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葬送哀歌は夜明けとともに  作者: 月乃はな
序幕「始まりの月が昇る刻」
19/79

Episode5「君を送る子守歌」④

 足下をスマホで照らしながら、照明の少ない河川敷の芝生を踏みしめる。遠くで東京の夜景が煌めいているものの、その光がこちらに届くことはない。夜空を映した漆黒の水面から流れる音と、その水面に反射する月光だけが、そこに川があることを主張していた。


「日野さん。手がかりの場所まであとどのくらいでしょう」


 そんな川のせせらぎだけが聞こえる河川敷に不釣り合いなほど明るい声が、勢いよく僕の背中にぶつかる。依頼人の白河優香は、その暗闇に怯えることなく、終始笑顔を浮かべた状態で、僕の後ろについて歩いていた。

 覡に場所を知らされてから、僕たちは白河優香と合流するために夜の東京駅に彼女を呼び出した。彼女は朝と変わらない容姿で、「もう手がかりが見つかったんですか」と驚きのあまりに目を見開かせて約束の場所に現れた。その瞳には未だに狂気が宿っていて、真実を伝えることなどできないまま、僕たちはこうして「手がかり」の場所にいる。

 何本かの電車を乗り継ぐ間に、彼女は颯斗のことをたくさん教えてくれた。そんな数十分前のできごとが、今も僕の頭の中にこびりついている。


「あの子、とても賢いんですよ。テストの点もいつも高くって。良い学校に通わせてあげたくて、私も仕事を頑張りました。そのお金は手を着けずに今も残しています。あの子が帰ってきた時のために、ずっと」


 そう語る彼女のあの表情は、忘れたくても忘れることはできないだろう。


「通信教育でも、大学でも、サッカーでも。あの子のしたいことをなんだってさせてあげたいんです。ずっと、かなりの不自由を強いてしまいましたから」


 果たして、僕の表情は普通だっただろうか。久々の「手がかり」に箍が外れたのか、白河優香は正しく浮かれていたのだ。そんな彼女のただならぬ様子からは、もう既に、彼女の精神が限界を迎えていることが何となく察せられた。

 電車の中からこの河川敷に至るまで、彼女のそんな調子は崩れることがなかった。盤石の狂気だと、そう評価せざるを得ない。遠くから僕たちのやりとりを見守る颯斗の表情は悲痛を訴え、覡でさえ眉を顰めていた。

 スマホのマップに視線を落とす。気が付けば、ピンはすぐ目の前に刺さっている。

 川の向こう岸に渡るための橋。その橋梁下には、芝生を照らす月明かりでさえ届いていない。近隣住民だって、こんなところには立ち寄らないのだろう。芝生は他の場所に比べて伸びていたし、誰かが立ち入った形跡も存在しなかった。

 息を吐く。肺の中に溜まった二酸化炭素に、自分の緊張を混ぜ込んで、そっと大気へと放出する。遠くで覡が見ているとは言え、これは僕の仕事だ。請け負った以上、そして颯斗の意志を知った以上、僕はやり遂げなければならない。


「白河さん」


 振り返って、僕は彼女の瞳を見据えた。狂気に光るその瞳とは打って変わって、なにかを感じ取ったのかその口元はひくついている。


「ここの地面にその「手がかり」があります。しばらく待っていてくれますか」


 白河優香は「もちろん」と頷いて、震える足で数歩後ろに下がる。そんな彼女の薄い肩越しに、僕は青白く光る人影を見た。近付きすぎず、けれど僕たちの会話が聞こえる位置に、いつのまにか颯斗が立っていたのだ。驚いたけれど、流石に表情に出すことはできなかった。颯斗の側に居たはずの覡は、白河優香に見えないよう黒いジャケットを着て、堤防の上からこちらを見下ろしている。周囲を警戒しているのだろう。その手には、いつか見た漆黒の弓が握られていた。

 颯斗の悪霊化は進んでいる。その身体からは時折黒い靄が吹き出て、颯斗も苦しそうに顔をゆがめることが増えてきた。もう、残された時間は長くない。

 僕は橋梁下に向き直り、絨毯のように雑草が生えている地面に膝をついた。黒いスラックスとワイシャツは汚れてしまうだろうけど、二人はきっと許してくれる。

 鞄から折りたたみ式のシャベルを取り出す。仕事で使うだろうからと、あらかじめルカが覡に託していたものだ。手早く組み立て、震える手を咎めながら、僕は地面にスコップの刃先を突き刺した。

 十年という年月は、地面を彼のための棺桶へと仕立てたらしい。それでも、一度掘られたからだろうか、その土は他の場所に比べて軟らかかった。すんなりとまではいかないが、少しずつ、けれど確実に、緑の絨毯と茶色い棺桶はその形を崩していく。

そして、何時間も掘り続けてようやく、土ではない別のものを刃先が捉えた。その感触を腕で感じて、僕は急いでスマホのライトを穴へと向ける。

 服だ。

 颯斗が今着ているものとよく似た服が、汚れて、ボロボロになって、この土の棺桶に隠されていた。その服の隙間から見える白いものがなにかなんて、わざわざ掘り返さなくてもよくわかる。

 颯斗の死体が埋められている。

 僕は息を呑んだ。全てを掘り返すにはこれ以上の時間と労力を要するだろうが、この一部分だけでも、充分に理解できてしまう。

これは、颯斗だ。

心構えはしていたけれど、いざ目の前にすると動揺する。言葉が、いくら探しても見つからない。喉の奥で渋滞を起こして、この事実をどう彼女に伝えるべきか、思考が混乱し始める。


「日野さん、どうしましたか? もしや、手がかりが見つかったんですか?」


 そんな風に頭を悩ませている内に、白河優香はこちら側に近付いてきて、僕が彫った穴を見下ろした。見下ろして、まるで彫刻にでもなってしまったかのように、ぴくりとも動かなくなった。


「白河さん」


 名前を呼んでも反応がない。彼女の目は見開かれ、ただ、目の前の事実を飲み込むことができないように、口をあけたまま颯斗の身体を見つめている。その姿を、颯斗は何も言わずに眺めていた。


「……そよ」


 川のせせらぎに流されてしまいそうな声が、白河優香の口から零れ出る。おぼつかない足取りで後退した彼女は、地面の凹凸に足を引っかけ、勢いよくその場に崩れ落ちた。


「……嘘よ。これは颯斗じゃない。颯斗は、こんなところになんていない。だって、颯斗が死んでいるはずないもの。今も、きっと生きているに違いないわ」


 自分に言い聞かせるように、彼女は延々と同じ言葉を繰り返す。顔を両手で覆い、理想に支配された瞳はひん剥かれ、その視線は虚空に奪われている。


「白河さん」


 もう一度名前を呼べば、彼女の目玉がこちらを向いた。恐怖、絶望、混乱、そして狂気。あらゆる感情が混ざり合った混沌の瞳に、僕は思わず身構える。


「ねえ、これはどういうこと? ああ、分かった。貴方、私を揶揄ってるんでしょ。そうよ、そうに違いないわ。これはニセモノ。そうよね?」


 彼女に両腕をがっしりと掴まれて、僕は身動きが取れなくなった。縋るようにこちらを見上げている彼女は、その瞳に涙を浮かべ、身体中を震わせている。

 悪手だったかもしれない。

 そんな後悔が脳内を一瞬にして駆け巡った。もしちゃんと彼女に真実を伝えることができていれば、こうはならなかったかもしれない。ようやく見えた希望を絶望のどん底へとたたき落とすようなことを、してはいけなかったかもしれない。そもそも、希望なんて抱かせない方が良かったのかもしれない。

 僕はきっと、初めての仕事で失敗したのだ。電車の中でそういう話ができていれば、もっとましな再会ができたに違いない。日和に日和って、相手のことを慮るふりをして、結局酷く傷つけてしまった。

 僕は視線を持ち上げて、立ち尽くす颯斗を見る。颯斗もまた、とても苦しそうだった。それでも、その瞳に宿った覚悟の炎は消えていない。その炎を視界に捉えて、僕の意識は冴え渡っていく。混乱していた思考の糸が、ほどけていくように。

 彼はきっと、こうなることを理解していた。夢を見続けた母親に現実をつきつけることが、一体どれだけの痛みを伴うのか。彼は、その痛みすら理解した上で、実行に移すことを覚悟したのだ。

 僕は改めて白河優香と目を合わせる。その瞳は未だ動揺で揺れ動いているけれど、正気を完全に失ってはいないようだ。現に、彼女はこの場所から逃げようとはしていない。


「白河さん」


 努めて冷静に、けれど、僕の感情が伝わるように。


「彼は颯斗くんです。貴方にも、きっと分かっていますよね。あの服は、正真正銘颯斗くんのもの。特に地面に埋まっていたあの靴は、貴方が配っていたチラシに載っていた写真のものと瓜二つです」

「……それは、そうだけど。でも、同じ靴を履いた人かもしれないでしょ。まだ颯斗だって決まった訳じゃないわ」


 彼女の言うとおりであった。僕や覡には、これが颯斗の死体であることは理解できる。けれど、白骨化した死体の身元確認なんて、警察でも呼ばなければできないことだ。

 なんと言えばいいか悩んでいたその時、僕は颯斗の言葉を思い出した。


『僕が母さんに遺せるものは、遺体となんとか隠し通した御守りだけ』


 その言葉に導かれるまま、僕は彼の服に手を伸ばす。土まみれのズボンのポケットや彼のシャツの胸ポケットに手を突っ込み、そして地面に転がっていた靴底をひっくり返してようやく、その探し物を見つけることができた。

 布製の、「御守」と丁寧な刺繍が入れられた、片手に収まるほど小さな巾着袋だ。ところどころ糸がほつれながらも大きな損傷は見当たらず、その中には一際綺麗な石がしまわれている。


「っ、それ」


 白河優香は、僕の手からその御守りを取り上げると、途端にぽろぽろと涙をこぼし、声にもならない嗚咽と共に戦慄いた。汚れることなど気にもとめず、その御守りを全身で抱きしめるようにうずくまる。そんな彼女を颯斗はどこか浮かない顔で見下ろした。依頼が完遂したというのに、颯斗の表情は暗いままだ。それがどうにも気に掛かって仕方が無い。


「……これで、ぼくの依頼は終わりです。お二方のお陰で、僕は心残りなく成仏できます」

「その割には、嬉しそうには見えないですよ」


僕の言葉に、彼はゆっくりと首肯する。


「そうですね。嬉しい感情とは違います。だって僕は、母さんを自分のエゴで傷つけた。自由になってほしいだなんて、そんな風に勝手に願って。けれど、未練は無いんですよ。本当に」


 ありがとうございます、と頭を下げる颯斗に、僕は掛ける言葉が見つからなかった。

 せめて、彼に笑って逝ってほしかった。万人がそんな風に死ねないことを、死とは突然訪れるものだということを分かっていても、彼のことを知ってしまった以上、情を抱かずにはいられなかったのだ。こんなことを言ったら、また覡に叱られてしまうだろうけど。

 颯斗の身体が、少しずつ薄くなっていく。本当に、もう未練はないらしい。悪霊が送られる時よりも穏やかに溶けていくその様子を見届けようと、颯斗の方に身体を向ける。

 その時だった。

 地面を蹴る音が、川のせせらぎをかき消すように河川敷に響いた。バシャン、という水に大きなものが入る音がして、僕たちは音の出所に目を向ける。消えかけていた颯斗も、驚きで成仏できずにはっきりとした輪郭に戻っていた。


「母さん!」


 慌てて颯斗がそう叫び、僕ははっとして夜闇の中に白河優香を探す。視界が悪くなかなか見つけられなかったけれど、数メートル離れた黒々とした川へ、足を踏み入れる一つの影を目でとらえた。

 考える暇もなく、僕はその影の元へと駆けつける。ひんやりと冷たい夏の川に分け入って、彼女の細い腕をなんとか手に取った。


「は、放してください!」


 震える声で、彼女は叫ぶ。初めて聞いた、恥も外聞も、その魂すらもなげうつようなその声量に気圧されながらも、僕の拘束振り払おうとする彼女の身体に食いついた。


「放したら死ぬじゃないですか!」

「ええ! だって、だってもうあの子はいないんですよ! あの子のもとに、私も行かせてください!」


 長い髪を振り乱しながら、彼女の瞳は涙を散らす。まるで、今まで堪えていた感情が、堰を切ってあふれ出したようだった。


「ぼくは、そんなこと望んでない」


 いつになく弱々しい声で、颯斗の言葉が紡がれる。颯斗の方に視線を向ければ、颯斗も今にも泣き出しそうな表情で、勢いよく首を振っていた。


「母さんには、生きてほしいんだ。だから前を向いて。つらいかもしれないけど、それでも生きて。母さんには、まだ未来があるんだから」


 彼はそうやって、涙ながらに幾度も懇願した。しかし、彼と母親の間には、超えられない壁が聳え立っている。側に居るはずなのに、世界の裏側に至るほど、彼らの間の距離は遠かった。颯斗が血を吐く思いで願っても、その熱は、言葉は、感情は、決して届いてほしい人には届かない。

 とても歯がゆかった。死者の言葉は、生者に聞かせるべきではない。そのことを理解しているからこそ、僕に何かできることはないだろうかと、思考を巡らせるほかなかった。


「いいから、放してください。あの子のいない世界に意味は無いんです。私は今まで、あの子のために生きてきた。仕事を頑張れたのも、辛い育児を頑張れたのも、全部あの子が、私を愛してくれたから」


 白河優香は、体重を掛けて川の方へと進もうとする。今僕にできるのは、きっと彼女を説得することだけだ。彼女の意志を尊重するはできないかもしれないけれど、目の前で人が死ぬことは許容できない。例えこれが、僕のエゴだとしても。


「白河さん」


 彼女は突如襲ってきた暗闇に視界を奪われている。狂気が、彼女のことを守ってくれていたのだろう。でも、その幕が上がった今、目の前には目を背けてはならない現実が広がっている。


「黙って! 貴方はどうせ、死んでほしくないだけ。私が死んだら、報酬はないんだもの!」


 僕たちの身体が、墨汁のような川へと吸い込まれる。冷たい水飛沫が上がり、身体の半分が水に浸かった。思っていたよりも川が深い。僕は辛うじて膝を立てているから上半身は出ているけれど、体勢を崩して転倒した白河優香は、もう川の水が唇に触れていた。僕は彼女を立たせようと上に向かって引き上げようとしたが、彼女の足は僕の思いに応えてはくれなかった。


「違います! 僕はただ、大切な人の死を自分の死の理由にしてほしくないだけで」


 思ったことをそのまま口にすれば、彼女はきっと眉間に皺を寄せる。その目は確かに、僕を睨んでいた。


「貴方になんて分からないでしょう、私の気持ちなんて! 貴方みたいな、育児の苦労も社会の厳しさも、家族が突然居なくなった悲しみも知らないような若者に!」


 僕の心臓が、ぴくりと跳ねる。川のせせらぎも、彼女の悲痛な叫び声も、颯斗の泣き声も、全てが遠くのもののように感じた。世界の時間が止まってしまったのではないかと錯覚するくらい、僕の脳味噌は急速に動き始める。


「……分かりますよ」


 次に出たのは、僕自身驚いてしまうほど地の底を這うような低い声だった。


「分かりますよ。そりゃあ、僕はまだ成人したばかりで、彼女のひとりもいないから、育児については何も言えないですけど。大学生活に甘やかされて、まだ就活なんてしていないですけど。貴方のように、必死に働いた経験なんて全然ないですけど。でも、一つだけ、分かります」


 震える喉を叱咤する。僕の言葉にあっけにとられて、呆然とする彼女の身体を起こしながら、僕は必死に言葉を探す。


「……どれだけ大切に思っていても。どれだけ一緒にいたいと願っていても。人は、突然去ってしまう。だって、人は死んでしまうから。世界は一夜にして変わってしまうから」


 瞼を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。

 あの夏のうだるほどの暑さと、浮かれていた自分自身と、あの世界が潰れんばかりの衝撃は、僕の頭の中に、落としてしまえる汚れではなく、隠すことも治すこともできない確かな「瑕」として残っている。その瑕をなぞれば僕の心臓は悲鳴を上げるし、もう涙は出なくても心の柔いところが軋むような心地がする。それでも、今回はこの瑕に触らなければならなかった。


「だからせめて、僕だけはいなくなった人たちのことを覚えていたい。いや、覚えていなければいけない。白河さん。貴方にとって、颯斗くんは……忘れられていい存在ですか」


 白河優香の身体がぴくりと跳ねる。その瞳は徐々に落ち着きを取り戻し、身体のこわばりが引いていく。もう大丈夫だろうと判断して、僕は彼女の腕から手を放した。支える力を失った細い腕は、所在なさげにだらりと垂れる。


「貴方は僕に、颯斗くんのことをたくさん教えてくれました。でも、実際に生前の颯斗くんのことを思い出せるのは、思い出して大切に思うことができるのは、この世界で貴方しかいないんです。だから、貴方は彼を理由に死んではいけない。誰かの分まで生きるというのは、きっとそういうことだと思います」


 これは自分の考えでしかないけれど、どうやら彼女は納得してくれたみたいだった。瞼を伏せて、震える手で颯斗の「御守り」を握りしめている。

 暫く立ち尽くした後、ゆらゆらと、おぼつかない足取りではあったけれど、彼女は岸へと、颯斗のもとへと戻っていった。そして、びしょ濡れになった身体が汚れることも厭わずに、颯斗の死体の傍らに腰を下ろす。現実を咀嚼するように無言で死体を見下ろし、祈りを捧げるように手元の御守りを優しく手のひらで包みこんでいた。その後ろ姿からは、いいようのないもの悲しさが溢れている。


「ありがとう、深月さん」


 岸に上がると、幽霊の颯斗が小さく頭を下げた。そんな大それたことはしていないと首を横に振れば、いつのまにか明るみ始めた東の空が目に入る。どうやら、いつのまにか日が昇る時間帯になってしまっていたらしい。

 颯斗の霊体は、霞とも言えるほどに薄れていた。夜の帷が上がるにつれて、藍色の空に黄色い絵の具が垂らされたように広がっていく。


「深月」


 土手から下りてきた覡がこちらへと駆け寄ってくると、地面に座り込んだままの白河優香に視線を向けた。彼の瞳は、何を思ったのか僅かに震えているように見える。


「あとは、お前の手で終わらせるんだ。死神の仕事は、最後に生者との縁を切って終わる」


 僕はごくりと息を呑んだ。頭ではやるべきことを理解しているけれど、僕の脳内には一抹の躊躇いがある。

 縁を切る。それは、彼女が僕たちのことを忘れるということだ。彼女の中で、彼女自身が颯斗に辿り着いたという結末になる。もし目が覚めて、全てに絶望してまた入水自殺を試みようとしたらどうしようかと、僕は不安で仕方が無かった。


「お前の考えていることは理解できる」


 覡が、おもむろに東の空を見上げて話し始める。


「だから、これは独り言だと思ってくれ。……この世界には、生死よりも強い縁がある。肉体を超越し、来世にすら影響を与える可能性のある縁だ」


 薄れ始めた颯斗は、母親のとなりに座っていた。座るように浮いているだけだけれど、その背中を優しく撫でるように、ゆっくりと手を動かしている。


「その縁を切ることは難しい。なぜなら、その縁は冥府の縁よりも強固であり、()()()()()()()()に切ることはできないからだ」


 覡の表情は、こちらから窺い知ることはできなかった。彼はこちらに背を向けて、地平線をじっと見つめている。


「他者には切れぬ盤石の縁。それさえあれば、決して忘れることはない」


 その時、柔らかな夏の風が吹きつけて、そっと僕の背中を押した。僕の迷いや躊躇いは、もはや僕の中に存在しなかった。覡の顔は相変わらず見えないけれど、彼が何を言わんとしているのかは、ちゃんと僕でも理解することができたから。


「……ありがとうございます、覡さん」


 僕の言葉に、彼は何も答えなかった。そう、これは彼の独り言だ。その独り言を聞いて、僕が勝手に行動するだけのこと。


「白河さん」


 僕はうずくまる彼女に駆け寄った。東の空に背を向ける彼女の丸い背中に、そっと死神のジャケットを羽織らせる。彼女の世界に、最後の幻想のベールをかけるように。


「顔を上げて、後ろを見てください」


 そういいながら、颯斗に視線で促した。颯斗はきゅうりを見た猫のように目を丸くして、けれどすぐに意図を理解したのか、彼は立ち上がって白河優香と距離をとる。手を伸ばしても届かないくらいの距離になって、白河優香がゆっくりと伏せていた顔を上げ、何が何だか分からぬまま、僕の言葉に促されて振り返った。

 死者と生者の世界は交わってはいけない世界だ。それでも、夕暮れと明け方のような、世界の全ての輪郭がぼやけてしまうこの時間帯だけは、一瞬の奇跡も許されるだろう。

 夕暮れを魔に逢う時間だとするならば、夜明けは魔と別れる時間であるべきだから。


「……颯斗?」


 絞り出したような声が、空気を静かに震わせる。

 彼女の視線の先には、すっかり薄くなった颯斗が立っていた。その身体の向こうでは、今にも太陽が顔を出そうとしている。その光景は、残された時間がそう長くはないことを雄弁に語っていた。

 長い間交わることの無かった、颯斗と白河優香の視線が交差する。


「颯斗なの?」


 母親の問に息子は返事をしなかった。ただ無言で、微笑みを讃えるだけだった。どうやら言葉を交わすつもりはないらしい。それは、彼女が深く冥界と結びつかないようにという颯斗からの思いやりに違いない。


「母さん、間に合わなかった。謝っても意味ないよね。母さんのこと、恨んでるよね」


 白河優香の瞳から、はらはらと涙がこぼれ落ちる。頬を伝い、顎から滴り、その雫は湿った地面を優しく濡らした。その様子を見て、颯斗は無言で首を横に振る。颯斗もまた、零れることの無い涙を堪えるように、その目をぎゅっと細めていた。

 颯斗が笑う。無邪気で無垢な、年相応の笑顔で。

 音のないその感情は、ちゃんと届くべき人に届いたようだ。白河優香は、何か言おうとしていた言葉をのみこんで、しっかりと涙を両手で拭った。だんだんと薄れていく颯斗に向き直り、顔を上げて笑顔を返す。

 颯斗が空気に溶けたその瞬間、世界に一筋の光が差した。河川敷の向こうから顔を出した太陽は、夏らしい日射しの強さを忘れたように、柔らかな光を伴って彼女の世界に夜明けを告げる。

 長い夏の夜が明け、哀しみの伴う葬送をもって、僕は初めての依頼を達成した。


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