Episode7「狂犬と番犬」②
「逃げろ、深月!」
ルカのかけ声に、深月がクロトを抱えて走り出す。その姿を見送ってから、後を追おうとする死神達の前に、ルカは一振りの短剣を手に立ち塞がった。けれど、たった一人では道の全てを塞ぐことはできない。空いた隙間に滑り込むように、死神達がなだれ込もうとする。
しかし。
ルカの隣を通り過ぎた全ての死神が、一瞬にしてことごとく地面に崩れ落ちた。
一体何が起きたのか――そのことを目で追えたのは、原因となった張本人を除くとこの場には少女しかいない。
「……は?」
だが、目で追えることと理解することは別問題だ。少女は目で追うことこそできたが、この一瞬のうちにあの男がなにをしたのかは理解できなかった。
少女は目を丸くしながら、地面に伏した部下を見る。その脚からは、久しく見ていない深紅が流れ出ていた。その赤を視界に捉えて、ようやく少女は今の状況を理解する。
たった一人の死神が、通り抜けようとした者全ての脚の健を切り、その上で意識を奪ったのだ。瞬きすらも許さぬ間に、常人でも死神でも考えられない早業を成してみせた。
「……あんた」
少女は目の前の男を睨む。男も顔色一つ変えず、少女のことをにらみ返す。二人の間には死神達の身体が幾重にも重なり横たわっていて、新宿の路地とは思えない異様な雰囲気が漂っていた。
「その動き、その早業。私は貴方を知ってる。今ようやく思い出した」
少女は剣を構える。剣先を男に向け、じっとその姿を見つめた。
「『無主の狂犬』……確か、そう呼ばれていた死神だよね。でも、どうして? なんでこんなところにいるの? 数年前に行方不明になったはずだけど」
「それはそっちの把握不足だよ、冥界の番犬アトロポス。わざわざ管轄外の顕界にまで足を運んで、随分と仕事熱心じゃないか。顕界の番犬はどうしたんだ?」
「ッ、黙って!」
少女が地面を蹴り飛ばし、ルカに向かって剣を振りおろす。その攻撃を受け止めたルカは、その剣を払いのけ、少女の脇腹に向かって短剣を振り抜いた。
だが、少女も易々と切られるわけではない。振り払われた剣の根本でルカの短剣を防ぎ、力を込めてはじき返す。火花すら散る攻防を繰り返しながら、少女――アトロポスは憎々しげに声を上げた。
「監査局の采配も私たちの事情も、死神のあんたには関係ないから。大人しく道を譲って」
「関係ないわけないよ。クロトを保護したのは俺たちだ。事情を伝えてくれないと協力もできない。情報共有もしないなんて、よほど都合の悪い理由があるのかな」
「そっちこそ、そんなにあの小娘に肩入れするなんて。ああ、もしかして……同情してる?」
ルカの剣に力がこもる。その目は鋭く細められ、アトロポスの懐に刃が向けられた。すんでのところでその刃を留めたアトロポスは、額に汗を滲ませながらも、にやりと口角を持ち上げる。
「ああ、図星だった? そうだよね、だって、あんたの魂はあの小娘とおんなじだもの。あの小娘と同じ、本来有るべき姿の残りかす」
その言葉に、ルカは静かに目を見開いた。不快感を隠すこともなく、ルカの眉間に皺が寄る。
「残りかす……言い得て妙だな。正直その表現にあまりいい気はしないけど、否定はしないでおくよ」
「へえ、怒らないんだ。冷静ね?」
「今更だよ、アトロポス。そのくらい、自分が一番分かっているからね」
刃同士が、そして二人の言葉がぶつかりあった。言葉でやりとりを行うのは、互いの平静を奪うためである。落ち着きを失えば、どれほどの剣の達人でも隙が生まれる。少なくとも、ルカは自分の不利を理解していた。
冥界の番犬アトロポス。彼女は、その名を冥界に轟かせるトップクラスの実力者だ。最強ではないが、少なくとも、冥界の治安を維持するだけの実力は持っている。もし彼女に「勝利する」ことが目的であれば、それは非常に困難だったろう。余裕ぶった目の前の少女は、未だ本気に指の一本すらかけていないのだから。
だが、この戦闘の目的は「勝利」ではない。
そして、「勝利」が目的でないのなら――やりようはいくらでもあった。
ルカの剣を握る手が、激しい打ち合いにしびれを訴え始める。指先から走る電撃にも似たその感覚に、ルカは不敵に笑みを浮かべた。
「なによ、その笑顔。気に食わないんだけ、どッ」
アトロポスは、ルカの手のしびれを目に留めて、その隙を逃すまいと高く剣を振り上げる。そして、ルカの手に更なる衝撃を与えんと繰り出された斬撃を、ルカの短剣は顔に触れるぎりぎりのところで受け止めた。
武器同士の競り合う音が、新宿の路地に反響する。
「……しぶといのね、半人前にも満たない未熟者のくせに」
「その未熟者を倒しきれないんだね、君は!」
ルカはアトロポスの剣を押し返し、大きく後ろに飛び退いた。靴底をアスファルトに擦りながら、ルカは冷静に短剣を握り直す。そして、深く息を吐き終わったのと同時に、その両足にぐっと力を込めた。
地面を蹴る。相手の懐に潜り込み、ルカは相手の脚を狙って短剣を振り抜いた。攻撃を繰り出したあとはすぐに退避し、また遠くからアトロポスの「隙」を狙う。その攻撃は雷光すら想起させ、アトロポスは分かりやすく顔を歪めた。
ルカの攻撃が変化した。正面からの打ち合いではなく、より厄介な、攻撃と退避を繰り返すものに。
それは確かに、「勝利」を狙ったものではなかった。決め手に欠ける、ただ「速さ」のみで敵を翻弄する攻撃だ。
正しく、時間稼ぎのためだけのもの。
ルカは駆ける。ビルの壁を、地面を、電柱を蹴り、あらゆる方向からアトロポスに攻撃を浴びせ、アトロポスの動きを封じた。
「この動き、犬と言うより虫の方がお似合いだよ」
「虫でも犬でも構わないさ。君を先に進ませなければいいんだから」
次から次へと繰り出される攻撃を捌きながら、アトロポスははあ、とため息をつく。
ルカの攻撃は速く、そして正確だ。だが決して、その一撃が重いわけではない。アトロポスから見れば、ルカの攻撃は見切ることさえできれば対処できるレベルのものだった。
「ああ、なるほど」
くつくつと笑い始めたアトロポスは、ルカの攻撃を躱しながら空を見上げる。
「あんた、その短剣が最大出力だったりする?」
その瞬間、ルカの剣筋が僅かに揺らいだ。常人では気付かないほどの僅かな揺らぎだったが、ほんの少し速度を失ったそのルカの攻撃を、アトロポスは見極める。そして、ルカの短剣を――空高く弾き飛ばした。
「っ!」
カラカラと音を立て、短剣が遠く離れたアスファルトの上を転がっていく。無防備になったルカを逃さぬように、アトロポスはすぐさま畳み掛けた。ルカの首へと、アトロポスの刃が迫る。
瞬間、夏の夜空に赤い血が舞った。
「やっぱり」
恍惚とした表情で、アトロポスはぽつりと零す。
アトロポスの剣は、ルカの首に傷を付けることはできなかった。ルカが刃に切られる直前に、その両腕で攻撃を防いだからだ。腕の傷から流れ出た深紅の血が、ぽたぽたとコンクリートに染みを作る。赤く染まった腕を押さえながら、ルカは静かに顔を上げた。
「新しい武器を作り直せばよかったのに、それすらできないなんて。未熟者の方がまだまともだよ。そんな実力で、葬送なんてできるの?」
挑発するような物言いに、ルカは何も答えなかった。その指先から血を滴らせ、ただじっとアトロポスを見つめている。その表情からは、いつもの笑顔など忘れ去ったように、何処までも冷たい無感情だけが伺えた。
「武器も満足に使えない駄犬の分際で、後輩を傷つけさせない、なんて。笑わせないで、逆にあんたが守られる方でしょ?」
ルカは反応を示さない。アトロポスが何を言っても、ルカは顔を歪めることも眉一つ動かすこともなかった。それがどうにもつまらなくて、アトロポスは不満げに息を吐く。
「何か言ったらどう? もしかして、反論の余地もない?」
「……いいや。反論ならある」
ルカは地面に転がった武器に視線を移し、そして流れるようにアトロポスを見て、その双眸を光らせた。
短剣はアトロポスの後ろに転がっている。走って取りに行くことも不可能ではないが、アトロポスによる妨害は避けられない。そして、その行動は互いの想定の範囲内だ。
武器がこれ以上作れない死神が、落とした武器を取りに行く。簡単に予測できる行動をしていては、死神としての「素力」に差のあるアトロポスを出し抜くことはできないだろう。
必要なのは、相手の意表を突く行動だ。あり得ない――そう思わせるようなもの。
例えば、たった一人で全ての死神を行動不能にさせる手際であったり、あるいは、相手を言葉で動揺させる手法であったり。
そして今、完全に丸腰のルカにとれる方法は、ただ一つしか存在していなかった。
「へえ、反論。私に聞かせてよ」
アトロポスがルカの首筋に剣を当てる。月光を反射する剣筋に、ルカは身を震わせることなく空を仰いだ。ゆっくりと肺に溜まった息を吐き出し、そして静かに、目の前のアトロポスを見据える。ダークブロンドの髪の隙間から覗いた蒼に、息を呑んだのはアトロポスの方だった。
様子がおかしい――アトロポスがそう思ったつかの間、目の前が赤と蒼に支配される。
蒼。それは、ルカの瞳だ。
なら、赤は?
アトロポスは困惑する。切られたわけでも、殴られたわけでもない。なぜなら、アトロポスの「痛覚」は仕事をしていなかったからだ。つまり、この赤の――血液の主は、アトロポスではない。
「ッ、あ、あんた!」
そして、アトロポスは目を剥いた。目の前の男が、アトロポスの腕を掴んでいるからではない。剣を抱え込むように立っているせいで、その横腹を、腕を、剣が引き裂いているにも拘わらず、顔色一つ変えずにアトロポスの前に立っていたからだ。
「放して、ねえ!」
剣を握る手が封じられる。ガタガタと剣を動かせば、その度に剣先が腕を傷つける。そこら中から血が溢れているというのに、ルカの手が力を失うことも、痛みで顔を歪めることもなく、ただじっと蒼がアトロポスを見つめていた。
その瞬間、アトロポスに湧き上がったのは恐怖だった。
蒼がこちらを覗いている。そこにあるのは無感情ではない。何も感じさせない「虚無」だ。空っぽの、がらんどうの蒼が、じっとアトロポスを捉えたまま放さない。
「あんた、まさかっ……」
目の前の男は、血を流すことを恐れていないらしい。いや、痛覚が、そしてそれに対する恐怖が、全く以て仕事をしていないのだろう。だからこそ、首に当てられた剣にひるむことなく、アトロポスの動きを封じるために立ち上がった。こちらが相手にとどめを刺せないのを良いことに。
――訳が分からない。
そんなアトロポスの混乱など気にもとめず、ルカは淡々と言葉を紡ぐ。
「後輩は守る。何があっても、必ず。俺は、あの人にこの東京支部を任されているから」
「あの人?」
夜闇に光る蒼を見つめ、アトロポスは困惑する。身体中から血を流しながら顔色一つ変えない男の目は、ここにはない何かに囚われていた。その様子は狂気すら感じるほどだ。
人として当然の感覚すら忘れ去った狂気と、全てを呑み込まんとする虚無。
そして、狂気と虚無の狭間に残る、僅かな「拠り所」たりえるもの。
アトロポスはそれを感じ取って、自分の分の悪さを理解した。目の前の男は、その四肢がもげようとアトロポスをこの場に留めようとしてくるだろう。
たかが一人の後輩と、たかが一日の付き合いのあの少女のために。
そして、他でもない――彼の「拠り所」のために。
だからといって、アトロポスにも退くことはできなかった。ルカにアトロポスを留める理由があるなら、アトロポスにもクロトを取り戻す理由がある。
「まあいいよ。あんたがその気なら、私だってやりようはあるもの」
そして、アトロポスは新たに剣を左手に構築し、ルカに向かって振り下ろした。




