Episode12「混乱と不信」③
フォース・スクエアと冥冥百貨店の爆発から、気が付けば五時間が経っていた。その頃には中にいた人の救助は完了し、怪我人や魂に新たな肉体を与える手続きにとりかかっている。死神たちも一息をついていて、医療物資と共に運ばれてきた缶コーヒーを片手に談笑をしたり、血塗れになった衣服を着替えたりと、昼間の緊迫した空気は比較的ましになっていた。周囲の落ち着き始めた雰囲気に混ざるように、僕とアリスもリゼと合流し、コーヒーを受け取って瓦礫の山を背に仮設テントへと戻った。
「柊さん。コーヒー飲みますか」
「ありがとうございます、アリスさん。いただきます」
缶コーヒーの一つをアリスは柊に手渡す。柊はそれを受け取ると、すぐにタブに指を引っかけた。
「カフェイン……やはりいいですね。死神になった後も、この冴え渡る感覚を失わずにすんで助かりました」
「そろそろ休んではどうですか。ひとまずこの事件も今のところ落ち着いてはいますから。あとは、上層部からの指示を待つだけですよね」
現場監督を任された柊は、この五時間休むことなく各班に指示を飛ばし続けていた。そのせいだろう、その顔は随分とやつれ、笑顔も若干ながら引きつっている。
「……そうしたいのはやまやまなんですがね」
柊はエナジーゼリーも驚きの勢いで缶コーヒーを飲み干すと、ふう、と肺の中を空っぽにするように大きく息を吐き出した。
「避難も救助も終わりました。他のビルに爆弾は確認できず、安全確認も済んでいます。全てが順調です」
「いいことじゃないんですか?」
僕の質問に、柊は表情を曇らせる。
「そうですね。普段であれば喜ぶべきことなのかもしれませんが……言うなれば『順調すぎる』といったところでしょうか」
僕たちは言葉を失った。そんな僕たちを一瞥してから、ホワイトボードいっぱいに広げられた地図を前に、柊は淡々と言葉を重ねる。
「避難と救助は確かに順調でした。でもそれは、逆に言えば「犯人」という本来注目すべきところに意識を割いていなかったからに他なりません。実際今に至るまで、犯人による声明もなく、犯人の足跡もなく、私たちは手をこまねくことしかできていないのです」
今こうして休んでいる間にも、犯人は何かを企んでいるかもしれない――それが柊の懸念だった。
「もし相手の目的が住民ならば、逃げた先を狙うかもしれませんが……個人的には、他の目的があるのではないかと考えています」
そう言って、柊は丸いマグネットをマップに置いていく。爆発したフォース・スクエア南館と冥冥百貨店。その間にあるのは、ショッピングモールでも入ってしまいそうなほど大きな交差点だ。対角線上に建つ二つの商業施設は、この交差点を見下ろしている。
「同時に爆発したわけではない、とのことでしたね。時間差で爆発させたのにはなにか理由があるはずです。多くの死神を巻き込むのなら、同時に爆発してしまった方が――こういう言い方は良くないと思いますが――効率が良いにも拘わらず」
柊の独り言のような考察に、僕たちは同じように頭を悩ませた。
あの時の光景を思い出す。まず始めに、突然、何の前触れも無く、フォース・スクエアの南館が爆発した。ガラガラという何かが崩れる音と、叫び声がリフレインする。
そして、人々が反対側に逃げてきた頃。丁度、冥冥百貨店が爆発した。まるで、やっとのことで逃げてきた人々を嘲笑うかのように。
「大多数を巻き込むのではなく、逃がすことに意味があった、ということでしょうか」
リゼがそうぽつりと呟く。
逃がすこと、それはつまり、生かすことに意味があるということだ。生かして、逃がして、避難させることに意味がある。
そこまで考えて、僕ははっと顔を上げた。同じことに気が付いたのだろう、同時に顔を上げたアリスと視線が交差する。柊も何かを理解したのか、その額に汗を滲ませていた。
「気が付きましたか、アリスさん。深月さん」
「……はい」
「え、三人は気が付いたんですか? 教えてください」
「リゼのお陰よ。柊さん、説明をお願いします」
アリスの言葉に、柊は神妙な面持ちで首肯する。そして、大変な事になった、とでも言いたげに頭を抱えながら、緊張感の増した声色で「つまり、こういうことです」と口を開いた。
「この爆発は――いわば、起爆剤なんですよ」
「起爆剤、ですか?」
訳が分からない、とでも言いたげなリゼの声に、柊は頷く。
「蓮花会長への不満を爆発させるための、そしてその不信をこの東ユーラシアに伝播させるための起爆剤。それが、この爆発事件の目的でしょう。避難住民を各地に逃がすことで、恐怖を煽るのです」
柊の説明を聞いたリゼは、瞳を零れんばかりに丸くさせた。そのシャンパンゴールドは僅かに涙の膜を張り、その唇は動揺で震えている。
「それは、それって……! じゃあ、あの会見も?」
「きっと、仕組まれていたのよ。こんな大きな事件が起きたんだもの、会長はまじめだから、ちゃんと会見を開く。そこで会長への不信を煽るようなことを言えば、瞬く間に不安は広がるわ。協会内部だけでなく、東ユーラシア全体にね」
「あの記者はフリーランスだったようです。推測でものを語るのは危険ですが、主犯格と繋がっていると考えざるを得ません。『責任を問う』なんて、今の状況で聞くべきことではないことくらい、普通のジャーナリストなら理解しているはずですから。そういえば……下位議会にも、同じように会長への不信を募らせる支部長がいましたね。彼も関与していなければいいのですが」
僕たちは何も言えなくなった。
蓮花の立場が危ういのも、批判が殺到していたのも、僕は知っていたはずなのに。
こうして、起爆剤が発動してしまうのを阻止することはできなかった。相手の策略に乗ってしまって、結果として相手の望んだとおりになっている。混乱は更なる混乱を呼び、不信は人の波によって運ばれて、暗流が東ユーラシアを覆っている。
つまるところ、僕たちが抑えるべきだったのは、下敷きになった民だけではなかったということだ。救助した人にいくら感謝されたとて、『規律』の成す秩序を示したとて、その何倍もいる避難した人々が、協会の迅速な対応をかき消すだろう。
ふと隣を見ると、リゼが震える手で冥界のSNSを開いていた。そこには、東ユーラシアへの不安や不信のつぶやきが一面に並んでいる。
――協会は何をしている。
――もう「規律」はお仕舞いだ。
――蓮花はリーダーになるべきではなかった。
――極夜卿は何処へ行った? もしかして、蓮花が隠しているんじゃないか?
――蓮花を問いただそう。そして、俺たちの極夜卿を取り戻すんだ。
不信、混乱、憤怒。時間が経つにつれて、SNSという海に投げ出された感情は過激なものに変わっていった。それらに理性などもはや通用せず、暗流はさらに勢いを増していく。
「まずいです。もう、とんでもないことになってます!」
スマホの画面にフォース・スクエアが崩れ去る映像が流れる。がらがらと音を立てて崩壊するその建物と一緒に、何かが壊れていく音が聞こえた気がした。
「柊さん。本部に……はやく本部に!」
アリスは今までに見たことが無いほどに慌てた様子で、考え込んだままの柊に声を掛ける。しかし、柊は眉一つ動かさず、なにかをぶつぶつと呟きながら、じっと地図を見つめていた。
「相手方の目的を考えれば、これで終わるはずがありません。もっと大きく、より盛大に、会長の信頼を崩しに来るはず。しかし、会長に組織のリーダーとしての実績がある以上、その信頼を失わせるのは至難の業。であるなら、信頼を崩すよりも……すげ替える方が手っ取り早い」
「柊さん!」
「……ええ、分かっています。各地に警戒態勢を敷き、人員を配置するように連絡しましょう。ですが、それはすぐには行えない。私たちが、一番早く動くことができるのです。だからこそ、今何をするべきかしっかりと考えなくてはなりません。……必要であれば、私たちの独断で動きます。いいですね」
柊の様子は落ち着いている。その顔には焦りも見られない。周りが酷く混乱している中で、一人だけが冷静に事態を把握しようとしている。
その姿に、立ち振る舞いに、僕は覡のことを思い出した。
柊は覡のように、端から見て分かりやすい威厳を振りまいているわけではない。どちらかと言えば、親しみやすいルカのような雰囲気を纏っている。物腰は穏やかだし、言葉づかいだって丁寧だ。覡をボスのような風格の持ち主だとするなら――失礼かもしれないが――柊は中間管理職という言葉が一番合っている。
けれど、こうして彼の振る舞いを見ているうちに、彼はやっぱり覡と同じ立場の人なのだと、そう実感した。
部下を統率する。現場を落ち着かせる。この場で誰よりも冷静に物事を判断し、最善と思う選択をする。だからこそ、部下は上司についていく。
この人なら、自分の意志に近い選択をしてくれると思えるから。この人なら、一番いい選択をしてくれると信じることができるから。
――この人になら、全てを預けてもいいと思えるから。
柊は僕を信頼してくれている。だから僕も彼の「部下」として、柊のために、そして蓮花のためにできることをしたくなった。
「……柊さん。僕の考えを聞いてくれますか」
意を決してそういえば、三人の視線がじっと僕のことを見る。張り詰めた緊張を感じながら、僕は慎重に口を開いた。
東ユーラシア死神協会、その本部がそびえたつ第一区。本来は協会所属の死神達であふれかえっているはずの中心街の交差点は、本部に向かって声を上げる過激派の市民によって埋め尽くされていた。
「蓮花をだせ! この事件について説明しろ!」
「私の友人が爆発に巻き込まれたの。どうしてこんなことが起きたわけ?」
「極夜卿はどこにいる!? お前がかのお方を退けたのでは無いのか!」
「落ち着いてください! 緊急事態です、協会へのご意見でしたら、指定のフォームからお願いします!」
飛び交う怒号をぶつけられるのは、ビルの入口で暴徒と化した住民を抑えている受付係のミッシェルだ。ミッシェルは他の受付係や警備員と協力して、今にもビルの内部に流れ込みそうな市民を落ち着かせるべく、声をかけ続けていた。
「……何がどうなっているんですか。こんな……こんな混沌とした状況になるなんて」
縋るように、ミッシェルは遙か高くにいるであろう蓮花を思いビルを見上げる。あの会見から、未だ新しい情報は市井に流れていない。そのせいか、様々な憶測が飛び交って、少しずつ暴徒たちの勢いも増している。侵入を防ぐバリケードが壊れるのも時間の問題だった。
「爆発事件につきましては、現在調査中ですので……!」
「その言葉は聞き飽きた! こっちは行動で示せって言ってんだ!」
そうだそうだ、と群衆が相槌を打つ。いくら平静を取り戻させようと声を上げたところで焼き石に水だということは、ミッシェルにも何となく察せられた。かといって、ただの会員にできることは限られている。ミッシェルが受付係の統括責任者であるとはいえ、その権力は支部長の足下にも及ばない。難しいことは上に任せてしまっても問題ないのだ。なぜなら、ミッシェルが何をしたところで、この暴徒を落ち着かせることはできないのだ
それでも、そう頭では理解していたのだとしても。ミッシェルは頑なに道を譲ろうとはしなかった。まるで、ここが正念場とでもいうかのように。
「みなさまの混乱は分かります。不安になるのも理解できます。ですが今は、会長を信じてください。『規律』は決して揺らぎません」
「……こんな状況で、その言葉が信じられるとでも?」
ミッシェルの発言を嘲笑するように、からりとした声が人混みの中から聞こえてくる。はっとそちらにミッシェルが顔を向ければ、そこには一人の若い男が立っていた。軍服のような白い服に身を包んだその男は、かつん、とヒールを鳴らしながらミッシェルの眼前まで歩いてくる。何故かは分からないがその立ち姿には恐怖を煽る威圧感があり、ミッシェルはごくりと息を飲んだ。
「二度の爆発。明らかに説明が足りない上層部。何を考えているかは知らないが、市民に対して不誠実なのは確かだ。少なくとも、蓮花には市民を安心させる責任があるだろう? まだ爆弾魔の正体も分かっていないのに」
「……下がってください。何人も、この先に入れることはできません」
「フォーススクエアの階層が丸ごと吹き飛んだんだ。しかも、なんの予兆も無く、な。もしかしたら、このビルの周辺にも爆弾が仕掛けられているかもしれない。そんな状況で『蓮花を信じろ』なんて、できるはずがないだろう」
そうだよなあ、と男は民衆へと呼びかける。それに応えるように、集まった市民は肯定するかのごとく地面を鳴らした。
「さあ、通せ。お前も、あの偽のボスが疑わしいんじゃないか? ここまで混乱が広がっているのに、何もしないボスなんてよ」
「侮辱するのですか、あのお方を」
「侮辱か正しい指摘かはじきに分かる。そのためにも、さっさと通すんだ」
男が含み笑いを浮かべる。彼の表情には、他の過激派とは異なる感情が表れていた。憤怒だとか、疑念だとか、そういうものがミッシェルには感じられない。どちらかというと、この男が考えていることは――。
紛れもない、愉悦だ。
「……通しません。特に、貴方のような不審者は」
ミッシェルは歯を食いしばり、目の前の男を睨みつけた。受付係としては失格かもしれないが、今回苦情が入ることは無いはずだ。……相手が迎えるべき客でないのなら。
ひゅう、と男は口笛を鳴らした。よく分かったな、とでも言いたげな目で、男の笑みはさらに深められる。
「ああ、優秀な受付だ。でも、お前にはどうにもできない。四百四十三階にいる死神を呼んでくるか? 無理だ。あいつらは降りてこない。目先の爆発に気を取られて、足下に虫が近付いてくるのに気が付いていない」
男はミッシェルにだけ聞こえるような小さな声で、群衆の熱に隠れるように続けた。ミッシェルはただ、その男の振る舞いを見つめることしかできなかった。
「結局のところ、あいつの秩序なんて建前なんだよ。規則など、規律など足下を突かれるだけで瓦解する。今なら、お前を引き抜いてやろう。優秀な奴は嫌いじゃない」
「お断りです」
ミッシェルの警戒は間違っていなかったようだ。男の纏う雰囲気は一変し、彼からはただならぬ圧が感じられる。恐らく、ミッシェルよりも遙かに実力のある死神なのだろう。でなければ、ここまでの自信をもって、数人の警備員と群衆の中に現れるはずがない。
――はやく、会長に伝えなければ。
少しでも早く。彼の気が変わって、この場所をどうにかしてしまう前に。もしかしたら、目の前に居るこの男が爆弾魔なのかもしれないのだから。
ミッシェルがすげなく誘いを断ったのを、男はふん、と鼻を鳴らして聞いていた。口先ではああ言いながらも、その実ミッシェルに興味はないようだ。
「そうか。お前のボスへの忠義は流石だな。だが……これを聞いた後も、その意志が変わらないと言えるか?」
男はおもむろに、群衆全てに見せびらかすように、スマホを一台空に掲げた。その画面には、音声データファイルの再生ボタンが映っている。なんだと首を傾げながら呆然としていると、男は笑みを浮かべながらその再生ボタンを押した。すると、その場で誰もが想像していなかった声が、本部ビルの入口前に大音量で響き渡る。
『……撮れているか。ああ、ならいい。俺は会長として、いや、正当なこの地域の調停者として、彼に言葉を託すことにする』
それは懐かしい声だった。
それは愛しい声だった。
それは、忘れられない声だった。
その声が、言葉が聞こえた瞬間に、ある者は涙を流し、ある者は膝から崩れ落ちる。まるで唯一神でも見たかのように、あああ、と感じ入った声を上げる者もいた。ミッシェルも驚きのあまり、呼吸することを忘れてしまう。
――極夜卿?
思考が混乱でうまくまとまらない間に、スマホの中の彼は言葉を紡いだ。
『蓮花は俺から強引に会長の座を奪い取った、不当な調停者である。故に冥府の王に認められず、その武器を真の姿にすることができないのだ。もし、この言葉を聞き届け、俺を信じてくれるのならば。どうか、俺の治政を取り戻すことに協力してほしい』
極夜卿の声はそう締めくくり、音声ファイルの再生は終わった。一時の静寂のあと、民衆は雄叫びのような声を上げる。
――極夜卿!
――やはり、蓮花は偽の調停者だ!
――極夜卿のお言葉なら、きっと間違いないわ!
驚愕は歓喜へと変わり、それらは蓮花への怒りとなって、ますます民衆達の熱気は増していく。警備員もミッシェルも、目の前の声がニセモノだとは到底思えなかった。抑揚も、声色も、みな記憶のものと合致している。懸念点は顔が見られないことのみだが、民衆にとってはその程度些細な問題でしかない。極夜卿が生きていて、蓮花がニセモノのボスであるという事実だけが重要だった。
「……とまあ、こういうことだ。俺は極夜卿の命令でここにきた。蓮花は後継として認められていない。このことを議会に奏上しにきたんだよ。他でもない極夜卿の指令だ、お前達も逆らえないと思うんだが」
すっかり黙ってしまったミッシェルに、男はさらに追い打ちをかける。
「極夜卿は今の規律を嘆いている。蓮花に奪われ、すっかり力を失ってしまったからな。彼による秩序を改めてこの冥界に布くために、これは必要なことなんだ。なあ、そこを退いてくれるよな?」
男の言葉に、警備員はすでに身を引き始めている。扉の前に立っているのはミッシェルだけで、力尽くであれば簡単に通れてしまうほどのか弱い壁だ。それでも目の前の男が無理矢理押し通ろうとしないのは、ある種の秩序を彼が持っているから――そう思えてしまえて仕方がない。ミッシェルもまた、この道を譲りたい気分に襲われつつも、しかし必死に脳内で首を横に振った。
確かに、もしこの音声ファイルが極夜卿からの言葉であるのなら、ミッシェルに彼等を抑え込む理由が無くなる。むしろ、そうしなければならないだろう。
――かといって、目の前の男の妖しさが拭えたわけではない。
ミッシェルは覚悟を決めて、落ち着き払ったように見えるように取り繕い、男に向き直った。
「それはできません。いくら極夜卿の命令とは言え、彼がこの場所にいない以上、貴方の言葉は信用に足りません。どうか、お引き取りを」
「おいおい、冗談だろ」
訳が分からない。そういいたげに、男はおおげさに両手を挙げて見せる。舞台の上でのパフォーマンスのように、今やミッシェルと男の動きに全ての民衆の視線が集まっていた。
「この言葉は間違いなく極夜卿のもの。お前だって聞き覚えがあるはずだ。お前に課せられた主命を無視するつもりかよ」
「……それは、いえ。もし通してほしいのなら、極夜卿本人を連れてきてください。身分証明書の無い死神は、如何なるものも中に入ることはできないのです。たとえ……それが極夜卿の命令だったとしても。これこそ、極夜卿が定めた『規律』。そのことを、貴方が存じあげていないはずがありません。もし、貴方が本当に――極夜卿の使者ならば」
ミッシェルがそうきっぱりと言い放つと、男は不機嫌そうに眉をひそめた。その明らかな表情に、ミッシェルは半ば確信を持って言葉を続ける。
「お引き取りください。私の主命は、この本部に立ち入る会員を案内すること。相手が会員でないのなら、私も然るべき対処をいたしましょう」
ミッシェルの対応に民衆からブーイングが上がった。しかし、その言葉を投げつけられた当の本人は、ひどく面白そうにこの展開を静観している。まるで、こうなることを想定していたかのように。
「……はは。あんたは偉いな。流石だよ。褒め称えてやる」
男はミッシェルに近付いた。息のかかるほどの距離になってようやく、男はそっとミッシェルに向かって囁くように呟いた。
「――こんな茶番を、よくもまあ見抜いたものだ」
ミッシェルは目を見張る。嫌な予感が脊髄を駆け上がり、慌てて男を突き飛ばして、その片手に武器を握った。しかし、相手の動きは戦闘になれていないミッシェルよりもはるかに速い。民衆を背に、彼は真横に片手を伸ばした。
「まあ、仕方が無い。俺は俺の主命のため、このビルを昇らないといけないんだ。そのためには――少しの暴力も許される。そう思わないか?」
「ッ、警備員、彼を拘束しなさい!」
大声で警備員に声を掛ける。しかし、極夜卿の声に呆けていた警備員はすぐに動けず、武器を取る手足をもたつかせる。間に合わない――ミッシェルは不甲斐なくもそう確信してしまった。
「ハハハハハハ!」
男が笑う。顔を歪めて、酷く楽しそうに笑っている。その異様な光景に、彼の後ろに続いていた民衆たちも驚いて固まった。
「じゃあな、まともでお堅い受付係さん」
男がそう言った瞬間。彼の手から、ころりと爆弾が転げ落ちる。そして、瞬きすら許さぬ合間に、それはぴかりと光を発した。




