アリスは一体この森のどこまで行こうとしていたのだろうか。
「心配しなくても、行方不明になんてなろうとは思っていないわ。ただ、本部であの極夜卿が言っていた言葉が気になって。ほら……『果て』に行ったのだ、と彼は言っていたでしょ」
そう言って、アリスは濃霧の向こうを指さした。
「この森の奥深く、ずっと歩いて行くと――一気に視界が晴れて、広い草原が広がっているところがあると聞いたことがあったの。だからきっと、そこが『果て』だと思って。極夜卿が何を見たのか、私も見たくなったのよ。……でも、普通に考えて無理よね。『果て』にたどり着いた死神は今まで一人も居なかった。いいえ、居たのだとしても、冥界に戻ってくることができていない。それはきっと、失踪となんら変わりが無いわ」
アリスの言葉を、僕はただじっと聞いていた。
果て――どこかで聞いたことのある言葉だ。ごく一般的にありふれた単語ではあるけれど、冥界と同じような文脈で、僕には確かに聞き覚えがあった。けれど、まるで思考に靄がかかってしまったように、この言葉をどこで聞いたのかが思い出せない。
「あの極夜卿は偽物。言っていることも全て虚飾。それは分かってる。ルカの言葉を信じたくはないけど、あいつ嘘だけは滅多につかなかったから。ちゃんと、分かってるの」
その時、ほろり、と透き通った雫がアリスの瞳から溢れ出た。それが涙なのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
「でも、私は極夜卿を信じてきた。蓮花会長が調停者になったときも、それが極夜卿の決断ならと信じ続けた。でも、あの極夜卿の言葉に――考えてしまったの。私たちが掲げてきた規律は、本当に正しかったのかって」
アリスの頬を涙が伝う。すうと頬を撫でたそのひとしずくは、やがてぽたりと滴って、アリスのスラックスに染みを作った。
「あの極夜卿もどきの言うように、今の『規律』は充分じゃない。もちろん、あんな風に爆破テロを起こしたのは許せないわよ。けれど正直言って、その程度も防げなかった私たちの無力さに吐き気がする。全てが変わってしまったのは、やっぱり極夜卿が居なくなったからだって――そう思わずにはいられないのよ」
他の人がいたがために隠していた感情が、僕の前で次々と吐き出される。それらを全て拾い上げるような資格は僕にはない。僕はアリスの苦悩を完全には理解してあげられないし、適当な慰めの言葉も思いつかなかった。とめどなく流れる涙と嗚咽と共に、それらは全て「境界の森」に呑み込まれていく。
「蓮花会長は素敵だし、嫌いじゃない。それでも、私は今の規律に変化を求めている。それはきっと、蓮花会長の考えることとは違うのよね。会長はかつての極夜卿の意志をつごうとしているから」
それはきっと、少しだけ違う。
蓮花会長だって、変化を望んでいるはずだ。いや、極夜卿――覡もまた、蓮花なりの『規律』のあり方を求めていた。それでも答えを出すのは難しく、何千何万の人々を率いるのはもっと難しいことだから、まだ変化に至ることができていないだけなのだ。
――もっとも、それを蓮花の力不足と断ずるのなら、少なくとも納得はできるのだけど。
「蓮花会長の『規律』は変わるべきだわ。けれど、あの極夜卿もどきに完全に賛同もできない。どこにいけばいいのか、何を信じれば良いのかわからないのよ」
アリスの告白はまるで懺悔室での吐露のように森に響いた。
アリスは自分がどちらにつくべきか、未だ決めかねている。だからこそ、こうして一人で――霊魂彷徨う「境界の森」に来て、孤独を空虚な共感で埋めようとしたのだろう。
そんな彼女に、僕はなにを言えるだろうか。
死神になって半年も経っていないのに、そして『規律』を知ったのはごく最近のことだというのに、『規律』を信じてきた彼女に言える言葉など限られている。言いたいことは山ほどあるけれど、どの口が、というところで言葉が喉から上に出てこない。
――それでも。
気丈なアリスの涙を見てしまって、何もしないのは嫌だった。
ルカが傷つくのを見て、死神になりたいと思ったように。
クロトを助けて、一緒に戦う仲間になりたいと願ったように。
彼女の涙を見てしまったから、どうにかして彼女の涙を拭いたいと思った。
「アリスさん。僕は――」
意を決して、乾きに乾いた口を開く。唇が乾燥してくっついていたけれど、なんとか剥がして僕は慎重に言葉を紡いだ。
「深月さん! 全く、遅いですよ。どこに行っていたんですか!」
レストランの前、遠くから歩いてくる僕を見つけたリゼがこちらに向かって手を振っている。僕は今気が付いたというように小走りに切り替えて、リゼの元に駆け寄った。
「すみません。ちょっと散歩していたんです」
「へえ。そうですか……って、アリスのこと知りませんか? お手洗いを探したんですけど見当たらなくて」
きょろきょろと辺りを見回すリゼを見て、僕の脳は先程の出来事を思い出していた。
「……アリスさんなら、謝罪の言葉と共に本部に戻りました。彼女にも、目指す未来があるみたいなので」
僕がそう伝えると、リゼはハッとしたように目を見開き、そしてゆっくりと瞼を伏せる。悲しみよりも先に納得がついて出てきたような目つきで、リゼは「そうですか」と小さく呟いた。
「……落ち込まないんですか」
親友とも呼べる仲間が離脱した。その事実を聞いてなお、リゼは気丈に振る舞っている。これから先敵対するかもしれないというのに、リゼの瞳には迷いも躊躇いも存在しなかった。あるのはただ、爛々とした信頼に満ちたシャンパンゴ―ルドのきらめきだけだ。
「落ち込みませんよ。アリスには信じるものがあり、私にも信条がある。私はアリスが軽率な判断をしないことを理解しています。なら、私はアリスの信じた道を信じましょう。アリスはアリスの考えをもって、あちら側に着いたのですから」
それに、とリゼが続ける。
「別に想像できなかったわけではありません。アリスが目指すものは秩序を保つ『規律』ですから。今の蓮花会長の示すそれでは、きっと不完全だと思ったんでしょうね」
そう言葉を締めたリゼの瞳は、真っ直ぐに遠くにそびえる本部のビルを見据えていた。彼女の姿勢からひしひしと感じる、アリスへの信頼。同じものを追いかけずとも理解し合っている二人に、こちらも羨ましさを覚えるほどだった。
「さあ、行きましょう。私たちは私たちの信じるものを貫くために」
そう言って、微笑みを浮かべたリゼが歩き始める。僕もまたその後ろを追いかけるために慌てて足を動かした。冥界を見下ろすかのように建てられた本部に背を向けて。




