Episode2「その願いは叶わない」①
六月も半ばに差し掛かり、梅雨前線の到来で毎日のように雨が降っていた。雨の日は気分が沈む、とは言うけれど、僕は逆に気分が晴れ晴れしている。隣でつまらなそうにペンを回す、五月病にことごとくやられて治らない幼馴染とは違って。
「………だめだ。先生の話が全く入ってこない。このまま家に帰って休みたい」
「だからって単位を捨てるわけにはいかないだろ。テストもあるんだし──ほら、ちゃんと聞かないと」
「どうして深月はそんなに元気なんだよ」
どうして、と言われても。
今まで鬱陶しくて仕方のなかった霊達が、そそくさと逃げるようになったからに決まっている。一ヶ月前、カフェの店主で死神を自称するルカさんから貰ったお守りは、その役目をしっかりと果たしてくれた。青白い霊は近付かなくなり、黒い霊──悪霊はその姿さえ見なくなった。彼の言っていたことは間違っていなかったのだろう。このお守りのお陰で、穏やかな毎日が遅れているのだ。ルカさんには感謝しかない。まあ、あの日のことは翔には隠しているから、赤裸々には言えないけれど。
「……いいことがあったんだ。バイトの時間を長く取れるようになったから、遊ぶお金を作れるかなぁって」
これは事実。夜も安心して働けるようになり、空いたシフトに入ることができるようになった。お守りの恩恵は意外なところにもあったようだ。
「それは良かったな。お前節約とかいって格安スーパー回ったりタイムセール行ったり、友達に誘われても遊びに行かなかったから……そういえば、大学で俺以外に友達できたのか?」
「……いや」
友達付き合いというのはお金がかかるもの。そういう認識があるものだから、翔以外に親しい友人というものを作ったことがない。家族を亡くしたと知られ気を遣われるのも申し訳ないし、身の上を話すことで向けられる憐れみの目が面倒になってしまったのも理由のひとつだった。それらを自分から避けていった結果築かれたのが、翔という一番の親友と僕を引き取ってくれた叔父夫婦、それとすれ違ったら挨拶する程度の数人の知人という、僕の交友関係である。
僕が首を横に降ったのを見て、翔はわざとらしい大きなため息をついた。
「お前なぁ。前から友達少なかったけど、俺がいなくなったらどうするんだよ。事情を知る友人の一人や二人、作っておいたほうがいいんじゃないか」
「確かにそうだけど、話すと尚更誘ってくれなくなるんだよ。僕の事情について詳しく知っているのは、翔だけで充分だ。それに、あまり広めたい内容ではないしね」
「……そっか。でも、困ったときに相談できる相手くらいは、俺と叔父さん以外にも作っておけよ。あ、先月お世話になったルカさんとかどうだ?あの人結構気さくだし、話しやすいと思うけど」
そう翔に言われて思い出すのは、空のように明るい、海のように煌めく蒼い双眸。そして、人好きのする柔和な笑みである。
そういえば、ルカは友人なのだろうか。知人というには彼の正体を知っているし、気の許せる友人かというとそういうわけでもない。僕は、彼の電話番号──電話を持っているかは分からないが──すら知らないのだ。
「……ルカさんとは、一回会ってお世話になっただけだろ」
「そうだけど。俺、深月とルカさんって相性いい気がするんだよな。なんというかこう……雰囲気が似てるっていうかさ」
「流石に似てない」
あの一目見た女子を虜にして落としてしまう青年と、彼女いない歴イコール年齢の女子の友人すら少ないこの僕の雰囲気が似てるだなんて。冗談にしてはルカに失礼だと思う。
「そうか?普通の人と何か違うような……不思議な雰囲気、は似てると思うけど」
例えば、何もないところをじっと見ていたり、人とはどこか一線を引いていたりするところとか──そう続ける翔の言葉は、僕の耳に殆ど入ってこなかった。そう思っていたのか、気をつけないと、とは思ったけれど、それ以上に、受けた衝撃が大きかったのだ。翔がそう言った理由は一つしか思い当たらないから。
僕はなにも言えずに、まさか、とただ苦笑いを返すことしかできなかった。
雲の向こうに隠れた太陽が、沈みかけているらしい。空は少しずつ暗くなってきて、夜の足音が近付いてきているようだ。バイトに向かう翔と別れ帰路に着いた僕は、ふと横断歩道の向こう側を眺めた。
そこには、青白い霊が一人ふよふよと漂っている。道行く人を観察でもしているのか、それとも風景を眺めているだけなのか、雨のなかで突っ立っていた。
この一ヶ月で分かったことがある。青白い霊は黒い霊とは違ってそこら中で目にするけれど、黒い霊と違い人間を害する存在ではないらしい。こうやって景色を眺めているか、ただ何かの作業をしているか──ともかく、そこまで怯えなくていい存在であることは確かだ。
信号が青になる。人々は歩きだし、僕も傘で前方を少し隠しながら前に進んだ。しかし、霊の横をさもなにも見えませんと言わんばかりに通りすぎようとしたとき、くい、と弱くはない力で袖を引かれてしまう。
何かと思って振り返るのが、普通の人だろう。けれど、すぐそこには霊がいて、その霊が僕の袖を握っているのを視界の端で捉えてしまったものだから、どうしようか、と頭を悩ませた。見えない人の反応なんて、僕は知らない。とりあえず振り返って、首でもかしげて進んでしまおう──そう思って袖を引かれたほうをみてみれば、霊の姿が目の前にあった。腰までの長い髪を垂らした、ワンピース姿の女性だ。以前よりはっきりとその容貌が分かる気がするけれど、きっと気のせいだろう。僕は目線を合わせないように、首をかしげてその手を振り払おうと前に足を踏み出──せなかった。
「あなた、わたしのことが見えているのでしょう」
確信をもって、霊の口が言葉を紡ぐ。なぜ、幽霊が話しかけてきたのだろうか。僕は今もあのお守りをつけているし、その効能は確かなはずなのに。動揺する僕を気にも止めず、彼女は言葉を続けた。
「あなたは死神。あの世とこの世の、境界の守り人。違う?」
返答してもいいのだろうか。少なくとも、今はだめだ。人の目が集まっているから。どうして僕を死に神だと思っているのかは知らないけれど、彼女は僕が見える側ということに気がついているらしい。無駄な嘘は意味がない。
「……場所を変えていいですか。人気がないところに」
小声で、彼女にだけ聞こえるようにそういえば、彼女は素直に手を離した。
路地を曲がり、人通りの少ない道へ出る。振り返ると、律儀に後ろをついてくる霊がいた。
どうしようか。ルカのいるあのカフェまでは電車で数駅分の距離がある。そも、徒歩での行き方は分からない。スマホで検索すればいいのだろうが、彼女の視線がある以上不思議がられそうだった。ここで、なんとか彼女を遠ざけなければ。そう思っていると、後ろから霊が話しかけてきた。
「あの、そろそろいいのではないですか。人は辺りにいませんから。そろそろ、わたしの質問に答えてください」
「……そうですね。僕は死神ではないです。ただ幽霊が見えるだけの人間ですよ」
そう答えると、彼女は驚いたのか目を丸くする。
「まさか。なら、その携帯についたストラップは一体なんなのかしら」
彼女は僕の手に握られたスマホを指差した。そこには、ルカさんから貰ったあの御守りが揺れている。
「そのストラップの宝玉、死神にしか作れない素材でできていますよね。霊達が忌み嫌う、あの武器の素材と同じですから」
「あの武器?」
もしかして、先月悪霊に襲われたとき、ルカが持っていた短剣のことだろうか。首をかしげたままの僕にしびれを切らしたのか、彼女は大きなため息をついた。
「とぼけないで。とにかく、あなたにわたしのお願いを聞いていただきたいのです。死神にしか対処できないことですから」
「だから僕は死神じゃないですよ。このストラップは、友人に貰ったもので──」
「では、その友人に会わせてください!」
彼女は、引くつもりがないようだ。僕の両腕を掴んで、なにかを乞うように上目使いでこちらをみてくる。捨てられた子犬を想起させるその視線は、このまま放っておくことを躊躇わせた。彼女は幽霊。この世界の大多数は、その姿を視認することはできない。そんな彼女が、唯一見える僕たちに頼ってきたのだ。それを考えると、尚更その手を振りほどけない。
「……分かりました。連れていきますから、その、しがみつかないでください」
僕がそう了承すると、よほど嬉しかったのか、彼女は花が咲いたように明るい笑顔を見せた。
「ありがとうございます!では早速、お願いしていいですか?」
それに、ルカのところに連れていけば、なにか対処してくれるかもしれない。何かあったら頼ってくれって、あの人も言っていたのだから、きっと無下にはしないだろう。問題は、彼女を連れてどうやって移動するか、だ。ここから徒歩というのは流石に辛い。
「ここから少し離れたところにいるんです。雨も降っているし、できれば楽に移動したいんですけど。幽霊って、電車とかバスとか、そういうのは……」
「使えません。乗せる肉体がありませんから、空を飛ぶか、歩いていくかしかありませんよ」
「人に憑依していくとかは」
「あまり勧められた行為ではないので、できればやりたくないですね」
笑顔できっぱりとそう言い放ったものだから、僕は何も言い返せなかった。
「それで、俺のところに来たんだね」
ため息をついたルカは、ソファに座る僕の隣にいる女性を見上げてそう言った。幽霊である彼女は、部屋に置かれた家具やら何やらを興味深そうに眺めている。以前あった書類らしきものは全て仕舞われているが、高そうな家具やら置物やら観葉植物やら、見ごたえは損なわれていないのだろう。
「突然押し掛けてすみません。店を畳んでいる最中だったのに」
僕が店についたのは、日が暮れてルカがちょうど店前の掃除を始めている時だった。徒歩で来たものだから足は棒のようになり、雨に吹かれて身体中はびしょ濡れになった僕を、彼は快く迎え入れてくれたのだ。しかも、身体を拭くためのタオルと温かいポタージュつきで。
「いいよ、こういうのも俺の仕事だ。そもそも、俺が説明し忘れたのが原因だしね」
ルカ曰く、この御守りは所有者が"死神"と関わりがあることを周知させるものらしい。霊達にとって死神は霊を冥界に強制送還する存在であるため、現世に執着する悪霊の類いは近寄ってこなくなる。そうして結果的に身を守ることに繋がるという仕組みだ。
「けれどたまに、こうやって死神に用がある霊もいるからさ。霊が見えなければ問題ないけど、見えるなら話は変わる。まあ、解って近寄ってくる霊の殆どは無害だから大丈夫だよ。今度またこういうことがあったら連絡して。これ、俺のSMSアカウント」
彼は懐から黒いハードケースのスマホを取り出して、SMSのQRコードをこちらに見せた。普通にスマホを持っているんだな、と思う。契約とかはどうやっているのだろうか。疑問に思うことは多いけれど、とりあえず言われるがままQRコードを読み取り、出てきたアカウントを友達登録した。
「……やっぱり、青い霊って人に危害は加えないんですね」
ふと思ったことを口にすれば、ルカはああ、小さく頷く。
「基本的にはね。そこまで分かっていたんだ」
「見えるようになって長いですから。僕は僕なりに彼らのことを観察して、なんとか今まで避けていたんです。襲われたのは先月が初めてでした」
なぜ突然襲ってきたのか。それは疑問に残るけれど、今はこれからのことを考えるべきだ。どうすれば翔を、大切な人たちを、そして自分を守れるか。
「彼女のように青い霊は善霊と呼ばれている。この世界に未練はあるけれど、現世に拘らず、人間や他の魂に手を付けていない存在だ。俺たち死神の仕事に、そういう善霊が成仏できるようにするという内容も含まれている」
だから話しかけてきたんだろうね、と彼女に視線をやりながらルカは笑った。
「さて、お嬢さん。部屋の観察もいいけれど、そろそろ本題に入ってくれないかな。死神にしか対処できないこと、それも幽霊である君がわざわざ死神に頼りにくるってとは、普通じゃないことが起きているんだろう?」
そうルカが女性に問いかけると、彼女は視線をルカと僕へ交互に向けて、こくりと小さく頷いた。
「私が住む場所の近くに、寺があるんです。成仏できなかった霊の会合場所になっているのですが、ご存じでしょうか」
「……寺に霊が多いことは知っているよ。それがどうかしたのかな」
「実は、そのなかに厄介な霊が住み着きまして。人間だろうと幽霊だろうと捕まえてしまうんです。捕まえて、隠して、溜め込んでいる。きっと一気に食べて一気に力をつけるつもりなんだと思います。少しずつ食べれば悪霊に変わり、あなた方が飛んできてしまうから」
そう言う彼女は、恐怖からか握りしめた拳をふるふると震わせている。そんな彼女の様子を見たルカは顎に手を当てた。
「君の考えは間違っていないだろうね。今のところこの東京には悪霊らしき悪霊はいない──俺たちの監視から逃れるには、そうやって敢えて危害を加えないのが一番だから」
善霊が人間に対して拳を振り上げたとき、その魂は黒く染まり悪霊に分類される。だが、危害を加えようと画策しているだけでは悪霊にはならない。故に、死神の捜査網から逃げることができる──それがルカの説明だった。
「魂を食べれば食べるほど、悪霊の力は強くなってしまう。君の話が確かなら、その偽善霊を早いうちに対処しなければいけない。………分かった、今すぐにでもそこにいこう。案内してくれる?」
「本当ですか?!ありがとうございます!」
嬉しそうにお辞儀を繰り返す彼女を諫めて、ルカは僕に視線を寄越す。
「深月、彼女を連れてきてくれてありがとう。今日のところは帰っていいよ。夜も遅くなるから」
そう言われて、僕は少しだけ固まった。彼が、僕の身の安全を思って言ってくれたのは理解できる。けれど、本当にこのままでいいのだろうかと──悪霊から、彼に守られ続けるだけでいいのだろうかと、そんな思考が頭を支配した。悪霊とは何か、どんな存在で、どういう手段が効くのか。そういう自衛の手段をひとつも知らないままでいいのだろうか。
例えば彼のいないところで、彼のいないときに悪霊に襲われたら、僕はただ逃げることしかできない。その悪霊が他の見えない人に手を伸ばしても、それを防ぐ手だてすら持っていない。悪霊は少ないと言うけれど、万が一がいつ起こるかは分からないのだ。念のため、相手について知っておくことは何の損にもならないだろう。
そう思い至って、僕は首を横に振った。
「……いえ、僕もついていきたいです。お邪魔になるかもしれないですけど、行かせてくれませんか」
僕の返答に驚いたのだろう。ルカは一瞬目を丸くしたあと小さくため息をつき子供を諭すような優しい声で言った。
「危ないよ。相手は生きている人どころか幽霊でさえ捕まえてしまうようなやつだ。つまり、そうまでして力を付けたいと思っている。どんな手を使ってくるか分からないんだ」
だから、帰った方がいい。そういう彼の透き通る蒼と目があって、背筋にぞくりと寒気が走る。彼は僕を脅して怖がらせて、帰らせようとわざと目を合わせたのだろうけれど、僕だってただ興味本意で付いていきたいと言っているわけではない。僕はまっすぐ、その瞳を見つめ返した。
「それでも。幽霊のことを、死神のことを知っておきたいんです。これから先、またこういうことがあるのなら尚更。知っていれば、何かできることがあるかもしれないから」
僕の覚悟が伝わったのだろうか。彼は少し視線を泳がせたあと、仕方ないと言わんばかりの大きなため息をついた。
「分かった。決してそのお守りを手放さないで、俺からも離れないこと。それを守れるなら、ついてきてもいいよ」
「あ、ありがとうございます!」
彼は何を思ったのだろう。お辞儀をした僕の頭に軽く手を乗せる。その表情は見えなかったけれど、頭を撫でられて悪い気はしなかった。