Episode8「紡ぐ者」①
クロトの身体を抱き上げて、背後の音に目を逸らしながらひた走る。ルカのことは信用しているし、僕が残ったところでなんの意味も無いことくらい理解しているけれど、どうしても不安で仕方がなかった。
「お兄ちゃん」
腕の中で、クロトは僕の服をくいと引く。
「あの人……あの、空色のお姉さんは、とても怖いの。一番、私を虐めてくる。だから」
「ルカさんが心配?」
こくりと頷いたクロトに、僕はそっと微笑みかけた。
「大丈夫。ルカさんは凄い人だから。僕たちはルカさんを信じて、事務所に帰ろう」
「ほう。事務所に帰る、か」
突然聞こえてきた女性の声に、僕ははっとして立ち止まる。前方を見ると、そこにはいつのまにか一人の女性が立っていた。
「あなたは」
プラチナブロンドの髪をウルフカットにした女性。彼女は、見間違いでなければ――昼、フードコートで忠告してきた女性だった。その服が、あの監査局の少女と同じであることを除いては。
彼女を捉えて、クロトは握っていた僕の服をさらに強く握りしめた。その目には恐怖が宿り、がたがたと肩を震わせている。その様子が普通でないのは、問わずとも察することができた。
僕はクロトを背中に隠し、女性に向き直る。いつでも武器を出せるように意識を集中させ、彼女の動きから目を離さないようにじっと彼女を観察した。
「……そこまで警戒されるとは。アトロが来ると忠告してやったのは私だというのに」
「だとしても、あなたは監査局の死神でしょう」
「そうだな。確かに、私は監査局の死神だ。君たち協会の死神とは違う。こちらにはこちらの事情があり、君たちには君たちの事情がある。そして、そこのクロトは――監査局側の死神だ」
「違う!」
クロトの叫び声に、僕と女性はクロトを見る。クロトはその藤色の瞳に涙すら浮かべて、女性のことを睨みつけた。
「あなた達が、わたしをいらないっていった! わたしは死神にふさわしくない残りかすだって! だから、わたしはもう監査局の死神じゃない」
「……それは、アトロに言われたのか」
頷きすら返さないクロトに、女性は静かに頭を抱える。僕はそんな二人を眺めながら、ただクロトの震える手を握っていた。
「私が訂正しよう。クロト、貴方は監査局に必要だ。だから」
「いや! 行かない、わたしはここに残る!」
「だが、顕界は……今、監査局の手が回っていない。危険なんだ」
「いやだ!」
僕の背中に隠れてしまったクロトを見て、女性は困ったようにため息をつく。それは聞き分けのない子どもに手を焼く親のようだった。そして、なにか覚悟を決めたように、女性はこちらに一歩足を踏み出した。
「っ!」
僕は慌ててクロトを庇うように腕を伸ばす。アスファルトを叩く女性のヒールの音が、新宿の路地に響き渡った。緊張で強張る身体を叱咤して、僕は武器を作り出す準備をする。
「仕方ない」
女性は右手を虚空にかざした。熱風が渦を巻き、女性の手のひらに黒い靄が集まっていく。細く伸びる黒い靄は、やがて月光を反射する黒い刃を作り出した。
「少年。いや、青年か。クロトをこちらに渡してくれ。決してクロトには酷いことはしないと約束しよう。でなければ……君は、痛い目を見ることになる」
どうやら、女性は説得の対象を僕に変更したらしい。彼女の藤色の瞳が僕のことを真っ直ぐに捉えている。その威圧感に僕の身体は強張りながらも、背後に隠れるクロトを見下ろし、僕は彼女に向き直った。
「デスサイズ」
夜闇を照らす月光のような眩い光が、僕の手の中に集束する。瞬く間に編み出された大剣を構え、僕はクロトのことを一瞥した。不安そうにこちらを見上げる彼女に向けて微笑みかけて、僕は目の前の女性に武器を向ける。
「それはできません。クロト、下がっていて」
「その武器――君は」
「僕のことより、クロトのことです。悪いけど、僕はまだあなたを信用していません。クロトが、こんなにも怯えているのに」
「それもそうだ。助言をひとつくれてやっただけで、信用されるとは思っていない。だが……君は私に勝てるのか?」
彼女の鋭い視線に、僕はごくりと息を呑んだ。
勝てるのか、といったら、それは間違いなく否だろう。死神としての練度が彼女の方が上だということは疑いようもないし、こちらの勝利の条件は「彼女が諦めること」だというのに、女性からは何が何でもクロトを連れ帰るという強固な意志が感じられる。
勝てるわけがない。
それが、僕が冷静に下した判断だった。
それでも。
剣を構える。目の前の、強大な相手を前に覚悟を決める。息を吐き、僕は近寄ってくる女性を前に、剣を握る手に力を込めた。
「……仕方が無い。君の力を見せてもらおうか」
女性はそう言い放つと、覡に劣らない恐るべき速さで、その手に握ったレイピアを僕に向かって突き出した。その刃をぎりぎりのところで回避して、僕は体勢を立て直す。けれど、相手はこちらに攻勢を許さないように、次々と攻撃を繰り出してきた。
肩に、腕に、頬に、剣がかすめて傷がつく。じわりと滲む痛みに奥歯を噛みしめながら、けれど僕は攻撃を避け続けた。
「避けてばかりでは、なにも変わらないぞ」
「分かってます、って!」
一撃をはじき返し、女性が剣を引いたところを狙って剣を振る。剣身が細いレイピアでは、僕の大剣を受け止めることはできない――そう思ってのことだった。
だが、僕の剣が彼女のレイピアに触れた瞬間、彼女はすぐさま体勢を変え、レイピアで僕の攻撃を受け流すように身を翻した。その勢いのまま、女性は僕に剣先を向ける。
――まずい。
銀色の月光が目前に迫る。背筋が凍るような感覚が僕を襲い、慌てて僕は身体を横へと動かした。
瞬間、左肩に激痛が走る。赤いモノが吹き出して、僕の身体が熱を帯びる。
ふと肩を見ると、彼女の剣が僕の肩を貫いていた。女性は容赦なく剣を引き抜いて、剣先についた血液を振り払った。どくどくと流れる血液をとめようと肩を押さえながら、僕は左手に握った大剣で身体を支える。白い刀身に伝う僕の赤い血液を、僕はただ眺めることしかできなかった。
「お兄ちゃん!」
クロトの悲鳴が聞こえてきた。顔を上げると、女性が冷酷な表情でこちらを見下ろしている。その程度か、とでも言わんばかりに。それがどうにも悔しくて、僕は歯を食いしばった。
「私だって、無用な争いは避けたいんだ。大人しくクロトをこちらに帰してくれ。クロトの家は、我々のいる場所だ」
「クロトは、それを望んでいません」
「だとしても、クロトが顕界にいるのは危険すぎる。戦闘能力もないのに、悪霊蔓延る顕界に居させるわけにはいかない」
「なら、僕が守ります」
「笑わせるな。その程度の実力で、クロトを守れるとでも思っているのか」
女性の言葉に、僕は押し黙った。
思わないし、思えない。僕はまだ実力不足だ。そんなこと、僕が一番知っている。
それでも、僕は今さらクロトの手を手放すことなんてできなかった。例えそれが自己満足に違いないものだとしても。
なにが本当にクロトのためになるのかなんてわからないし、監査局が何を考えてクロトを連れ帰ろうとしているのかは分からない。
けれど、僕の中には確かな確信がある。
空の青さをその目に捉えて、きらきらと目を輝かせる姿。
美味しいものを口いっぱいに頬張って、幸せそうに笑う姿。
僕はそんな彼女の姿しか知らないけれど、それが間違った姿であるはずがない。
――もし、妹が生きていたら。
最近はよくそんなことを考える。それはきっと、クロトの背中に妹を見ているからだ。幸せそうなクロトを見るたびに、顔すら知らない妹を思い出す。そして今、遠くから僕を見つめるクロトの怯えた顔を見て、僕は一つ、覚悟を決めた。
流れる血から目を逸らし、痛む身体に鞭を打つ。武器を握る手に力を込めると、肩から血がぶしゅりと溢れた。それでも、僕は剣を持ち上げる。
「まだ続けるつもりか、青年」
ほう、と息を吐き出す女性は、僕のことを真っ直ぐに見つめていた。その視線は僕という存在を見定めるようで、その威圧感に自然と身がすくんでしまう。剣を握った手ががたがたと震え始めて、僕の身体が目の前の女性に恐怖を覚えていることを訴えていた。
「無理はするな。クロトの件は、元はと言えば君に関係のないことだ。私としても、若い芽を摘むようなことはしたくない」
「関係ないわけありません。僕はもう、クロトに関わってしまったんですから」
彼女のレイピアが月光に光る。暗黒色の武器のみならず、その藤色の瞳すら光を放っているような気さえした。その立ち姿は正しく強者のそれで、僕はごくりと喉を鳴らす。
「君がその気なら、続けよう。もっとも、その傷では上手く剣も持てないだろうが」
息を吐くと、拍動がやけに大きく聞こえてきた。夏の新宿の熱気を肺いっぱいに吸い込んで、僕は強く地面を蹴る。
女性を切らんと振り下ろした剣は、いとも容易く受け流される。先程と同じように繰り出された攻撃を、僕は何とかはじき返した。
「学んだか。だが、大剣には隙が多い。逆に、私の武器は小回りがきくんだ」
女性の刺突が飛んでくる。僕はなんとか首を動かして、ぎりぎりのところで回避する。
やはり速さが段違いだ。一撃の重い大剣では、軽く素早いレイピアには追いつけない。避けるのが精一杯で、一度攻撃を続けられると攻勢に転じることは難しい。
けれど、攻撃を見切ることはできる。覡と打ち合いをしているからか、あるいは彼女の攻撃を見続けているからか。傷を負ってはいるものの、なんとか攻撃を受け止め、回避し、受け流すことはできた。あとは、相手の隙を見て攻撃を繰り出すだけ、だけれど。
――恐ろしいほどに隙が無い。
相手は強者だ。簡単に隙を見せてくれるはずがなかった。攻撃なくして、僕は彼女に勝つことはできないというのに。
「その傷でよく動く。どうやら、まだ躾が足りないらしい」
その時、女性の剣が速さを増した。それはまるで流星のように、僕の目の前でキラリと光る。
――避けられない。
そのことを理解する暇も無く、漆黒の一閃は僕の腹部を貫いた。
「お兄ちゃん!」
剣が引き抜かれ、僕の身体は支えを失って膝をつく。カランと大剣が音を立てて地面に転がり、やがて僕は地面に伏した。目の前に、広がっていく赤黒い池と女性の黒いブーツが見える。
とろとろと、自分の中身が流れ出ていく感覚がした。熱いはずなのにどこかが寒くて、内臓が悲鳴を上げている。それはあの時――僕の世界が変わったあの日の再演のようで、胸の辺りを寂寥感と言い表せない懐かしさが支配した。
「もうやめて、ねえ!」
遠くで、クロトの声が反響する。新品の靴が汚れるのも気にせずに、クロトは僕たちに駆け寄ってきて、僕と女性の間に立ち塞がった。僕からは薄桃色の髪の毛しか見えないけれど、声を聴く限り、クロトは涙を浮かべているようだ。
「どうしてここまでするの? わたしがここにのこるっていったから?」
「ああ」
「だからって、こんな。ひどい」
「私に負けるような死神に、貴方を任せることはできない。さあクロト、諦めて私についてくるんだ」
「それは」
クロトの動揺が感じ取れる。こちらをちらりと見下ろして、躊躇うように目を震わせた。彼女の優しい藤色が、昼とは全く異なる感情で揺れている。
「……お兄ちゃんを、治してくれる?」
「死神なら、数日経たずに治るだろう」
「それじゃだめなの。お兄ちゃんは特別だから」
ハッキリと言い放ったクロトに、女性は静かに眉を寄せた。訝しげにこちらを伺いながらも、はあ、と大きく息を吐き出す。
「分かった。彼を治そう。その代わり、もうこのように抜け出すことはしないと約束してくれ」
クロトの肩が震えた。ちいさな拳を握りしめ、クロトは僕の方へ向き直る。その顔はいやに大人びていて、僕の霞む視界でも充分にクロトの苦痛は感じ取れた。そして、クロトは視線を動かした後、何かを諦めたように目を閉じる。
「……わかっ」
「待って」
何とか力を振り絞って、首を縦に振ろうとしたクロトの手首を掴む。はっとした表情で、クロトはその目を見開いた。
「本当に嫌なら、言うことを聞く必要なんてない」
「でも、お兄ちゃんが」
傷を押さえながら、僕はゆっくりと上体を起こす。気を抜けば意識が飛んでしまい壮なほどの激痛と失血の中で、僕は何とか言葉を紡いだ。
「僕はまだ大丈夫だから。こんなの、あの時の痛みに比べれば軽症だよ。だから、僕のことなんて考えなくていい。ただ、君の望みのままに生きていいんだ」
「……わたしの望み」
「うん。クロトの望みだよ。僕は……それを否定しない。絶対に」
クロトはこくりと細い喉を鳴らす。眼窩にはめ込まれた美しい藤色が少しずつ光を取り戻し、やがて、彼女はその拳を握りしめた。今度は、ちゃんと前を向きながら。
「みんなの力になりたい。守られるだけじゃなくて、誰かを守れるように」
その瞬間、夏場とは思えない冷気がクロトの掌中からあふれ出す。突然の異変に、女性は驚愕のあまり目を丸くした。冷気はやがて黒い靄を伴い、少しずつその体積を増やしていく。
この黒い靄を、僕たちは知っていた。
死神の武器――デスサイズを創造するときに現れる、創造の素材とも呼べるモノだ。
「わたしは紡ぐ者。この力は、今を生きる人のため」
クロトが虚空へ手をかざす。けれど、黒い靄が武器を織り成すことはない。ただ靄のまま、黒い光を伴って僕の身体に覆い被さる。
ぶつかる。
そう思って瞼を閉じたが、彼女の靄に質量は存在しなかった。代わりに、全く違う感覚が僕をふわりと包みこんだ。
心地よい感触。柔らかな気配。冷たい記憶の中の哀愁とは異なる、確かな温もり。それは僕の身体の痛みを奪い去り、僕を「現世」に繋ぎ止める。
「……これは」
黒い靄が消え去って、僕が瞼を開けたとき、僕の傷は癒えていた。
失った血は戻らない。だが、先程まで僕を蝕んでいた腹の傷も、肩の傷も、身体中のかすり傷でさえも、全てが痕すら残さず消えていたのだ。
驚いたのは僕だけではなかった。監査局の女性ですら、まるで幽霊でも見たかのように瞠目している。
「その、力は」
「わたしは悪霊を送れない。武器もつくれない私は、きっとだめな死神だけど。それでも、この力は……みんなを支えることができる。わたしだって、みんなと戦える。そうでしょう、ラケシス」
ラケシス――そう呼ばれた女性は、肩の力が抜けたように剣を下ろした。そして、空気に溶けてしまいそうなほど小さな声で、「……姉様」と言葉を零す。けれど、その動揺もすぐに振り払って、彼女は改めて剣を握りしめた。剣先を僕たちに向け、彼女はす、と息を吸う。
「そうだな。クロト。君も戦う事ができる。なら」
僕は剣を拾い、立ち上がる。隣にはクロトがいて、真っ直ぐな眼差しでラケシスを見据えている。その瞳には、揺るがない彼女の覚悟が宿っていた。
監査局がクロトを閉じ込めていたのは、きっとクロトを弱いと決めつけ、安全地帯で保護しようとしていたからだろう。だから、それが嫌だったクロトは監査局から逃げ出した。逃げて、逃げて。そして、この東京支部にたどり着いたのだ。
「……お兄ちゃん」
クロトがその小さな手を僕に差し出した。信用と信頼に満ちた藤色が僕を見上げる。
「うん。わかった」
たった一日、一緒に過ごしただけだけれど。
僕には、クロトに手を差し出した責任がある。
これから何をしようというのか、そんなものはお互い分かりきっていた。今度は僕がクロトの手を取り、その手を優しく握り返す。
「一緒に戦おう、クロト」
そして僕たちは、目の前の超えるべき壁に向き合った。




