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葬送哀歌は夜明けとともに  作者: 月乃はな
序幕「始まりの月が昇る刻」
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Episode5「君を送る子守歌」③

 ざあざあと川が流れる音が聞こえる。肌を焦がすような太陽光が降り注いでいる。スマホの時計は午後二時を指していて、夏休みの昼間らしい、子供達のはしゃぐ声が近くの公園から聞こえてきた。

 颯斗に連れられてやってきたのは、隅田川と荒川に挟まれたところにある閑静な住宅街だった。遠くに東京スカイツリーが見えるほどこれと言って高い建物のないこの場所には、昼下がりの穏やかな空気が流れている。とても事件なんて起きそうにもないような、どこにでもある普通の住宅街だ。

 道を歩いても、誰一人としてすれ違うことはない。遠くから掃除機をかける音や子供の声が聞こえてくるくらいだった。どうやら、猛暑を避けるために殆どの人が家に籠もっているらしい。賢明な判断だ。外はまるで蒸し風呂なのだから。

 黒いジャケットにワイシャツ、スラックスという恰好は協会に属する死神の正装だ。だから今日も僕と覡は長袖長ズボンのまま調査を開始した。もしこれが「特別製」のスーツでなければ、僕たちは既に暑さと湿度にやられ、熱いコンクリートに焼かれていたことだろう。不思議なことに、このスーツは着心地が良く通気性もいい。汗でべたつくようなこともないし、熱がこもることもない。勿論素肌は焼け焦げそうだし汗も出るが、普通のスーツを着ている場合の何倍も気分が良いのは間違いなかった。

 しばらく住宅街を歩いていると、すたすたと迷いなく進んでいた颯斗の足が古びた二階建てアパートの前で立ち止まった。伸びた前髪が彼の顔に影を落とし、その表情は窺えない。けれど、口元が一文字に結ばれていることだけは分かった。


「ここです」


 感情を押し殺した声で、颯斗は言う。サビやらシミやらが目立つそのアパートの周りには、何かの植物がぼうぼうと手入れされずに生えていた。二階への階段の手摺りの殆どが赤サビに包まれており、壁は汚れて灰色に変色して、サビの色までが染みこんでいる。明るい色合いの綺麗な戸建ての家に囲まれているからか、まるでこのアパートだけが異世界からやって来たようだった。


「このアパートの二〇二号室。そこで僕は殺されました」


 僕はごくりと息を呑んだ。目の前に十年前の殺人現場がある。隣に立つ彼は、十年前にそこに連れ込まれて殺されたのだ。その事件の詳細なんて分からないし、犯人の顔も知らないけれど、それでも何故かその言葉には死を想像させる力があった。


「では、この付近を探してみるか」


 そういって、覡はアパートの敷地に足を踏み入れる。けれど、僕にはまだ覡に聞いておきたいことがあった。


「そういえば、遠くに連れ出された可能性はないんですか? 近くにコインパーキングもありましたし、交通機関もあります。選択肢には入ると思うんです」


 なにせ、颯斗は既に西から東への大移動をしているのだ。死体をさらに遠くに運ぶ、なんてことも考えられないことではない。そう思って疑問を口にすれば、覡はいや、と首を横に振った。


「恐らく――俺の仮説が正しければ――その可能性は低い」


 なぜそう言えるのか、僕にはまるで分からなかった。けれど、覡の揺るがない視線を見て、僕は彼の瞳を信用することにした。今はまだ分からなくとも、きっと近いうちに理解できるだろうから。

 目の前に立つ今にも壊れてしまいそうなアパートに踏み入れる。敷地内も雑草まみれで、人の手が入っている気配はない。それどころか、人が住んでいる気配すらしなかった。強いて言えば、こちらを遠くから窺う善霊が、何人か目につくくらいだ。


「俺はあの霊たちに話を聞いてくる。深月はこの近くの怪しい場所を探してくれ」


 そう言って、覡は善霊に目を向けた。視界の端で、善霊たちがびくりと肩を震わせる。覡の視線が怖かったのだろう。僕も初めはあの目を向けられると背筋がぞっとしたから、その気持ちはよく分かる。あの瞳を見ると、彼の前では嘘もごまかしも意味を成さないことを悟るのだ。僕は覡の言葉に返事をして、アパートを囲む植木に視線を向けた。

 伸びきった植木をかき分け、あらわになった地面を観察する。長いこと植物が根を張った、じんわりと湿った普通の土だ。不自然に盛り上がっていたり、植物に変化があったりというような、目に見える違和感は覚えなかった。

 次に、なにやら黒ずんだ汚れがこびりついたゴミ捨て場に目を向ける。その側には、薄汚れた一枚の紙が落ちていた。住民宛に送られた文書のようだ。

 酷くボロボロになったそれは、このアパートの老朽化に伴う退去願いだった。日付は最近のものではなかったから、きっともうこのアパートに人は住んでいないのだろう。


「十年って、長いんですね。僕が連れ込まれた頃は、それなりに人も住んでいたのに」


 くたびれた紙を見て、そしてがらんどうのアパートを見て、颯斗はしみじみと呟いた。


「本当に、長いこと母さんを縛りつけてしまった。早く、母さんを解放してあげないと」


 颯斗の小さな拳が握られる。彼の目には、初めて会った昨日から変わらない覚悟が宿っている。けれど、その覚悟はなにかほの暗いものを予感させた。


「なにか見つかったか」


 霊から話を聞いてきたらしい覡が合流する。彼に先程拾った紙を手渡すと、彼は納得がいったように小さく頷いた。


「どうりで誰も居ないわけだな。人が居ないからこそ、善霊の住処になる」


 覡曰く、このアパートには数人の善霊がいたらしい。けれどその殆どが、このアパートに入居者がいなくなってから棲みついた霊たちだった。十年前の事件について知る者は、霊にすらいないというのだろうか。


「手がかり無し、ということですね」

「いや、まだ調べていないところがあるだろう」


 そう言って、覡はその骨張った人差し指をアパートに向ける。まさか。


「流石に不味いですよ! ただでさえ不法侵入で怒られそうなのに」


 思わず叫んでしまったが、覡の表情は揺らがない。それどころか、そのつま先をアパートの階段に向けた。


「心配するな。お前は今、何のためにそのスーツを着ているんだ」

「何のためって」


 それは、死神の制服だからだ。このスーツは特別製で、もし戦闘になったとしても肉体へのダメージを軽減してくれる。身分の証明にもなる。それ以外に、この服の役割があるのだろうか。

 頭を捻らせていると、覡はため息と共に僕のスーツの襟を触った。生地の品定めをするように、自身のスーツを指の腹で撫でている。


「このスーツは文字通り『特別製』だ。これを羽織ったものは、強く『冥界』と結ばれる。あくまで一時的ではあるが。要は、このスーツの着用者は霊感のない人間からは見えなくなる。加えて、着用者は意図的に触れたものを『冥界』と結びつけることができる」


 そう言われて、僕はハッとした。そういえば、数か月前ルカの任務に同行したとき、ルカは山門を飛び越えるなどという人らしからぬ事をやってのけたけれど、それについて大きな問題にはならなかった。人気の少ない路地とは言え、誰かに見つかっていないとは限らないというのに。


「つまり……今の僕たちが何をしているかは普通の人には分からないってことですか」

「ああ。だから通報される心配はない」


 普段は人間と同じ肉体で活動している死神にとって、現世のルールは時に足枷となる。悪霊と戦っている最中に、銃刀法違反で警察沙汰になるようなことは避けなければいけないだろう。


「まあ、そもそも死神を現世の司法で裁くことなど不可能だ。だが深月、お前は違うだろう」


 覡が言わんとしていることを理解して、僕は着ているスーツが脱げないように身体の中心にたぐり寄せた。どうやら、このスーツは僕の社会的な経歴を守るために必要不可欠なものらしい。気を抜けば覡に合わせたこのスーツは肩がずるずると落ちてしまうけれど、自分のスーツが届くまで大切にしなければ。

 そんな僕を見て、覡は僕の不安をもみ消すようにからりと言った。


「心配するな。万が一そんなことが起こったとしても、俺が必ず手を回す。だからお前は、目の前の事案にだけ向き合ってくれればいい」

「……ありがとうございます」


 なぜそう言い切ることができるのか、今の僕には到底分からない。それでも、彼の言葉は真っ直ぐ僕の心に響く。本当にそうしてくれるんだろうと思ってしまう。その言葉、その瞳には、全てを信じさせる力が宿っているのだ。この人なら自分の大切なものを預けてもいい、そう思わせるほどに。きっと協会の上層部にいけばもっとたくさんの優秀な部下ができて、うまいこと統率が取れるだろうに、なぜ彼はこの東京支部に留まっているのだろう。


「さあ、深月。心配事はなくなった。次はどうする?」


 僕の巡る思考を他所に、覡は腕を組み、その視線をこちらに寄越す。あくまで助手、という体裁を崩すつもりはないのだろう。僕は気を取り直し、アパートの二階を指さした。


「現場を調べましょう。何か残っているかもしれません」







 錆び付いたドアには、不用心にも鍵がかかっていなかった。僕はそろりとドアノブを回し、立て付けの悪い扉を身体全体で押し開けた。


「お邪魔しまーす……」


 かび臭い湿気た風がむわりと流れ込んできて、そして眼前に広がる光景をみて、僕は思わず顔をしかめた。

 玄関先に置かれた山積みの段ボール箱。玄関に転がったいくつかの靴。床に散乱する配達物の数々。それは住人が引っ越した後というよりは、突然姿を消してしまった後と言うべき有様だった。


「颯斗くん、もし辛かったら外で待っていてもいいですからね」


 後ろに立つただでさえ青い颯斗の顔が、さらに青ざめているように感じられ、僕は彼に声をかけた。すると、やはり精神にくるものがあったのだろう。颯斗は何も言わずにこくりと小さく頷いて、そっとその部屋を離れていく。


「良い判断だ」

「……ありがとうございます。でも、もう少し早く気付いてあげるべきでした。階段を上るときから、ずっと苦しそうな顔をしていたので」


 辛くないわけがない。なぜならここは、彼が殺された場所なのだから。このアパートに棲みついた霊曰く、この部屋には十年前から誰も入居していないらしい。ということは、この雑然としたお世辞にも綺麗とは言えない内装は、全て颯斗を殺した犯人のものということだ。それが颯斗をどれだけ傷つけるかなんて、想像に難くなかった。


「颯斗がいたのなら、その痕跡が残っているはずだ。服も食器も、消耗品のひとつに至るまでくまなく調べるぞ」


 土足で踏み入った覡は、躊躇いなく、そして手際よく家具を漁っていく。1LDKのその部屋には、一人用の家具が当たり前のような顔をして並べられていた。テーブルも、イスも、戸棚の中の食器も、何もかもが一人用だ。実際にはもう一人居たなんて一体誰が気付くのかというほど、この部屋には一人分の家具しか置かれていなかった。

 個室は簡素な畳が敷き詰められた和室だった。恐らくここで寝ていたのだろう。埃を被った一人用の敷き布団が、床に敷かれたまま放置されていた。押し入れの襖はかびて風化しており、元の色味を失っている。襖を恐る恐る引いてみたが、中にあるのはいくつかの大きな箱で、大人の男性のものらしい衣服が詰め込まれているだけだった。


「冷蔵庫の中は空。ゴミ箱の中も捨てられている。だがその割には布団や宅配物は放置しているようだ。どうやらここの住人は中途半端な身辺整理でもしたらしい」

「証拠隠滅のため、ですかね。颯斗くんがいた証拠になるものを捨てて、普通の一人暮らしに見せかけたとか」

「恐らくその線だろうな。証拠をできる限り潰し、けれど適度な生活感を維持した上で、住人は逃げたのだろう。故に、配達物が回収されずに玄関口に溜まっていた」


 推測のように覡は語っているが、その声色には推測では終わらない確信に近いものが乗せられている。僕は何か証拠を見つけたくて、ものが隠されていそうな場所を片端から探していった。引き出しの中や布団の下、洗面台の下にある配水管の裏。物陰になりそうな所をくまなく調べる。けれどめぼしいものは見つからなくて、僕は肩を落とすほか無かった。

 クーラーのない部屋で動き回ったからだろう、死神のスーツでは誤魔化せないほどの内側からくる暑さが僕の身体と脳を襲っている。熱中症になりかけているのかもしれない。立ち上がるだけで眩暈を起こして、僕は思わず近くの杉箪笥に寄りかかった。何気なく箪笥と壁の隙間を見て、そして僕は目を見開く。


「深月。人間のお前は休憩すべきだ」


 僕の背中に、覡の心なしか慌てた声がぶつかった。常に冷静沈着な覡にしては珍しいと思ったけれど、生憎今はそれどころではない。僕の意識は目の前にあるそれに奪われ、覡の声がやけに遠く感じていた。

 あれは、まさか。

 そう思った僕の身体は、考えるより前に動き出していた。細い隙間に身体をのめりこみ、奥に挟まったそれに向かってちぎれんばかりに手を伸ばす。やっとのことで人差し指でそれを捉えて、僕は慎重にこちら側にそれをたぐり寄せた。


「深月?」


 覡が不思議そうにこちらを覗き込む。そして、僕の手が掴んだそれをみて、ハッとしたように目を見開いた。


「それは」

「はい。これは……手帳、ですかね」


 今、僕の手のひらには、埃まみれの手帳がある。黒い合皮のカバーは縁の方が擦り切れて、埃を纏い白くなっている。僕と覡は目を合わせ、恐る恐るその表紙に手を掛けた。

 黄ばんですっかり元の色を失った紙が、僕たちを出迎える。ページの冒頭には日付が書かれ、黒いボールペンでその日の出来事が書き留められていた。どうやらこれは、ここの住人の日記のようだ。十年前よりも昔から書かれているそれには、仕事や日常生活の愚痴が乱れた筆跡で記されている。

 仕事での失敗。上司からの叱責。クビになったこと。離婚相手に養育費を請求されたこと。仕事が見つからず、文句を言いに離婚相手のもとに向かったこと。そして全く相手にされなかったこと。

 文字として書き散らされた暴言には、どす黒い感情が溢れ出ていた。もしこの住人が霊になっていたならば、きっと真っ先に悪霊になっていたことだろう。そう確信できてしまうほど、この日記は感情を宿していた。

 埃を払いながら、僕はさらにページをめくっていく。そして、ある記述を目にして手が止まった。


六月五日水曜

息子と同じくらいの年の子どもを見つけた。一人で寂しそうに歩いていたから声を掛けた。なんでも、母親が仕事に出ているらしい。可哀想だ。僕なら、そんな寂しい思いはさせないのに。


 手帳を持つ手が震えている。僕は慌てて次のページをめくった。ここから先は、きっと重要な手がかりになると信じて。

 それ以降のページには、今までのように日付とその日あったことが書かれている。内容以外で一際目につくのが、その筆跡だった。乱心を思わせるような崩し字の読みづらいものではなく、やけに丁寧に、一文字一文字しっかりとした字で綴られているのだ。まるで、書いている時に愛おしい何かを思い出しているかのように。

 その筆跡の変わりように目を瞬かせながら、僕たちはその文章を読み始める。


六月六日木曜

彼をこの家に招待した。大分手こずってしまったけれど、周りのひとには見られていないだろう。これでやっと思う存分、彼を愛してあげられる。きっとこの子も愛されていなかっただろうから、嬉しいに違いない。


六月十日月曜

プレゼントを送った。でも頑なに使おうとしないから、むかついて頬を殴ってしまった。勢いで乳歯が折れてしまったが、まあ仕方ないことだろう。彼は一つ大人になったと言うことだ。


六月十四日金曜

泣き声がうるさいため、口を塞ぐことにした。可愛い声は聞こえなくなるけれど仕方がない。そろそろ頃合いだろう、次の段階に進まなければ。


六月二十二日土曜

素晴らしい充実感だ。彼がいるだけで生きていてよかったと思えるほどに。近所から騒音の苦情がきた。壁が薄いから仕方が無いけど、もっと防音に気をつけないと。明日、ホームセンターに段ボールを買いに行こう。


七月二日火曜

最近は泣かなくなった。諦めたのかもしれない、都合が良い。けれどたまに反抗するから、脅しを兼ねて首を軽く絞めることにした。一石二鳥とはこれのことを言うのだろう。


七月十日水曜

やってしまった。どうしようもないから、僕も死ぬことにする。彼のいるすぐそばで、僕も死のう。そうすれば、もしかしたら同じ場所にいけるかもしれない。


 それが最後の記録だった。これ以降は、何も記されていない白紙が最後まで続いている。どうやら僕たちは、とんでもなく重要なものを見つけてしまったらしい。

 僕は息を呑み、覡も目を見張って立ち尽くしている。読んだだけで、腹奥から何かがせり上がってくるような不快感が僕のことを襲い始める。颯斗の言動から何となく察していたけれど、それでもやはり信じがたかった。颯斗の気分が悪くなるのも頷ける。一体誰が、こんな思い出のある場所に戻りたいと思うだろう。ここに連れてきてくれただけでも、彼は相当の勇気を振り絞ったに違いない。


「……颯斗くんのお陰ですね」

「そうだな。これは重要な手がかりだ」


 苦虫をかみつぶしたような表情で、覡は何か思案するように口元に手を当てる。そして、そっと瞼を下ろした。いつもの思案モードに入ったようだ。こうなっては、話しかけても暫くは反応がないだろう。

 聞こえていないとは思いつつ「飲み物買ってきます」と一応覡に断って、僕は飲み物を買いに一度外に出ることにした。扉を開ければ、真夏の日射しが一気に瞳孔に入り込んでくる。その眩しさに目が眩んで、僕は腕で日射しを遮った。滑り落ちないよう気をつけながら階段を下り、アパートの目の前に置かれた自販機でスポーツドリンクを購入する。その中身を喉に流し込むと、乾ききって火照った身体に冷えたそれが染みこんで、未だこびりついた気分の悪さすらも流していく心地がした。


「深月さん」


 その時、アパートの外をぶらついていたらしい颯斗から声をかけられる。汗一つかかない霊体は、この猛暑の中でも普段と変わらず動くことができるらしい。顔色は心なしかすこし悪いままだったが、それでも先程よりは幾分かましになっているように見えた。


「何か見つかりましたか? 手がかりのようなものは」


 そう尋ねられて、僕は言葉を詰まらせてしまう。なにもかも正直に言うのは憚られたのだ。僕たちが知ったことは、彼の知りたいことではないように思えたから。だから結局、必要最低限のことだけを伝えることにした。


「……遺書を見つけました。ずいぶんぼろぼろでしたけど、中身は判読できましたよ」


 僕の返答を聞き、颯斗は見つかって良かった、と安堵のため息をつく。


「所長さんは? まだ上にいるんですか?」

「考え事をしていまして。もしかしたら、何か気になることがあるのかも」


 あの状態になった覡はしばらくこちら側に戻ってこない。彼にとって、一人で情報を整理するために必要な時間なのだろう。であれば、邪魔にならないところで彼が戻ってくるのを待った方がいい。僕としても、ほんの少し気分を紛らわせたかった。あの部屋にずっといるのはいい気がしない。僕は日影になっていた廊下部分に逃げ込んで、少しばかり涼むことにした。冷房の効いていない室内よりも、風が吹き抜けるぶんこちらの方がましだ。颯斗も僕の後ろをついてきて、遠慮がちに隣に腰掛ける。

 僕たちの間には、なんとも気まずい空気が流れていた。気まずく感じていたのは僕だけかもしれないけれど、それでも息が詰まるような雰囲気であったことには間違いない。あんなことを知ってしまった後だからだろうか、僕は会話の糸口を見失っていた。元から雑談は得意な方ではないが、今はそれ以上に、相手の知られたくない部分を知ってしまったような、隠していた部分を無理矢理暴いてしまったような、何とも言えない気持ち悪さに襲われている。なにか、この気まずい空気を打ち破る明るい話題を見つけなければ。

 そんなことをぐるぐる考えているうちに、颯斗が先に口を開いた。


「深月さん」


 もう聞き慣れてしまった、見た目よりも遙かに大人びたその声は、僕の思考を現実へと引き戻す。僕はハッとして、彼の透き通った霊体に向き直った。夏の熱さを閉じ込めた風が僕たちの間を通り抜け、木々や植木の葉がさわさわと音を立てている。


「僕の人生は、後悔で幕を閉じました。母さんに僕が遺せるものは、遺体となんとか隠し通した御守りだけ。遺言の一つすら残せない」


 颯斗はこちらに顔を向けなかった。伸びた前髪が彼の表情を隠し、彼が今どんな顔をしているのかは分からない。ただ、どこまでも青い夏空と、わたあめのような積乱雲を見上げながら、淡々と言葉を紡いでいく。


「でも、僕の「結末」は……きっと悪くないものになる。僕は不運ではあったけど、それと同じくらい幸運だった」


 柔らかな風が、颯斗の伸びた前髪をふわりと持ち上げた。彼の隠されていた表情があらわになって、僕ははっと息を呑む。


「だって、貴方という死神に出会えたんですから」


 颯斗は、まるで目の前に広がる青空のように、晴れ渡った笑顔を浮かべていた。







「ああ、ここにいたのか」


 覡が下りてきたのは、高く登っていたはずの日が傾き始めたころだった。その手には、彼の黒いスマホが握られている。どうやら、あの手帳は部屋に置いてきたらしい。


「ルカに頼んでいた仕事の情報が送られてきた。遺書と照らし合わせて、大凡の場所が特定できたが……ここから先は、深月。お前の仕事だ」


 緊張を押し流すために唾を飲み込む。任務の本格的な開始を告げるようにスマホが通知音を鳴らし、僕は画面に表示されたURLをタップした。ほんの少しの読み込みの後に、付近の地図と目立つように刺さったマップピンが画面上に現れる。


「俺はお前達を護衛する。だから、お前はお前のやるべきことを成せ。お前にしか成せないことを成し遂げろ」


 僕にしか成せないこと。

 繰り返されたその言葉を、僕は噛みしめるように頷いた。僕を指導してきた覡が側に居るだけでも緊張するというのに、改めて覡からの期待を実感してさらにその緊張感が増してくる。それでも、僕の中に逃げるという選択肢は存在しなかった。

 空が血の色のように赤く染まっている。太陽が地平線の向こう側へと姿を隠し、世界に夜の帳が下りる。生者の世界に、死者の足音が聞こえ始める。薄れていた颯斗の輪郭が、少しずつ確かなものになっていく。

 この世界が変わるのを肌で感じて、僕は深く息を吸った。

 僕の中にあるものを覚悟とは呼べないだろう。颯斗のそれに比べれば、僕のそれはまだまだ甘い。単純だと、覡に一蹴されるかもしれない。けれど、自分の中に芽生えたこの感情を無視することなんてできないことは、僕が一番理解していた。

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