Episode1「離別と出会い」②
二つの黒い革張りソファに、ガラス製のテーブル。なにやら書類が積み重なった机が、窓際左手に置かれていて、壁には焦げ茶色のタンスや本棚が並べられている。
現世で最も安全な場所、といって青年が二人をつれてきたのは、青年の営むカフェの二階にある、事務所のような場所だった。未だ起きそうにない翔はソファを丸々ひとつ使って寝かされていて、丁寧にも毛布がかけられているが、肝心の青年はお茶を淹れてくるから、といって扉の奥に消えてしまった。
暇をもて余して周囲をよく観察すれば、書類が積み重なった机の隣にはこれまた高そうな革張りの椅子が置かれている。これ程ものが多いというのに、部屋の何処をみても埃が積もっている様子はなく、むしろ綺麗すぎるくらいだ。部屋に置かれた品々はどれも高級そうで、下のカフェのアットホームな木目調とは違い、白と黒を基調としたモダンな雰囲気の家具で統一されていた。
「何か面白いものでも見つけた?」
「わっ」
背後から突然声をかけられ、思わず身体が飛び跳ねる。気配をまるで感じなかった。当の本人はにこにこと人好きのする笑顔を浮かべながら、両手で急須と湯飲みが乗ったお盆を持っている。座ろうか、と促されるまま、僕は翔の傍ら、空いているスペースに座った。
「……あの、僕、あなたに聞きたいことが」
「一先ず、お茶でも飲んで落ち着くといい。君の求める答えは、そうだね。答えられるだけちゃんと答えてあげるから。もし時間が足りなければ、営業時間外にここに来てもいいし」
濁りのある、香り高い日本茶が差し出される。確か下のカフェで日本茶は扱っていなかった筈だから、ここに置かれたものなのだろう。僕はお茶を一口飲んで、いつの間にか乾ききっていた唇を潤した。それだけで、それまで張りつめていた緊張の糸がふっと解けた気がする。強張っていた肩から力が抜けて、あの霊をみた時に走った寒気が何処かに消えていったのを感じた。
「落ち着いたかな」
「はい……大分。ありがとうございます」
「どういたしまして。さて、落ち着いたなら話をしようか。その様子では、俺に聞きたいことがたくさんあるみたいだからね。時間はある。焦らず一つずつ聞くといい」
僕の正面に座った彼は腕を組み、長い睫で縁取られた海のような瞳を細める。その様は僕を見定めているようで、僕も思わず固唾を飲んだ。
「あなたは、一体何者なんですか。助けてくれたのは、感謝しています。けれど、僕は……あなたが普通の人間だとは思えない」
「……成程。どうしてそう思ったのかな」
どうして、と言われれば。その理由はひとつしかない。
「昼、貴方と目があったとき。霊を見た時と同じ寒気が走ったんです。だから」
「俺が、あいつらと同じ存在だと。そう思っているわけだね」
僕は恐る恐る頷く。もしかして、機嫌を損ねてしまっただろうか。もしくは触れてはいけない話題だったとか。けれど彼は、困った様子も、傷ついた様子も見せず、あっけらかんと答えて見せる。
「半分正解、といったところかな。あいつらと俺は似ているけれど、完全に同じという訳じゃない。それは君も分かっているはずだ」
確かに、彼の言うとおりだった。彼は僕以外の人に見えるからこそカフェを営んでいるわけだし、僕たちを守ったことから人間に危害を加える霊とは正反対の位置にいることは容易に推測できる。もちろん、まだ心を許しきった訳じゃない。彼もまた、得体の知れない存在であることには変わりがないのだ。
「まずあの黒い霊は、悪霊と呼ばれている。その名の通り、生者にとっての敵だ。彼らはもともと成仏できなかった、もしくはしなかった魂。魂は本来なら生まれ変わらなければいけないけれど、悪霊はそれを拒む。生者への羨望や嫉妬、そして憎悪から、生者の魂を喰らって現世に留まり続けようとする。そんな彼らから人間を守っているのが、俺たちだ。そうだね、種族名を答えるなら、死神、が妥当だろう」
死神。
死神と言えば、黒いローブを着て、大きな鎌を持って、生者から魂を刈り取るものだ。あくまで伝説上の存在で、人間が死という概念を恐れて作り上げた空想のひとつ。
「俺たちは悪霊と同じように、正式には死者に分類される。ただ一つ奴らと違うのは、冥府──冥界を取り仕切る政府、といったところかな。そこから、肉体を授けられて現世に留まることを認められている。悪霊を輪廻に還し、生者を守るためにね」
つまり、と彼が続ける。
「俺たちは、死者と生者の境界を守る門番であり、その境界を犯したものを許さない冥府の執行官だ。死神というのは単なる呼称でしかない。君たちの想像する死神とは乖離しているけど、これが真実だ。何か質問はある?」
正直、混乱して頭がついていかなかった。説明自体はとても分かりやすく理解することはできたけれど、受け止められるかといったらそうではない。彼が死者で、冥府というものがあって。黒い霊から人間を守るために、こうして生者の世界に来ているのだと。彼の身体は温かかったし、目があったときに感じた寒気以外は、どこも可笑しいところがなかった。昼間に見たカフェを営む姿なんて、そこら辺の一般人とまるで変わらなかったのに。
顔をあげれば、変わらず笑顔を浮かべる彼のサファイアと目があった。途端に背筋に走る寒気に、彼の言っていることが嘘ではないことを理解してしまう。
「……いえ」
それが信じられなくて、目を逸らしてなんとか返答を絞り出せば、彼はからからと笑い飛ばした。
「ハハ、信じられないって顔してる。まあ、鵜呑みにしなくていいよ、するべきじゃない。取り敢えず、今日のところは犬に噛まれたと思っていたほうがいいかもね」
「犬」
「運が悪かったってことだよ。悪霊がああやって、ましてや俺たちの拠点があるこの地区で生者を襲うなんて普通じゃない。俺も予想外のことでちょっと驚いているんだ」
ということは、いつもなら襲われることがない、ということなのだろうか。僕はまだ、悪霊の習性をよく知らない。
「あの、もうひとつ聞きたいことがあるんですけどいいですか」
「ああ、いいよ。なんでも聞いて」
「あの黒い霊はまた、僕たちを、翔を襲うんでしょうか」
悪霊と呼ばれるあの黒い霊がもしもまた襲ってきた時、今度こそ彼が間に合うという確証はない。今回だって、運が良かったというしかないのだ。偶然僕たちがいたのが彼の拠点にしている場所で、彼がすぐに気付き駆けつけてくれたからこそ、僕も翔もこうして無傷で生きている。
不安を抱いて命の恩人を見れば、彼は少しだけ思い悩んだあと、静かに言い放った。
「襲うよ。確実にね」
彼の様子は冗談をいっている風ではない。いつの間にか彼の笑顔は消え去っていて、青空を想起させる瞳は深海のごとき冷たさを宿していた。
きっと襲われる、そう半ば確信していても、やはり断言されたときのダメージは大きいもので。僕は暫く言葉を発することができなかった。もし僕が、彼が居ないところで翔が襲われたら。霊感のない翔はいとも容易く悪霊によって殺されるのは明白だった。それだけは何としても避けたいけれど、幼馴染とはいえ僕がずっと翔と一緒にいられる訳じゃない。サークルだって違うし、学科は同じでも取っている授業の時間だって異なる。勿論、住んでいる場所も。ならばせめて、僕がいるときだけは最大限の注意を払うべきだし、霊的なものを追い払える方法があるならそれを実践するべきなのかもしれない。例えば、ありがちだけど盛り塩とか。
「少年」
その時、ぽん、と頭に手が置かれた。黒い霊を前にしたときにされたように、細くて、けれどがっしりとした指が、宥めるように僕の頭を撫でている。それはあまりに突然のことで、僕は身動きすら取れなかった。
「大丈夫、そもそも悪霊が生まれる頻度はそう高くない。もし生まれたとしても俺たちが駆けつけるから、彼が悪霊に出くわすなんてことはそうそう起こり得ないだろう。一応彼と君用に霊避けの御守りを作るから、それを肌身離さず持ち歩くこと。そうすれば、きっと安全に過ごせると思うよ」
人に撫でられるというのは、今までの人生でそうあったことじゃない。幼い頃撫でてくれた両親はとっくの昔にこの世から消えているし、大学生にもなればなおのこと。引き取ってくれた叔父夫婦に甘えるわけにもいかず、一定の距離を保ち続けてきた。普通なら今日知ったばかりの人からのスキンシップなんて払い除けなければいけないのかもしれないけれど、久しくされてきていないその温もりが、どうにも手放しがたかったのだろう。僕は大人しく、彼からのそれを享受していた。
あまりにも僕が大人しかったからだろうか、彼はハッとしたようにその手を引っ込める。
「ごめん、思わず。頭を撫でられると安心するって本で読んだものだから、つい」
「……いえ、あまりこうやって人に撫でられたことがなくて、ちょっと驚いただけです。お陰さまで落ち着きました、ありがとうございます」
お礼をいわれると思わなかったのか、青年はああ、と曖昧な返事をして視線を逸らした。少しだけ耳の先が赤くなっているのは気のせいではないだろう。気を取り直すためか咳払いをして、彼はさっと立ち上がった。
「じゃ、じゃあ俺はその御守りを作ってくるから。もしお茶のおかわりが欲しければ、そこの扉を入ってすぐのところにポットと茶葉があるからそれを使って。ああそれと、お腹は空いてない?簡単なものでよければ作るけど」
「そ、そんな。そこまでしてもらうわけには……。夜ご飯は帰ってから自炊します」
壁にかけられた時計は気付けば七時を指している。そういえば夜ご飯を食べていない。この騒ぎですっかり頭から抜けてしまっていた。
「一人前も三人前も大して変わらないよ。君たち人間は、健康でいるために規則正しい生活が大事なんだろう?帰ってから自炊したら夜遅くなってしまうじゃないか。だから遠慮しなくていい。もちろん、代金なんて取らないしね」
「それはちょっと申し訳ないです。御守りを作ってくれるだけでもありがたいのに、夜ご飯まで」
その上、仕事だとはいえ命まで救ってくれた。此方がなにかしなければいけない位なのに、彼はからからと笑うばかりだ。
「別に気にしなくていいのに。もしそれでも気になるなら……そうだ、皿洗いを手伝ってくれないかな。今日のうちに明日の仕込みもしてしまいたいんだよね」
それならいいだろう、と屈託のない笑顔で言われてしまえば、首を縦に振るしかなかった。青年は頷いた僕を見て、できたら呼ぶからとだけ言って下に下りていってしまう。面倒見が良いというかなんというか、とにかく不思議な人だ。昼に見た彼は客と店長として確かに一線を引いていたけれど、今の彼は人との距離が異様に近い気がした。
取り敢えず、自分のお茶のおかわりと翔が起きたときのために、急須を片手に先程言われたドアを開ける。お湯の入ったポットはもちろん、そこには小さなコンロやシンク、冷蔵庫が置かれ、小さなキッチンのようになっていた。腰ほどの高さの焦げ茶色の木製戸棚には、来客用だろうか、綺麗に手入れされた湯飲みやらティーカップやらが並べられ、チョコレートなどの洋菓子からどらやきなどの和菓子、更にはCMでみるような庶民的なものまで、様々な種類のお菓子が籠に分類されて収納されている。きっと冷蔵庫にも色々あるとは思うけれど、許可されていないので開けることはしなかった。
ポットの横に置かれていた茶葉のケースは明らかに高級品で、その中身を少しだけ急須に足したあと、ポットの中のお湯を注ぐ。正しい淹れ方はよく知らないので、茶葉を台無しにしている気がした。
部屋に戻り、湯気のたつお茶をちびちびと飲み進めて数十分後。眠っていた翔が寝返りをうち、瞼を震わせながら持ち上げた。
「翔!よかった、目が覚めて」
「あれ、深月?というかここどこだ?」
「……ここは、昼間にいったカフェの二階だよ。翔が帰り道に突然倒れて、その時に偶然あの店長さんが通りかかって、休ませてもらってた。覚えてない?」
霊に襲われたことは隠しつつ、それっぽくことのあらましを説明する。翔は驚いて目を見開いたあと、あー、とかうー、と唸りながら頭を抱えた。
「思い出せない……ごめん深月、迷惑かけて」
「僕は大丈夫。なんともなくてよかった」
「あとでその人にもお礼を言わないと。今どこにいる?」
「今は一階のカフェで夕食を作ってくれてる。帰ってからじゃ遅くなるから食べていけって。できたら呼びにきてくれると思うよ」
イケメンは性格までイケメンなのかなぁ、なんて呑気に返す翔は、いつもと変わらない様子だった。漸く心配ごとがなくなった気がする。店長さんは大丈夫と言ってはいたけれど、もしも目覚めなかったらどうしようかと不安でたまらなかったのだ。ほっと小さく息を吐いて、ふと思う。そういえば、店長の名前を聞いていない。胸元には名札らしきものは見当たらなかったし、カフェの店名も名前らしい発音ではない気がする。何語か分からなくて、読み方も理解しているわけではないが。
「それにしても、カフェの二階ってこうなってたんだな。なんだかマンガでよくみる探偵事務所みたいだ。というかあるもの全部高そうだし……凄いな」
寝泊まりするにはベッドやらなにやらが少ないから、きっと翔の言うとおり事務所か何かなのだろう。来客用にお菓子を常備してあるのも、やたらと高級そうな日本茶があるのも頷ける。机の上に置かれた書類は全て伏せられていて何のための部屋なのかは分からない。けれど、この部屋、いやこの建物は自分の家よりも安心感を覚えるのは確かだった。
時計が夜八時を指したとき、ガチャリと扉が開いた。どうやら黒スーツから着替えたらしい、カフェエプロン姿の青年が現れる。
「お待たせ、完成したから呼びに来たよ。ああ、目が覚めたんだね。体調は大丈夫?」
「あっ、はい!深月から聞きました、店長さんが突然倒れた俺をここで休ませてくれてたって。本当にありがとうございます」
彼は僕のことを見たあと、事情を察したのか頭を掻いて笑った。
「どういたしまして。元気になったようで何よりだよ。下にご飯を用意してあるから、一緒に食べようか。先に降りていてくれる?俺はやることがあるから」
あれ。
そういって下に促す彼に違和感を覚える。どこか他人行儀というか、僕に対して向けられた笑顔とは違う気がした。どちらかというと、昼間に見た彼の笑顔に近いような。
「御言葉に甘えて。じゃあ深月、いこうぜ」
「あ、うん」
スタスタと先にいく翔のあとを追いかけようとして、僕は無言で彼に袖を引かれた。青年は翔が階段を降りたことを確認したあと、小さな声で話し始める。
「あのこと、彼に言わなかったんだね。正しい判断だ。これは君に渡しておこう。日頃の感謝だとか誕生日プレゼントだとか、そういう理由で彼に渡すと良い」
彼から差し出されたものを受けとると、そこには黒い宝玉のついたストラップが二つあった。銀色のフレームに入った黒の宝玉は、室内灯の光を反射して、キラリとどこか妖しく光っている。彼と同じ気配を漂わせているそれを握りしめ、僕はこの命の恩人に礼を伝えた。このお守りの効力はわからないけれど、良くしてくれた彼に何も言わないのは無礼だと思ったから。
下に降りてカフェに入れば、四人席のテーブルに簡単なものとは称しがたいほどの夕食が並べられていた。香ばしいバターの香りがする鮭のムニエルに、野菜がごろごろと入ったコンソメスープ、ワカメやらトマトやらが和えられた海藻サラダ、そしてほかほかの白いご飯。家庭料理でもここまで手が込んでいるのはなかなか見ない。先に下に降りていた翔も、驚いて目を丸くさせていた。
「お待たせ。それじゃあ食べようか」
料理を見て呆けていると、用事とやらを終わらせてきたのか青年が下りてくる。彼に促されるまま僕と翔は席に座り、その向かい側に彼が座った。
「「「いただきます」」」
「う、美味い!」
翔が口にしたのはふわふわ、パリパリとした鮭のムニエル。僕も恐る恐る一口食べれば、口のなかにバターの香りが広がった。
「こんなに美味い料理、食べたことないです!」
「そういってもらえて何よりだよ」
青年の料理は凄く美味しい。昼間に食べたケーキはもちろん、こうして食卓に出されるご飯まで全てに手が込んでいる。簡単なもの、なんて彼は言っていたが、僕にしたら相当力を入れた家庭料理だ。スープに入った野菜は丁寧に賽の目切りで揃えられているし、鮭も目に見える骨が取り除かれている。お手製らしきドレッシングはサラダに合っていて、いくらでも食べられそうな味になっていた。まさかこれが彼にとってのお手軽なんだろうか。
そこからはごく普通の、ありきたりな夕食の時間が続く。彼と翔はうまがあったようだ。大分話が盛り上がり、気がつけばすっかり打ち解けていた。二人の間で交わされた──たまに僕も巻き込みながら──のは、日常的な話だったり大学の話だったり、色恋の話だったりと様々である。最後の話題は翔から聞いたもので、青年は翔の恋愛相談を真摯に聞いて答えていた。その姿はどこにでもいる社会人のようだったけれど、サファイアの瞳と目が合う度に走る寒気が、彼は人ではないと必死に僕に訴えているようだった。
「今日は本当にありがとうございました。ご飯美味しかったです」
「いえいえ。こちらこそ皿洗いしてくれて助かったよ。また機会があればいつでも店に来て。歓迎するからさ」
駅前のロータリーで、青年はカラリと笑う。
食事と皿洗いを終えた頃には既に九時半を回っていたため、そろそろ帰ろうか、という話になった。辺りを見渡せばそこらじゅうに幽霊がいるものの、こちらのようすを伺うばかりで近寄ってこようとはしてこない。あのお守りの効果は確からしかった。翔には、いつものお礼という形でお守りを渡した。そうしなければ受け取らないし、身に付けもしないと思ったからだ。丁度ケータイストラップ欲しがっていただろ、とそれっぽい理由をつけたから、翔はそのお守りを持ち歩いてくれるだろう。
この街は夜の治安が良いとは言えない。だから青年は駅まで見送りについてきてくれた。道中で何人か霊とすれ違ったけれど、青年が彼らに対して微笑みかければ、霊は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「少年。もしまた何かあったら、いつでも俺のことを頼ってくれていい。まあ、出会って直ぐの人間なんて、信用できないと思うけど」
別れ際、彼はそう言ってきた。翔はなんのことだろうかと首をかしげているが、僕には彼が何を言わんとしているのか理解することができる。僕には、死神たる彼と同じ世界が見えているから。
「……はい。その時は、頼らせていただきます。他に頼れる人もいませんし、自分一人では解決しようもありませんので」
僕の返答を聞き、彼は一瞬驚いたように目を丸くしたあと、どこか困ったように眉を下げて微笑んだ。
「はは、君もなかなかだよね。肝が座っているというか、警戒心をどこかに捨ててきたというか。あまり信用しすぎるのはどうかと思うけど……まあ、信じてくれてありがとう。君の信用に、俺はちゃんと応えよう」
そういって、彼は僕たちに名刺を渡す。そこにはカフェと彼の名前が外国語で書かれていた。なんと読むのだろうか、と頭を悩ませていると、頭上から声が降ってきた。
「ルカ。 それが俺の名前だよ。姓は随分昔に失くしてしまったから、名前で呼んでくれると助かる。ああ、どうして失くしたんですか、という質問はやめてくれるかな。少々話しづらいことだから」
「わかりました。ルカさん、ですね。僕は日野深月っていいます。こっちは幼馴染の」
「小鳥遊翔です。俺たちのことも下の名前でいいですよ。ルカさんがいくつか分からないけど、俺たちよりは年上だと思うので」
「……確かに。お言葉に甘えてそうしよう。呼びやすいし、何より親しく思えるから。俺の店の、珍しい男性のお客様だからね。今後ともよろしく」
差し出された手を握り返せば、碧眼の青年──ルカは満足げに、けれど夜闇にとけて消えてしまいそうなほど儚い笑みを浮かべた。まだ明るい街明かりが金髪を照らし、碧眼を煌めかせたその姿は、男の僕でも見惚れてしまいそうなほど美しい。寒気が走ると分かっているのに、僕はどうしてもその青から目を離すことができなかった。
こうして、僕は彼と知り合った。この出会いをきっかけに僕の世界が大きく変わり始めていくことを、このときの僕はまだ知らない。
これは、僕と過去を生きた人々の物語。
そして、僕がいつか、彼らを殺すまでの物語だ。