Episode10「東ユーラシア死神協会」③
「ばか、そんなことさせるわけがないでしょ」
僕の指が彼女の手に乗せられたクッキーに触れるその瞬間、彼女はその手を引っ込める。そして、クッキーをひょいと口に放り投げると、美味しそうに咀嚼してあっという間に嚥下した。僕はそんな彼女のことを呆然と見つめ、はたと目を瞬かせる。
「……僕に、これを食べろってことじゃないんですか」
「何を言ってるの? これを食べたら、あんた死ぬのよ。私は自分で自分の腕に手錠を掛けるつもりはないから」
では、なぜこんなことをしたのだろうか。
行く当ての無くなった手を浮かせたまま、僕は彼女のことをじっと見つめた。すると、彼女はにやりと嬉しそうに微笑んで、僕の右手を攫うようにつかみ取る。
「でも――あんたのことは、ちょっと分かった。その覚悟、この『冥界の番人』が買ってあげる」
「僕のこと、ですか」
「そ。とにかく、私についてきて。私は監査局の死神だから、協会の事情に深く踏み入ることはしないけど……仲立ちをすることくらいはできる」
そう言って、アトロポスは踵を返した。ポールに掛けられたマントを羽織って、彼女は蒼い髪をふわりと靡かせる。その立ち姿を彩る不敵な笑みは、彼女の『冥界の番人』としてのある種の矜持を感じさせた。
「行こう。協会の死神に、あんたの覚悟を伝えるの」
彼女の立ち姿を見て、そして彼女の言葉を聞いて、僕は拳を握りしめる。拘束され、押さえつけられた感覚が未だ身体に残っていた。それを振り切るためにも、僕はここで立ち止まってはいけない――そう思い直すほど、アトロポスの強引さに救われている。
彼女について、僕はまだよく知らない。クロトから聞いた話と、この数分間の交流で、彼女について分かった気になることなどできやしないのだから。
そしてそれは、冥界についても、覡やルカについても同じことだった。
僕はまだ「みんなを守りたい」と胸を張って言えるスタートラインにすら立てていない。そのことをありありと突きつけられて、僕ははっと息を呑む。
知りたいことを知るために。知るべきことを知り、何かを変える力を得るために。
僕は今、ようやく自分が立つべきスタートラインが見えたような気がした。
「はい」
今回こそ揺るぎない覚悟を持って返事をすれば、目の前の彼女は不敵に笑う。待っていましたとでも言いたげに、彼女は眼窩にはめ込まれた藤色をすっと細めた。
東ユーラシア死神協会。
現世ではユーラシア大陸東部を統括し、その治安を守る死神の団体だ。冥界では『回生の樹』東部に位置し、大樹のふもとにある都市部には高層ビルによるコンクリートジャングルがそびえている。
アジア地域の文化をチャンプルしたような独特な風俗を形成していて、他の統治区に比べればその人口は多いらしい。それはインドや中国といった現世での人口が多い地域を含んでいる――からではなく、協会の代表――調停者が掲げる理念にあるという。
「『規律』。それが東ユーラシアの……私たちの理念であり、冥界の王に誓った約束。貴方が東ユーラシアの死神だというのなら、この理念を何が何でも守りぬきなさい。この約束を破ることは極夜卿への冒涜よ。ゆめゆめ忘れないように」
僕に一瞥もくれること無く、アリスは淡々と説明を続ける。その視線は窓の外の『回生の樹』に注がれていて、周囲の空気を満たす緊張に僕は静かに喉を鳴らした。
「こら、アリスさん。そんなに威圧しないでください。彼もまた慣れない場所に緊張しているのですよ」
僕の感情を代弁したのは、関東支部の支部長、柊誠だ。清潔感のあるスーツに身を包んだ彼はアリスの隣に腰をかけ、警戒心を露わにする彼女を物腰穏やかになだめている。オーバル型のメガネをかけ、糸目の目尻を緩めながら柔和な笑みを湛える彼の姿には、覡やルカとはまた異なる魅力があった。
僕は今、関東支部にお邪魔している。経緯を一言で説明するなら、アトロポスが柊支部長にかけ合ってくれた、というところだろう。アリスが所属する部署、という点で、そして担当地域が隣接する支部として、彼は僕のことを快く受け入れてくれた。
「深月さんもあまり固くならないでくださいね。ほら、茶菓子でもいかがです? 巷で話題の最中なのですが」
「お気遣いありがとうございます。それで……東京支部について、なんですけど」
食べることのできない最中をやんわりと断って、僕は彼らに向き直る。ソファに腰掛け、先程から一向に目を合わせないアリスは、まだ僕のことを警戒しているのだろう。柊もまた、柔らかな笑顔の下に、僕に対する緊張を潜ませていた。
「……ええ。その話が聞きたいのは知っています。確かに、あの東京支部が水面下で動いているのなら、アトロポスさんや深月さんの話に筋が通るでしょう」
「なら」
「ですが、すみません。今冥界は――というより、東ユーラシア支部は、全てに対して警戒を強めているのです。ですから東京支部長と会って話をしなければ、貴方を同胞として心から迎え入れることは難しい。貴方を監視下から外すこと、そして貴方を顕界に渡すことはできないのですよ。たとえ、それが会長や監査局の命令であったとしても」
柊の言っていることは理解できる。僕は表立って活動していないとされる支部に所属していて、冥界に僕のことを死神として見てくれる人が多数いるわけでもない。蓮花から随分と協会が深刻な状況に陥っていることも聞いていた。身分のはっきりしない僕を、そう簡単には信用できないのだろう。こうして拘束を解いてくれただけでも、彼はよほど譲歩してくれているに違いない。
けれど、頭でそう理解していたとしても、僕の肩は抗えないようにがくりと落ちた。
――しばらく、現世に戻れない。
それが意味するところは何か、など考えたくもなかった。翔との約束が頭の中を巡っていて、同時に動揺と焦燥が僕の思考を支配する。
「そんなに悲しい顔をなさらないでください。こちらからも会長にかけあってみますから。機密事項である東京支部の存在について、なにか表明があるかもしれませんし」
そんな僕を慰めるように、柊は噛みしめるように言葉を連ねた。
「ですが、まあ。それまで貴方を放置するわけにもいきませんよね」
メガネのずれを片手で直し、柊の視線が隣に座るアリスに向く。アリスはその目を見開いて、すぐさま首を横に振った。
「ひ、柊支部長。私は嫌です。素性の知れない男と二人きりなんて」
「……そうですよね。でも、もう一人信頼に足る人が居れば問題ないのではないですか」
ふ、と口角を緩めた柊は、「失礼」とポケットからスマホを取り出す。黒いカバーに包まれた手帳型のそれは、ルカや覡が持っているものと同じものだ。
つまり、冥界でも電波が通じる、ということ。どんな現象でそうなるのかは知らないが、スマホを通じてルカや覡に連絡を取ることができるかもしれない。最も、僕個人のものは現世に忘れてきてしまっていて、誰かから借りることしかできないのだけれど。
そんなことを考えながら、僕は柊の動きを注視する。彼は手慣れた様子でデータの電話帳から誰かの番号を選択し、天井を見ながらその誰かに電話を掛けた。
「お世話になっております。東ユーラシア死神協会関東支部、支部長の柊です。いいえ、今日は注文ではありません。ただ、少しばかりご助力を願いたくお電話しました。ええ、すぐに――と言いたいところですが、そちらの仕事が片付いてからで構いませんよ。不躾ながら、どのようなお仕事かお伺いしても? ……ああ、それなら、こちらに来ていただければよいかと存じます。彼は今、関東支部でお茶を飲んでいますから。はい。ええ……それでは、お待ちしております。よろしくお願いしますね」
終始笑顔を崩さずに電話を続けた柊は、そう言って通話を終了する。何が起きたのかさっぱり分からず、アリスでさえも目を瞬かせていた。そんな僕たちを見回して、柊は一人納得したように頷いた。
「これで万事解決です。アリスさんは一人ではなくなりますし、深月さんも安心できることでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってください。説明を願います」
僕よりも先に、アリスが慌てた様子で柊に問う。僕に対して見せていた不信感すら忘れて、彼女はひたすらに首を横に振った。
「例え二人になったとしても、私には私の仕事があります。こんな得体の知れない男の面倒なんて見られません」
「大丈夫です。彼には貴方の仕事の補佐についてもらうことにしますから。それに、今読んだ助っ人も強力ですよ。それでも嫌なら、彼に買い物の荷物持ちでもさせればいい。確か、服やら何やらを買い替えたいとぼやいていたでしょう」
「ですが! 私たちが重んじるべき協会の規則では、不審者は拘束すると……」
「それは監査局に拒否されてしまいましたので。それに、アトロポスさんから彼の身柄を託されているのです。であれば、その規則に則って仕事をしてもらうのはいたって普通のことかと考えますが」
抵抗空しく柊によって言いくるめられたアリスは、不満そうにその表情を曇らせる。そんな彼女を見かねたように、柊が「つまり」と話を続けた。
「もし、彼が監視中になにか『規律』を乱すようなことがあれば。その時は――アリス・ブランシェ、貴方に、そして私たちに裁量権があるのです。すぐさま拘束して、霧の向こうに流してしまっても構いませんから」
その時。彼の薄い瞼に隠されていた紫紺の瞳が、僕のことを貫いた。背筋を何か冷たいものが駆け上がり、彼の優しい笑顔にすっかり油断していた僕の身体は一気に緊張で強張ってしまう。覡の放つ威圧感とも、ルカの湛える冷気とも違うそれは、僕のことを萎縮させるには充分すぎた。
異様な緊張が僕たちの間を走り抜ける。彼から浴びせられたむき出しの警戒心に、心臓がばくばくと鼓動する。恐怖にも似た僕の緊張は張り詰められた糸のようで、僕は平常心を保つために息を呑んだ。
――彼は、僕を殺す覚悟ができている。
でなければ、柊は僕を自分のテリトリーに踏み入れさせることはしないだろう。なぜ彼が不審者と認定された僕を受け入れたのか、ということについて、僕は盛大な勘違いをしていたようだ。
それはただ、彼が優しいからではない。
僕をどうにかできるほどの実力と、それに付随する自信と覚悟があるからこそ、彼は僕をこの部屋に招いたのだ。
アトロポスがなぜ、ここに来る前に僕に覚悟を問うたのか。
その意味が、柊の生身のそれを受け止めて分かった気がした。
生身の覚悟は、覚悟で以て返さなければならない。いや、覚悟は覚悟でしか相対することはできない。生半可な覚悟では、彼等の決意の前に屈してしまうから。
「……それで、僕は構いません。お二人の判断に任せます」
激しく鳴る心臓を落ち着かせながら、僕は露わになった紫紺の双眸を見つめ返す。すると、柊はほんの僅かに瞠目して、やがてその口角を持ち上げた。
「なるほど。アトロポスさんの慧眼も、信じてみる価値があるようです」
どうやら、僕の返答は柊にとって満足のいくものだったらしい。彼は嬉しそうに目を細めると、その紫紺を瞼の裏に隠した。柔和な笑みを貼り付け直した彼は、気を取り直すように、そして緊張の糸を解くように両手を合わせる。
「さあ、深月さん。貴方にはしばらくの間、関東支部の仕事の補佐をしていただきます。と言っても、冥界から出すことはできないので、ここの治安維持になりますが。せっかくですからアリスについて、冥界を回ると良いでしょう」
「は、はい」
「アリスさんも、彼のことをよろしく頼みます」
「……承知しました」
柊は僕たちの返事を聞くと、満足げに笑顔を浮かべた。彼の瞳は再度瞼の裏に隠されて、その表情も先程までの柔和で物腰穏やかな雰囲気に戻っていた。アリスもまた緊張の糸がほどけたようで、大きなため息をつきながらその人差し指を僕の胸に向ける。
「深月。いい? 『規律』を絶対に破らないこと。じゃないと……分かってるわね?」
それは言外に「始末する」と訴えていた。いや、それ以外にも、隣でにこにこ笑っている上司への僅かな畏怖も含まれている。僕は恐る恐る首肯して、これからお世話になるアリスと柊に向かって頭を下げた。
「よろしくお願いします、アリスさん」
「……ええ、よろしく」
アリスは腕を組みながら、そんな僕を見定めるように見下ろしている。その視線に気まずさを覚えながらも、僕は目の前の彼女から目を逸らしたくはなかった。
恐怖と緊張が胸中で絶えず湧いている。震える足を叱咤して、僕は彼女の翡翠を真っ直ぐに見据える。
『そういう人ならざるものに、あまり干渉してはいけないよ。自分も仲間にされてしまうって、よく言うだろう?』
記憶に刻まれた老婆の声が、僕の腕を引き留めようとしていた。けれどもはや、その言葉は僕の覚悟の前にはブレーキにすらなり得ない。
――貴方のせっかくの忠告を、僕は無視することになる。
それでもきっと、僕はこの選択を後悔することはないだろう。これは僕が選ぶ道であり、僕が歩いて行く道だ。そして、その道の果てには、きっと自分の覚悟に見合った何かが見つかるに違いない――僕の中には、そんな理由のない自信が宿っている。
肺の中を空にして、風船を膨らませるように息を吸う。吸い込んだその空気の中に、どこか懐かしい、甘い花の香りが混じっているような気がした。




