Episode1「離別と出会い」①
今でも、あの日の喧騒が耳に残っている。
なんてことはない日々の延長線上に、あの日はあった。いつも通りに朝に起き、学校に行き、家に帰る。食卓には温かなご飯が並び、今日あったことを語らい合って、またベッドに潜り込む。そんな日常が、また明日も、これから先も変わらずに訪れると信じていた。
くるくると回る自転車の車輪、煌々と燃え盛る炎、そして周囲に集う人々のどよめき。そのすべてが過ぎ去って、白く清潔感溢れる天井と目が合ったとき、僕の世界は一変していた。
薄らぼんやりと、青白くほの光る人影。もしくは、理解してはいけないと思わせるほどの漆黒に染まった人影。それらがゆらゆらと視界のあちらこちらに浮かんでいるのを初めて目にした時は、頭を強打したために可笑しくなってしまったのかと疑った。
医者に聞いてみれば、そんなものは見えないという。看護士に聞いても、見舞いに来た親友に聞いても、答えは同じだった。担当医は脳や眼球の異常を疑ったものの、結果は健康そのものだった。よって、精神的な苦痛による幻覚などと片付けられ、以降哀れみの目を向けられるようになってしまったのも仕方のないことだろう。普通ならもっと取り乱すだろうし、幻覚だって見ないとは限らない。何せ、家族が一日にして皆死んだのだ。その時の僕は、その事実が信じられなくて、逆に冷静になっていたのかもしれない。
とにかく、誰一人として僕の言い分を信じてはくれなかった。ただひとり、隣のベッドで横たわる老婆を除いて。
「お前さん、それは霊ってやつじゃないかい」
部屋の角、僕が「あそこにいるんです」と指差した場所を見て、その老婆は言った。
「病院ってのは、沢山の人が死ぬ。だから、そういうのも沢山いるんだろうねぇ。ほら、お前さん死にかけただろう。きっとその時、死後の世界に踏み入れちまったんだ」
部屋の角に佇む人影を見てみれば、蒼白く光るそれは、窓の外を見ているようだった。ゆらりと揺れて、どこか物悲しい雰囲気を漂わせている。
「そういう人ならざるものに、あまり干渉してはいけないよ。自分も仲間にされてしまうって、よく言うだろう?」
分かったね、坊や。
呆ける僕にそういったあの老婆は、まもなくして危篤になり、個室へと運ばれた。恐らく、見舞いに来ていた娘に看取られたのだろう。ネームプレートは置き換わり、直ぐに新しい患者を受け入れる準備が始まっていた。
その数ヵ月後、ようやく退院という頃に叔父夫婦がやってきて、僕はようやく独りになったことを自覚した。自覚するには時間が経ちすぎていたのかもしれない、何故か涙は出なかった。これから一緒に住もうね、という優しい言葉に、「よろしくお願いします」と、些か冷たすぎる返事をしたのを覚えている。
何もかもを失って、世界がまるで変わってしまう。朝方隣で笑っていた老婆は、夕方には世界から消えている。人生というものは意外と呆気ないということを、 齢十二にして思い知った。
***
それから七年。僕は何とか大学に進学し、バイトを掛け持って奨学金を使いながら、一人暮らしを始めていた。一人暮らしといっても下町の安いアパートで、学校までは電車で四十分かかる距離。それでも充実した生活を送れたのは、あの時引き取ってくれた叔父夫婦の優しさがあったからだった。
相変わらず、霊は僕の視界に入ってきている。前よりもその輪郭をハッキリとさせている気がするのは、単なる気のせいではないだろう。ただ此方が干渉しないのが功を奏したか、黒いそれも蒼白いそれも、決して此方に関わろうとはしてこない。それだけがありがたかった。
「ああ、彼女欲しいな……」
穏やかな昼下がり、人が集まるキャンパスから少し歩いたところにあるカフェで、幼馴染の翔はテーブルに突っ伏していた。目の前の色鮮やかな野菜がチキンと共に挟まれたサンドイッチと、デミグラスソースがかかったオムライスには目もくれず、先程から重苦しいため息をついている。
僕達は二時間目と昼休みにいつもと言っていいほどここにきていて、最早常連となっていた。ここのランチは美味しいし、何より安いのだ。家計を切り詰める身としては自炊をした方がいいのだろうが、大学生でお弁当を持ってくる人が周囲になかなか居なかったし、僕はあまり料理が得意な方ではなかった。流石に簡単な炒め物やカレーなどは作れるけれど、何せレパートリーが貧相だし、味付けも正直自信がない。外で食べた方が断然美味しいから、昼食くらい外食に頼ってしまうのは仕方のないことだった。
「サークルに女子多いって喜んで、声をかけて仲良くなるんだ、って……四月くらいに言ってなかったっけ」
「言った、言ったよ。なんなら食事とかに誘ったし合コンにだって参加したよ。それに良い感じになった女子に告白した。それなのに、今は彼氏作る気になれないって言われてさ」
そもそも彼氏作る気がないのなら合コンにくるな、というのが翔の言い分だった。そういうつもりできている人に失礼だろう、と。まあ分からなくもないが、彼氏彼女が居ても参加する人がいると聞くし、ただのお食事会に近い存在になっているのかもしれない。
それにしても、だ。
「彼氏作る気になれないって、どういう理由?元彼に振られたばかりで忘れられないとかそういうやつ?」
いや、と翔は頭を振った。
「なんでも、駅前のカフェに凄いイケメンがいて、そこに通いつめているからそんな状態で彼氏を作ったら申し訳ないって」
「イケメン」
所謂推し活に近いものなのだろうか。アイドルが好きだから、今は彼氏作るつもりはないですみたいなもの。世の中には趣味と恋愛を別に見ている人もいるだろうが、そういう人がいても可笑しくはない。
「そこまで言われたらそのイケメンがどんな奴なのか気になるだろ。それで昨日そのカフェに行ったんだよ……店の前に列ができていて、中は覗けなかったけど」
「入らなかったんだ」
「いや入れないだろ、並んでいる人女子しかいないんだから。野郎なんて一人もいない」
店の外観だけ撮ってきた、というので、その写真を見せて貰った。駅前の道を少し歩いたところだろうか、あまり目立たない路地の雑居ビル一階にあるらしく、店前の歩道は大通りほど広くはない。そんな道を半分ほど埋め尽くしていたのが、幅広い年齢層の女性陣で形成された列だった。高校生から恐らく四、五十代の女性までもがその列に加わり、最早人垣と化している。
「これは凄いな……」
まあ、もし近くに絶世の美女がいると聞いたら、興味で僕も翔もその顔を見に行くだろう。それにしても、ここまでだと男でも流石に気になる。例えイケメンがいる、と知らなくても、これほど分かりやすく行列ができていれば目につくはずだ。無論、目につくだけで並ぼうとは思わないけれど。
「それで、本題は?」
わざわざここまで話を掘り下げたから言わんとしていることは分かるけれど、取り敢えず聞いてみることにした。すると翔は少し視線を泳がせてから、両手を合わせて頭を下げる。
「ここまで並んでいるとどんな人か気になるだろ。だから、その……一緒に行ってくれませんか。流石に一人じゃ恥ずかしくて。周囲の視線も痛いし、それに周囲の視線も痛いし」
「……流石にこの中は男子二人でも辛いとこあると思うけど」
気になるのは分かる。分かるのだが、この中に突っ込む勇気があるかと言われたら否だ。男子ふたりで入るより、女子に連れていって貰った方が入りやすいのではないかと思う。
僕の反応があまり良くなかったからか、翔はスマホで写真を見せてきた。そこには、ベリーのケーキやシフォンケーキなどが美味しそうに写っている。
「そのカフェのケーキ、凄く美味しいらしくてさ。一番人気はチーズケーキだって」
「行きます」
ただし、好きなものがある場合は、その限りではない。
「お、美味しい……」
程よく焦げたチーズケーキはなめらかでしっとりと舌触りがよく、底のクッキー生地はサクサクしていてその食感の違いが楽しめる。久方ぶりのケーキに思わず頬が弛んでしまった。話をした翌日の開店直後に入ったからだろう、カウンターの横にあるショーケースにはすべてのケーキが顔を揃えて並んでいた。一日それぞれ二ホールしか焼かないそうだから、きっとそれも人が殺到する理由だろう。数量限定だとか期間限定だとか、そういう言葉に弱いのはご婦人だけではない。
「嬉しそうで何よりだよ。それにしても、本当にイケメンだったな。まさか、外国人だとは思わなかったけど」
四角いショートケーキを食べながら、翔はカウンターで料理を準備する店主を見やる。
顔の右にある伸ばした触角を耳にかけたダークブロンドのショートヘアに、夏空のように青い大きな瞳。そしてその瞳を飾るのは長い睫だ。顔のパーツ一つ一つが綺麗に整っていて、原宿辺りを歩いたらスカウトが殺到しそうな見目である。その身体は細いもののしっかりと筋肉がついているのが、たくしあげているワイシャツから覗く腕から分かった。ランチ時に開店するカフェだからか、彼は手際よく注文に合わせて料理を作っていく。カウンターを含めて二十席程の座席は全て埋まっていて、今か今かと客が料理を待っていた。調理も配膳も会計も、注文を取ることでさえ全て彼ひとりがやっていて、回転率としてはあまり良くないように思える。バイトを雇うつもりはないのだろうか。
そんな風に、じっと彼を見つめていたからかもしれない。完成した料理を配膳しようと顔をあげた彼と、思わず目があってしまった、その時。
「え」
途端に、背筋がすっと冷たくなった気がした。五月のものではない、ましてや室内で感じることなど無いはずの寒気が身体を走り、僕は咄嗟に視線を逸らす。
「どうした?深月」
「あ、いや、ちょっとあの人と目があって驚いただけ」
訝しげにこちらを窺う翔に、何とか笑顔をつくってみせれば、そりゃあイケメンを直視したらな、と翔は一人頷いて納得してくれた。
──何だったのだろう、今の感覚は。
否、僕は既にこの感覚を知っている。
七年前のあの日。病院で目覚めたばかりの時。窓際に佇む青白い霊と、偶然視線が交わってしまった時の感覚と同じだった。本能が、近づいてはいけない、関わってはいけないと、精神に訴えかけてくるようなそれを七年ぶりに味わって、身体が無意識にも硬直してしまう。彼からの視線が少しだけ僕を捉えたあと、ふっと横へとずらされれば、その事に安堵を覚えて、気分を切り替えるため珈琲を啜った。
「お待たせしました、日替わりランチときのこシチューのパイ包みです」
彼は柔和な笑みを浮かべて、僕らの座る窓際から遠くにある壁際の席に料理を並べる。その姿は紛れもない人間で、霊のように青白く光っているわけでも、黒く染まっているわけでもない。なぜあの寒気を感じたのか、理解のしようもなかった。目の前にいるのは、確かに他人にも見える人間なのだから。
そうは分かっていても、恐怖というものは中々拭い取ることはできなかった。声が震えないように気を付けながら、僕は自然を装って最後の一口を食べる翔に問いかける。
「あのさ、翔。ちょっと頼みたいことがあるんだけど、このあと暇?」
「ああ、暇だけど。なにか買い物?」
「うん。夏服をそろそろ買おうと思ってさ。付き合ってくれないかな。翔はセンスあるし、アドバイスが欲しい」
翔はそれを聞いて、勿論と快諾してくれた。深月はファッションセンス無いからなぁ、なんてちょっと失礼な言葉も聞こえるが、まあ強ち間違っていないので否定はしない。そんなことよりも、早くこの場所から出ていきたかった。
「じゃ、駅前のデパートに行こう。あそこなら服屋たくさんあるし」
「ああ、ありがとう」
少しだけ心が落ち着いて、僕は翔に笑顔を向ける。翔は気にするなといいたげに豪快に笑ってみせた。
買い物が終わったのは、西の空が赤く染まった時だった。両手いっぱいに夏服を抱えて、なんなら翔もいくつか服やら小物やらを購入している。その頃にはカフェでの一件も頭から消えていて、純粋に買い物を楽しんでいた。
そろそろ解散か、という時、ふと視界に青白い人影が増えてきたことに気がついた。経験則として、こいつらは太陽が沈むと共にその輪郭をよりはっきりとさせ、昼以上に姿を現し始める。まるで、夜は自分達の時間だとでも主張しているようだ。
僕は帰らなければならなかった。そんな霊に気づかない振りをして、曲がり角から現れても驚くことがないように。今までもそうしてきたし、これからもそうするべきだった。お陰で肝っ玉だけは無駄に鍛えられたけれど、それだけだ。結局僕はそいつらについて何も知らなかったのである。
駅に向かう、人気ない地下通路に差し掛かったとき。ふと、隣を歩いていた翔の足が止まった。靴紐でもほどけたのかと振り返り──そして、一気に血の気が引いた。先程、かのカフェを営む青年と目が合ったときとは比べ物にならない寒気が走り、思わずひゅっと息を吸う。
翔の正面に、今まで本能的に近づかなかった黒い霊が立ち塞がっていた。翔を食べようとしているのか、夜よりも深い漆黒で覆っている。翔の意識は無くなっていて、両腕は力無く垂れていた。
「翔!!」
考える暇もなく、翔の身体を黒い霊から引き剥がすために突き飛ばす。人があまり使わない通路でよかった。こいつが見えなければ、周囲の人から奇怪なものを見る目で見られていたところだ。
黒い霊は、靄のような身体をゆっくりと動かして、腕のようなものを此方に伸ばした。なにか聞き取れない言葉を紡ぎながら、床に転がる僕たちを見下ろしている。
──逃げなければ。
僕は立ち上がって踵を返し、さらに人気のない地下通路に向かって逃げる。どこかで巻かなければ、このまま人混みに紛れてしまったら、こいつは他の人を襲うかもしれないと考えたからだった。二人分の荷物と翔を抱えるのは辛いけれど、何がなんでも逃げなければいけない。
「ア、ア」
声が聞こえる。嗄れた、若者とも老人ともつかないそれは、まるで何かを求めているようだった。きっと、何を求めているのかを理解してはいけないのだ。ただでさえ向こう側の存在に干渉してしまったのに、これ以上踏み込んだらどうなるか分からない。昔、あの老婆に言われた言葉が頭をよぎる。関わったら、仲間にされてしまうよと。所詮あの人の空論だと思うけれど、現にあの黒い霊は、何かを狙って翔に手を伸ばした。あのままにしていては、きっと翔は──。
そこまで考えて、僕は頭を降った。まさか、そんなはずはないと。けれどどこかで、そうなることを確信している自分がいる。
「アアア!!」
突如、獣のごとき咆哮をあげた黒い霊は、確実に僕たちとの距離を詰め、そして遂に追い付いてきた。腕を振りかぶり横に薙ぎ、僕たちの身体は横に飛ばされる。実体があったのか、という驚きもつかの間のことで、僕たちは地面に転がった。一歩、また一歩とあちら側の存在が近づいてくる。背筋に走るのは寒気だけで、身体中が固まってピクリとも動かなかった。ただ、迫りくる漆黒を仰ぎ見るだけ。
ああ、どうしてこうなってしまったのか。
あの日、僕の日常が全て崩れ去ったあの時から。きっと全ての歯車が狂ってしまったのかもしれない。もし、黒い霊が見えていなければ、何かに追われる恐怖を知ることも無く、ただがむしゃらに他の人にすがることができたのだろうか。例え黒い霊が他人を襲っても、可笑しいな、位にしか思わなかったのだろうか。
頭を過る、ありもしない幻想が過ぎ去ったあとに聞こえてきたのは、黒い霊の声だった。先程までの咆哮とは違い、どこか哀しそうにぶつぶつと何かを呟いている。黒い腕を伸ばして、真っ黒な口を大きくあけて、目前にまで霊は迫っていた。
「聞いちゃダメだよ、少年」
その時だった。耳に温かい何かが触れて、後ろから誰かの声が聞こえたのは。
「耳を塞いで、意識を声以外に持っていくんだ。あの声を理解してはいけないのは、君も直感的に分かっているだろう?」
頬を撫でる優しい声に導かれるまま、僕は両手で耳を塞ぐ。すると、声の主は褒めるように僕の頭を撫で、黒い霊の前に立ち塞がった。
「まさか、君みたいな愚者がいるとはね。ここは俺達のお膝元だよ。大人しくそこら辺を漂っていれば、こんな風に俺に目をつけられることもなかったのに」
声の主が、朗々と声をあげる。黒いスーツ姿の青年は、どこかから取り出した大ぶりの短剣を黒い霊に突きつけた。
「容赦しないよ、俺は」
低く、冷たい声が地下通路に響く。
黒い霊は何かを悟ったのか、靄を揺らめかせて逃げようとした。しかし、青年はそれを許さない。逃げ道に回り込み、その身体を蹴り飛ばす。音もなく壁に叩きつけられたそれを見下ろして、短剣をくるりと回し笑いながら言い放った。
「魂よ、輪廻へ還れ」
風のように速く振り払われた短剣が、霊の身体を捉える。瞬きの間に真二つにされた霊は、ゆらゆらと暫く靡いたあと、空気に溶けるように消えてなくなった。
「さて、少年」
ただ呆然とその様子を眺めていた僕に、青年は革靴を鳴らしながら此方に近づいてくる。ダークブロンドの髪の毛に、印象的な青い瞳。そして、右側に垂らした他の髪よりも長い一房の触角。黒い霊を薙ぎ払ったその青年は、見覚えのある顔をしていた。
「あなたは、カフェの」
「その話は後だ。まず、そこの気絶している少年をどうにかしないと。だろ?」
青年が、スーツが汚れることも気にせずに地面に膝をつく。翔の胸元に触れ、安心したように息を吐いた。
「……うん、魂は喰われてないみたいだ。取り敢えず場所を移動しようか。ここではゆっくり話も出来ないからね」
「移動するって、一体どこに」
倒れている翔を休ませて、外を闊歩する霊からも逃げられる場所。青年は心当たりがあるのか、アイドルのようなウインクをして、暗い地下通路に似合わないほど明るい声で言った。
「現世で最も安全な場所さ」