Episode5「君を送る子守歌」⑤
「正午のニュースです。今日未明、東京都足立区の河川敷から少年のものとみられる遺体が発見されました。警察によれば、この遺体は十年前に失踪した白河颯斗くんのものである可能性が高いとのことです。警察は現場に残されていた証拠をもとに、事件性があるとみて現在捜査を進めています」
僕が目を覚ましたのは、太陽が空高く登った頃だった。仮眠室から事務室に出ると、珍しく部屋の片隅に置かれたテレビがつけられていて、覡とルカがコーヒーを片手にニュースを見ていた。今日は一階のカフェも休業日らしい。珍しくルカがエプロンを脱いでいる。
「おはよう。よく眠れたかな」
起きてきた僕に、ルカが明るく声をかける。曖昧な返事をすれば、彼は眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「まだ眠いみたいだね。でも、何か食べた方がいい。朝食を作ってあるんだ。食べるかい?」
「いただきます……」
革張りのソファに腰掛けると、身体がぐっと沈んでいく。重力に負けた僕の身体は、もうこのソファから立ち上がれそうになかった。
「随分と疲れたようだな。今日は休みだ、ゆっくり休むといい」
そういう覡の表情には、少しの疲弊も浮かんでいなかった。クマも無く、平常運転と言わんばかりにブラックコーヒーを啜っている。
「覡さんは疲れていないんですか」
「まあ、死神の肉体は人間とは違うからな。本来は、睡眠も食事も必要としない」
なんだそれは、反則ではないか。
昨日、いや今日の朝にかけて、僕の身体は興奮していたのか空腹も眠気も訴えてこなかった。けれど、依頼とその後処理が終わった後、今まで溜まっていたものが吹き出すかのように、どっと疲れが押し寄せてきたのだ。その結果、僕は事務所に辿り着いた途端、倒れるように意識を失った。有り余る睡眠欲をある程度満たした今、僕の細胞は栄養を欲している。
ぐう、と鳴るお腹を抱えていると、事務室に面した小さなキッチンで味噌汁を温めてきたらしいルカが、美味しそうな味噌と出汁の匂いを纏いながら部屋に入ってきた。ガラスのローテーブルに、熱々の味噌汁と、つやつやとした真っ白なおにぎりが並べられる。その瞬間、疲れ果てて動かない僕の身体は一時的に活力を取り戻した。
両手を合わせ、味噌汁の入った木のお椀を持ち上げる。出汁の利いた味噌汁が、豆腐やわかめをかき分けて僕の身体に流れ込み、じわじわと染み渡っていく。それだけで、まるで生き返ったような心地がした。
「……そういえば、さっきやっていたニュースですが」
「ああ、颯斗くんのものだったよ。世間的には、君が置いてきたあの手帳を白河優香……彼女が見つけ、それを頼りに死体の場所を見つけた、ということになっている。俺たちの存在がいないのは、君の後処理が上手くいった証拠だね」
颯斗が現世から消えたあと、僕は白河優香と冥界を繋ぐ縁を切った。意識を失った彼女を橋梁下に寝かせて、あの部屋で手に入れた手帳を側に置き、警察を呼んでから河川敷から離れたのだ。
朝から情報を集めていたルカによれば、彼女は警察に「颯斗が導いてくれた」と説明していたらしい。スピリチュアルなその訴えは、事実ではあるけれどきっと世間に受け入れられることはないだろう。
その話を聞いて、僕はほっと安堵のため息を漏らした。どうやら覡の言っていたことは事実だったようだ。もとより疑ってはいなかったけれど、それでも上手くいったことに安心する。
「深月」
覡がコーヒーを飲む手を止めた。耳心地のいいテノールが、ようやく覚め始めた僕の脳味噌に浸透する。
「お前がいなければ、彼女が生きる結末は訪れなかっただろう。颯斗の死を追うように、白河優香は死んでいた」
顔を上げれば、彼の深い深紅の瞳が僕のことを真っ直ぐに見据えていた。買いかぶりすぎだ、とは思うけれど、彼の顔を見れば見るほど、彼が嘘を言っているようには思えなかった。
「死神の規則を覚えているだろう」
覡の言葉に僕は頷く。この依頼を受けるにあたり、僕だけがこの規則の穴を通り抜けることができるのだと説明を受けたのは記憶に新しい。
「その中に、『自然な渡界行為の妨害も認められない』というものがある。これはつまり、死神は生死に関与してはいけないということだ」
「……それは」
思わず呼吸が止まった。だってそれは、つまり。
「俺たちは、生きる人間を殺すことも、死にそうな人間を生かすこともできない。もし、白河優香の側にいたのが俺やルカであったならば、入水を試みる彼女を止めることはしなかった。してしまえば、監査局の死神が飛んでくるからだ」
想像してしまった最悪な結末に、打ち明けられた事実に、どれだけ探しても言葉が見つからなかった。向かいのソファに座った覡も、ソファの背もたれに寄りかかったルカも、その表情は苦しそうだ。酷い、だなんて言葉が使えるはずもない。彼らの本意でないことなんて、彼らの顔を見るだけでありありと伝わってくる。
「監査局、通称ケルベロスと呼ばれる組織は、協会の何処にも属さない冥界の王直属の業務監査機関だ。業務規則違反があった死神を罰する外部組織、と言った方がわかりやすいだろう。あいつらは現世にもその目を光らせている」
ケルベロス。どこかの神話で、冥界の門番とされる怪物の名前だ。その名前の印象からか獰猛な狂犬を想像して身震いする。
「まあとにかく、今回の依頼を規則の範疇で解決することができたのは深月の存在あってこそ、ということだ。お前はそれを誇っていい。もっとも、調子にのるのはいただけないが」
「そうだね。ああでも、所長は深月を評価してあげてくれ。少なくとも、彼がこの支部に属するメリットは今回の依頼でよく分かったはずだろう」
ルカが大仰な身振りと共にそう覡に笑いかければ、覡は湯気の落ち着いたコーヒーを啜ってから、ふ、と小さく息を吐いた。そして、常に力が込められていた口角が緩められる。僕はそのゆったりとした仕草に視線を奪われ、また言葉を失った。
「……ああ、そうだな。深月、今回はよくやった」
人外じみた深い赤が僕を捉えている。差し込む強い日射しを背に、覡はその深紅の瞳をすっと細めて、花が綻ぶように柔らかく微笑んだ。
明かりの少ない廊下をひた走る。艶のある黒い石で造り上げられたこの施設は、まるで入ってきた者を逃がさないための迷路のように、あらゆる道が入り組んでいた。
「早く探せ! どうせ遠くには逃げられない、このあたりにいるはずだ!」
女性の大声が廊下の向こう側から響いてくる。逃走者はその身を影に隠し、荒れた息を無理矢理押し殺しながら、追手の様子を窺った。
追手は一人の女性をリーダーとした集団だった。皆、黒と赤を基調とした服に身を包んでいる。先頭に立つ一人の女性だけが、その背中を覆い隠すほどのマントを翻して、他の死神に指示を飛ばしていた。カツカツと廊下を叩くヒールの音が、逃走者の精神を追い詰めていく。その足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
このまま隠れていても直に見つかってしまうだろうということは誰にだって理解できる。そして、捕まったら碌なことにならないことも。
逃走者は躊躇うように一度その唇を噛みしめてから、意を決してその影から飛び出した。追っ手の隙を見て、複雑に入り組んだ廊下を駆け抜ける。冷たい石造りの床を素足で走るのは中々堪えるが、足音が幾分かましになるのはありがたかった。
「見つけたぞ! あっちだ!」
運悪く、曲がり角の向こう側に追っ手がいたらしい。けれど、逃走者の目的地も迫っている。逃走者が目指すのは、この世界とは違う世界に繋がっているという門だ。そこに飛び込めば追手から逃げおおせることも可能なのではないかと、逃走者は画策していた。
息が切れ、肺や喉が避けるように痛む。冷えた石の上を走り続けた足は凍えていて、身に纏った薄い白のワンピースは薄汚れている。それでも、逃走者は走り続けた。
角を曲がり、比較的広い道に出る。騒ぎを聞きつけた警備員たちが追っ手となって、逃走者を捕まえようと手を伸ばした。逃走者は鬱蒼とした森を駆け抜けるように小回りを利かせながら、追っ手を錯乱しつつただひたすらにその先の広場を目指した。
道を真っ直ぐ進むと、施設の出口が見えてくる。通路を遮る扉はなく、外に出ればすぐに目的地のようだった。思わず逃走者は微笑んで、しかし気を緩めてはいけないと足先に力を入れ直す。
広場に辿り着いた逃走者を出迎えたのは、四階建ての建物ほどもある巨大な門だった。その意匠は施設の正面玄関のものとは大きく異なり、左右の支柱には三つ首の怪物が向かい合うように彫られている。門の側面から伸びる石造りの塀は施設ごと取り込まれるように伸びていて、ネズミ一匹通すような隙間もない。空は一面黒く染まっていて、門の向こう側の景色は果てしない闇に包まれている。
逃走者が門の目前にまで辿り着いたとき、幸か不幸か門番は離席していた。お陰ですぐに捕まってしまうことはなかったものの、門番がいないため門を開けてもらうこともできず、逃走者はその場で呆然と立ち止まることしかできなかった。
「待て」
逃走者が右往左往していたその時、広場の入り口……先程逃走者が飛び出してきたところに、あの女性が現れた。裏地の赤いマントを翻し、鋭い視線を逃走者に向けている。
「逃げられるわけがないだろう。門は貴方のためには開かない。諦めて、大人しくついてきて貰おうか」
ヒールが地面を叩き、女性はだんだんと距離を詰めた。逃走者を逃がさないように、彼女の部下が左右の逃走経路を塞いでいる。
「……いや」
逃走者は静かな抵抗を示すようにゆるりと首を振った。艶のある薄桃色の長髪が、ぱさぱさと力なく揺れる。
「聞き分けが悪いな。少なくとも、我々は貴方に逃げられては困るんだ」
「知らない。わたしは逃げる」
逃走者はきっぱりと言い切って、力一杯女性を睨んだ。その姿を一瞥した女性は仕方ないと言わんばかりにため息をつき、虚空へと手をかざす。つむじ風を伴いながら彼女の武器が形成され、やがてすらりとした漆黒の刀身をもつレイピアが彼女の手元に現れた。
「あまり武力には頼りたくないのだが」
彼女が剣を構えたからだろう、周囲の部下もその手に武器を持ち始める。逃走者は必死に門扉に体重をかけてみるが、門はピクリとも動かない。にじり寄る刃先に、もはや逃走者に逃げ場は無い、そう思われたときだった。
大地を震わすような轟音と共に、重く分厚い門がゆっくりと開きはじめた。そして、まるで誂えたかのように幼い少女の体躯を持つ逃走者だけが逃げられるほどの隙間を空けて、門の駆動は静かに止まる。
「おい、早く門を閉じろ!」
「それが、機械が故障しておりまして……現在エンジニアが修復作業を行っているところです」
「今朝までは稼働していたはずだが、一体誰が……っ、おい、待て、行くな!」
その隙間は逃走者にとって天空から地獄へと垂らされた一筋の糸のようだった。逃走者は奥に広がる世界を掴むように、隙間に何とか滑り込む。
少女を引き留める女性の声が、騒ぎ立てる追っ手たちの話し声が、門の向こう側から聞こえてくる。その全てに背を向けて、少女は門から伸びる石畳の道をじっと見つめた。先は見えず、空と同じ色をした霧で満たされたこの場所は、現世へと続く道に違いない。
少女はごくりと息を呑む。果ての無い漆黒を前に細い両足が震えている。それでも、少女の中に芽生えたただ一つの感情が、彼女の背中をそっと押した。
その小さな後ろ姿は冥界の果てに広がる濃霧に呑み込まれ、まるで闇に攫われたように、石畳の上から忽然と姿を消した。




