Episode4 「仕立屋リゼ」④
腹の奥底から沸き上がってくるような、ふつふつとした憎悪を感じる。
臓物の内側に吹きすさぶ風が、ぽっかりと空いた大きな穴を実感させる。
喉が乾いて、腹が減って、一心不乱にその飢えを満たそうとするけれど、どうしようにも満足するには至らない。穴を埋めようとする度に、隙間からほろほろとこぼれ落ちていくようだった。
顔を上げれば、目が眩むほどの光が目に入る。それだけで、自分がどこまでも深い暗闇に沈んでいることを理解した。ここに居ては、きっとこの憎悪も飢えも晴らせない。そう思って光に向かって歩き始めた。足が鉛のように重く、それでも一歩、また一歩と歩みを進める。
一体どれくらい歩いただろう。時計がないから正確には分からないが、相当長い時間歩き続けた。けれど、一向に光のもとに辿り着かない。
『……あの光が憎い』
突然、頭蓋骨の内側で、諦念と憤怒を綯い交ぜにしたような低い声が響いた。
『憎い。くやしい。ゆるさない。ころしてやる。あのすべてをのみこんで、まっくろにそめてやる』
無理矢理言葉を繋ぎ合わせたような、脈絡のないぎこちない声だ。けれど、その言葉には深い感情が乗っていて、その感情が言葉を通じてありありとこちらに伝わってくる。聞くまいと耳を塞いでも意味は無く、頭の中で延々と恨み言が繰り返された。まるで、「僕」の魂に語りかけてくるように。
悪意の塊が押しつけられて、僕は漸く自覚した。
僕は今、この悪霊に喰われかけている。負の感情を流し込まれて、僕の意識は悪霊の意識に飲み込まれようとしている。
「デスサイズ!」
慌ててそう叫べば、淡い光と共に僕の大剣が両の手の中で形を為した。その柄を握るだけで、不思議と悪霊の声が遠のいていく。頭に響いていた声が薄らいだことで、ようやく自分の思考をまとめることができそうだった。
「……まずは現状把握、だったよな」
覡の講義を思い出しながら、僕は辺りを見回した。
壁もない、段差もない、平面が延々と続いている。目前の光源を除き光は存在せず、目を細めてしまうほど強く輝いている。けれどその光の全ては背後に広がる闇に飲まれ、闇の奥までは見渡せなかった。闇をじっと見つめていると、そこだけはなにか蠢いているように見える。僕はなぜか嫌な予感がして、蠢いたモノを確認しようと踏み出した足を引っ込めた。
「とりあえず、ここから出ないと」
とはいえ、先程光源に向かって歩いたとき、一向に辿り着く気配がなかった。かといって、このまま立ち往生をするわけにも、明らかに怪しげな闇へ足を向けるわけにもいかなかった。あの闇に包まれていると、自分の中の暗く醜い部分が湧き出てくるような心地がして、正直気分が悪くなる。つまり、選択肢は一つしか存在しないわけだ。
僕は闇に背を向ける。砂一つ無い地面を蹴って、ただひたすらに、目の前の光を目指して走り続ける。大剣をできる限り軽くして、それでも手放さないように握る手に力を込めた。
しかし、餌が眼前に転がっているこの状況で、悪霊がそう易々と見逃してくれるわけがない。闇はひっそりと手を伸ばして、僕の腕に、僕の足に絡みつく。
やはり、追ってきた。
バランスを崩すまいと踏ん張りながら、即座に重くした大剣を地面へと深く突き刺す。地面に強く擦られて、ついた膝がズボン越しに悲鳴を上げた。
「ぐっ……」
このままでは悪霊に引き込まれることは、経験のない僕でも容易に想像できる。力量で、僕は圧倒的に悪霊に負けているからだ。現に、少しずつ体は闇に向かって引きずられていた。
大剣を抜き、悪霊の腕を切って光に向かって再度走り出したとしても、恐らくまた悪霊はこちらに手を伸ばしてくる。逃げることは到底できないだろう。速さでも、力量でも負けているというのなら。
僕に実戦経験はない。素振りだって、今日できたばかりでろくに練習したわけではない。先程のリゼのように、素早く、身軽に行動できるわけでもない。この場にはリゼも、覡も、ルカもいない。
それでも、やらなければならない。
僕は大剣を勢いよく引き抜いて、そのまま刃を自分に絡みつく腕へと振り切った。腕は黒い靄を上げながら虚空へと離散して、僕の身体は束縛から解放される。転ぶ前に大剣を支えにしながら体勢を整えて、僕は光に背を向けた。
大剣を構える。足を開いて、重心を下半身に移動させる。闇から新しい腕が生えてくるのを目視して、そっと息を吐いた。
「……悪霊を、送る」
覡が言った。これは人を真の意味で殺す行為だと。リゼの勢いに押されて頭から抜けていたけれど、これは確かに「殺人行為」だ。かの悪霊の思念を、無くしてしまうことだから。流れ込んできた悪霊の感情が未だ頭のウラにこびりついているようだけれど、僕は改めて闇に向き直った。
眼前に広がる闇が、先に動いた。紐のような細腕が、何本もこちらに向かって飛んでくる。蛇のようにくねくねと曲線を描いているのは僕の攻撃を避けるためだろうか。けれど悪霊の目的はもう理解している。恐らく、この悪霊の目的は「同化」だ。感情を理解させ、感情を媒介に自分の魂に取り込む。つまり、悪霊が狙ってくる場所は絞られる。
狙いは的中したようだ。悪霊は蛇行しながらも僕の足に向かって伸びてきた。僕はその腕をすぐさま断ち切って、闇をじっと見据える。次の攻撃が飛んでくる前に、相手の弱点を……僕が切り損ねた「縁」を探し出さなければならない。
蠢く闇の中へ、意識を集中する。僅かに聞こえてくる悪霊の言葉を意識の外に放り出して、大剣を構え地面を蹴った。
縁を切る。かの悪霊が、現世と紡いだ縁を。
生と死の狭間から、確かな死へと至らしめるため。
その意識を、今度は途切れることがないように、僕は蠢く闇に向かって大剣を振り下ろす。眼前に深淵のごとく広がる闇は、どうやらゆらりと揺らめく煙のようで、けれど確かに刃が当たる感覚がした。
「アアアアアアア!!!!」
悪霊の咆哮と共に、闇が突如として肥大化する。吹き出す靄は悪霊の怨念が込められていて、僕の頭に感情を焼き付けようと躍起になっている。それでも、僕はただ一つのことを考え続けた。
靄を断ち切り、悪霊の叫びに耳を塞ぎ、そして漸く、刃は縁に辿り着く。いとも簡単に切れてしまいそうなその縁を視認して、僕はそっと刃を添えた。この細さなら、力尽くでなくても切れるだろう。油断しているわけではないけれど、そう思ってしまうほどに、この縁はとても不安定で、流れてくる感情はグシャグシャに入り乱れていた。
この仕事は、悪霊を救うことにも成る。
ルカが言った。この縁を絶ちきることで、魂は少しでも早く輪廻転生に向かうことができるのだと。今はまだ二人の考え方の受け売りだけれど、それでも悪霊を無心で送るのが間違っていることくらいは理解できる。
「僕は貴方を殺すけど……せめて来世は、憎悪に取り憑かれない一生が送れますように」
闇が揺らいだ。その瞬間を逃さないように、僕は大剣を振り抜いた。ぷつり、と確かに切れた感触がして、僕はそっと目を閉じる。自分の脳味噌に流れ込んできたあらゆる感情が、空気に溶けていくように形を失っていく。僕を抱擁していた闇が、遙か彼方の光に飲み込まれていく。
「ミツキさん!」
光の向こうから、今日知り合った、けれど既に聞き慣れた、鈴のように可憐な声が聞こえてきた。この光の先に、きっと彼女がいるのだろう。僕は大剣を虚空へ消して、その白の彼方へ右手を伸ばす。闇に包まれていた僕の身体を、今度は強烈な白が抱きしめた。
世界が終わる音に混じるように、悪霊の思念が耳に届く。
『……光の下で生きたかった』
その言葉は、たくさんの負の感情の奥底に隠された、悪霊の本心に違いなかった。目の奥がじんとして、けれど消えゆく闇に背を向ける。
そうして、僕は光の果ての手を取った。
「ミツキさん!」
瞼を開ければ、星の少ない夜空と、額縁のような黒い木々、そして眩い金が目に入った。金からはぽろぽろと滴が絶え間なくこぼれ、宝石のように輝いている。
綺麗だな、なんて呑気なことを考えていれば、その金の持ち主はぽん、と軽く僕の胸を叩いた。リズムを刻むように叩かれるその手には、握りこぶしが作られている。
「リゼさん? ちょ、どうしたんですか」
「どうしたもなにも! それはこっちの台詞ですよ!」
どん、と強く叩かれて、僕は潰れたカエルのような間抜けな声が零れ出た。
「悪霊の縁を切ったと思ったら、そいつが貴方の身体に吸い込まれていったんです。貴方は倒れて反応が無いし、魂は悪霊に食べられそうになっていて、けれど体内に入られてしまっては私如きでは手が出せなくて……とにかく、凄く心配したんですよ!」
悪霊の縁をお互いが切ったあと。最後の足掻きと言わんばかりに、悪霊は僕の身体に逃げ込んだらしい。何でも僕の魂を取り込み、僕と現世との縁を利用して、この世界に留まろうとしていたようだ。
「いいですか。悪霊を送るときは決して心の弱いところを晒してはいけません。会話や同情なんてもってのほかです。悪霊はそういうところにつけ込んで、取り込もうとしてくるんですから。覡さんに言われませんでしたか?」
「……でも、ルカさんは結構悪霊と話していましたけど」
一か月半前の出来事を思い返しながらそう答えれば、リゼは頭を左右に振って、呆れたように両手のひらを夜空に向けた。
「ルカさんは何というか……特別なんです。口をきいても同情することはないし、油断することもない。常に気を張っていて、悪霊がつけいる隙が無いんですよ。普通の死神はあんな所業できませんから。話したらどうやったって情が湧くし、相手の事情を知ったら可哀想に思ってしまいます」
七月下旬らしい正常な暑さが戻り、誰も居なくなった墓地を眺めながら、リゼは続ける。
「ミツキさんみたいに優しい人は尚更です。だから、口なんて聞かない方がいいですよ。『悪霊の言っていることを理解してはならない』というのはそういうことですから」
その言葉を聞いて、僕はハッとした。初めて悪霊に襲われた日、つまり初めてルカにあった日、似たようなことを言われたし、本能的に感じ取っていたことだからだ。あの時の感触を思い出して、なぜ僕に悪霊が入り込んだのかが腑に落ちた。
リゼと共に縁を切った瞬間、「悪霊を送る」という意識が揺らいでいた。そうしてできた僅かな隙間に、「なぜ悪霊になってしまったんだろう」という憐憫が生まれた。憐憫とは同情でもあり、悪霊はそれを「隙」と見做した。
「まあ、よかったです。ミツキさんが自分の精神世界で悪霊を送ったお陰で、緊急任務はクリアしました。先輩として力になれず不甲斐ないですが……ありがとうございます」
「それは僕の台詞です。リゼさんみたいな頼れる先輩が居たから、僕も頑張ろうって気持ちになったので」
この言葉は嘘ではない。突然の事態に自分が何をするべきかがちゃんと理解できたことも、悪霊を送ることについてしっかりと向き合うことができたのも、全てリゼが居たからこそだった。
「深月! リゼ!」
その時、墓地の向こう側から声が聞こえた。闇の中、墓地を照らす僅かな明かりに照らされて見えてきたのは、馴染みあるダークブロンドと目が冴えるほどの青だった。
「ルカさん? どうしてここに?」
その姿を捉えて、僕は地面に横たわっていた身体を何とか起こして彼に尋ねた。ルカは事務所で作業をしていたはずだ。
「やることが終わったから追いかけてきたんだよ。リゼにお土産を渡すのを忘れていてね。あ、今日の分の給料はこっちからだしておくから、安心して良いよ、リゼ」
僕の隣でぺこりと頭を下げたリゼは、じっとルカの顔を見つめている。笑顔の裏に何か真意があるのではないかと疑っているようだった。
「……どうしたの?」
穴が空くほど見られているからか、ルカが押し負けて困ったように眉を下げた。しかし、リゼは思念を振り払うように首を横に振る。
「なんでもありません。ちょっと気になることがあっただけです。ところで、覡さんはどこですか? 真っ先にあの人が逸れたんですよ」
「ここだ。悪かったな」
突然背後から低音が響いてきて、僕とリゼは肩を揺らした。勢いよく振り返れば、闇夜に溶けるような髪を湿気た風に遊ばせた覡がいつの間にか僕とリゼの間に立っていた。全く気配を感じなかったのはリゼも同じだったようで、目をパチパチと瞬かせている。
「お前達なら問題ないだろうと踏んで、周辺に被害が出ないように見回りをしていた。無論死にかけようものなら駆けつけていたが、上手くやったらしいな」
だが、と覡は続ける。
「リゼ。遠くから見ていたが、お前は力みすぎだ。一振りに力を込めるのはいいが、今回のように相手が鈍くなければお前達はとうにやられていただろう」
覡に指摘され、リゼは悔しそうに唇を尖らせた。覡の深紅の双眸が次に僕を捉え、僕の身体が緊張と恐怖で強張った。
「深月。お前は最後に気が緩んだな。今回は上手くいっただろうが、次も同じようにいくとは限らない。今回のようなことが起きないように、次からは油断するな。悪霊に敬意は払うべきだが、情を覚える必要は無い」
敬意を払い。情を捨てる。覡の言葉が頭の中で延々と鳴り響く。その形を僕はまだ掴めていなかった。ただ一つ分かるのは、そう言い切った覡の瞳が何か強い感情に支配されていたことだけだ。深紅の瞳の奥底で、ゆらゆらと炎が燃えている。
「所長。もう時間も時間だし、そろそろリゼと深月を帰してあげよう」
そんな覡に怖じけなかったのはルカだけだった。軽い調子で覡の肩を叩いたあと、もう片方の手に持っていた紙製の箱を胸の前に掲げる。真っ白の長方形に取手がつき、端にはルカの店名が入っているそれは、どうやらテイクアウト用のボックスらしい。
「これはリゼへのお土産。今日試食してもらったケーキが人数分と、あとは焼き菓子をいくつか入れておいたから。店の余りで悪いけど、是非皆で食べてくれ」
箱を手渡されるなり、リゼは嬉しそうに両手でその箱を抱きしめた。いつのまにか裁鋏を消し去って、鞄とカンテラは土の上に置いたまま、真っ白な幸せをもたらす箱を眺めている。
「ありがとうございます!これがあるから東京支部への出張は最高なんですよね。お願いですから仕立屋乗り換えないでくださいよ、覡さん」
「安心しろ、当分その予定は無い。お前は優秀だし……きっと今回も深月の参考になっただろう。また機会があれば頼む」
胸に手を当て、炎の消えた凪いだ瞳で覡はリゼを見つめた。その瞳をリゼがじっと覗き込んだ後、何かに気が付いたかのように目を丸くする。
「……やっぱり。はあ、本当に貴方達っていい性格していますよね」
先程までの笑顔が波のようにスッと引き、リゼは呆れて息を吐き出した。一体どうしたのかと二人の顔を見比べれば、僕の目の前でアイコンタクトでの会話が繰り広げられた。リゼは覡から何か了承を得たようだ。しばらくして、リゼは大きな瞳を細めながら僕にそのことを教えてくれた。
「すべて、この二人に仕組まれていたんですよ」
あの「悪霊」は正式には悪霊ではなく、人工的に作られた「贋霊」に分類されるらしい。贋霊はかつて悪霊であった魂の記憶を人工知能に学習させ生成したもので、主に死神初心者の訓練相手として利用されているという。ニセモノとはいえちゃんと悪霊なので、周りに影響が及ばないように冥界でも厳しい規則が設けられ、認められたものにのみその利用が許されるのだと。
「言っただろう、実戦はまだだって。いわばこれは、実戦に至るための最終確認だよ」
ルカがリゼの解説に付け加えるように、事の詳細を語り始めた。
「始めは所長の提案だね。君が試験で忙しくしている間に色々と話し合ってさ。いつから実戦に投入するか、という点で少し揉めたんだ。俺は知識さえあればなんとか戦えるんじゃないかと思っていたけど、所長が渋ってさ。そこで、戦闘訓練を行う事にしたんだよ。丁度同じように巨大な武器を扱うリゼが来るし、まあ言い方は悪いけど……ちょっと利用させてもらったんだ」
つまるところ、これは葬送の疑似体験だったらしい。いきなり本番は厳しいだろうという覡の考えと、知識より経験重視のルカの考えの妥協点が、贋霊を用いた特殊訓練だったのだという。
「黙っていてごめんね。事前に話すよりも事実を隠していた方が、君もリゼも本気で立ち向かうと思ったからさ。二人は真面目だから、訓練だからって手を抜くことはないだろうけど、本番は失敗が赦されないからね。限りなく実際の葬送に近い状態でやってほしかったんだ。二人には大変な思いをさせたけど――良い経験になったかな?」
そう言われてしまえば、僕は彼らの考えに納得せざるを得なかった。確かに、僕はこの一回の訓練によって、様々なことを学ぶことができたのだ。大剣のような大きな武器の扱い方だけではない。悪霊との向き合い方、靄に囲まれたときの動き方、悪霊との戦い方など、挙げるだけでキリが無かった。
もちろん、葬送のやり方も。
今でも手のひらに、霊を切った時の感触が残っている。実体のないはずの霊体を切り裂いて、その奥にある強固な「縁」を断ち切った感覚。精神の中で、悪霊と対峙して闇を切り払ったあの清々しさ。僕の身体が記憶した全てのことが、今の僕が今までの僕とはまるで異なっていることを理解させた。
「……はい。とても。リゼさんの戦う姿勢も、とても参考になりました」
今日得た全てのものを噛みしめるようにそういえば、首謀者であるルカと覡の表情はぱっと明るくなった。覡の表情はあまり動いていなかったけれど、彼を取り巻く雰囲気は確かに軽くなっている。
「なら良かった。俺たちも頑張った甲斐があったね」
「ああ。リゼにも感謝している。お前がいなければ上手くいかなかっただろう」
覡の口から零れ出たその言葉に、リゼは目を瞬かせた。けれどその表情はすぐに太陽のように明るくなる。真っ白な頬を赤らめているそのさまは、まるで恋を知ったばかりの初々しい少女のようだった。
「そっ、そう言って頂けるとは……。ま、またなにかあったら呼んでください。私でよければできる限りのことはしますから」
先程までの不満そうな表情は何処へ行ってしまったのだろうか、リゼはまんざらでもない様子で控えめに胸を張っている。
暖かい夜風が、僕たちの間を通り抜けた。端から見れば、夜の墓地に四人の人間が立っている今の状況は少し異常だろう。しかも、これからそのうち一人が姿を消すのだ。こんな異常な状況を異常だと思わなくなった自分に対して、自分で笑ってしまった。葬送の経験は、相当僕をあちら側に引き込んだのかもしれない。
リゼは火のついていないカンテラを空にかざし、ピンクに色づいた唇をそっと開く。まるで祈りを捧げるように、その言葉は紡がれた。
「我が主たる冥界の王よ。世界の境界を越え、我を冥界へ導き給え」
夜風に混じって、肌が裂けるような冷たい風が吹き荒れ始める。何もなかった空間に、夜闇よりも深い深淵がぽっかりと大きな口を開けた。カンテラにはどこからか発生した青い炎が宿り、ゆらゆらと風に靡いている。
「それでは、私はここで失礼しますね。本日はありがとうございました。今後ともご贔屓にお願いします!」
風に髪を遊ばせながら、リゼは両手に荷物を抱えぺこりと小さく頭を下げた。
「ミツキさんも! もし冥界に来ることがあったら、是非東ユーラシア統治区の本店に顔を出してくださいね。店員一同お待ちしています」
そう言って、リゼは微笑みながら「扉」をくぐる。此岸には存在しない空間に入った彼女は、ケーキの箱を揺らさないように、カンテラを持っていた手をこちらに振った。金糸のような長髪を揺らし、リゼは深淵の向こうに消えていく。彼女の背中が闇に飲まれて見えなくなった瞬間、扉は昼のように炎をあげ、元から何もなかったかのように夏の夜の墓地が目の前に広がった。視界の遠くで、避難していたらしい善霊達が墓地に戻っていく。
夏特有の湿気た空気を肺いっぱいに吸い込むと、僕の馴染んだ世界に戻ってきた安心感とほんの少しの名残惜しさが身体中を駆け巡った。
「おつかれさま」
優しくかき混ぜるように、ルカの手が僕の頭を撫でる。柔らかい声で告げられたそのねぎらいの言葉に、僕の体温が上がるのを感じた。
月を見上げる。靄に隠されていた月光が、こうして夜の街に降り注いでいる。遠くに見える街並みの明かりは、今日も変わらず人の営みがそこにあることを証明している。
この仕事の先に何があるのかは分からない。覡の言った覚悟が決まったとは言い切れない。それでもこの穏やかな夜を守ることができたなら、きっととても素晴らしいことだ。
「……実戦も、頑張りますね」
僕が放ったその言葉に、覡の固く結ばれた一文字の唇がほんの少しだけ上に上がった。その瞳が何を思っているのかは分からないけれど、それでも確かにそのまなざしに宿った期待を、僕はこの身を以て受け止めた。
東京の繁華街は、誰もが寝静まった夜ですら真昼のように照らされて、眠らない都市になっている。街灯やビルの照明、広告の看板を照らす光。人がもたらす営みの光を見下ろすように、渋谷のビルの屋上に一つの影が佇んでいる。ゆるく一つに束ねた白銀の長髪は、強風に煽られて大きな布のように揺れていた。
「随分と遅かったね、クリス」
風と共に背後に現れたもう一つの影に対して、影が笑う。クリスと呼ばれたもう一つの影は、目の前に佇むその声の主に向かって頭を垂れた。
「……ここにいらっしゃったのですね」
夜闇が影を覆い隠し、その顔を判別する術はビル街の明かりによって弱化した月明かりだけだった。それでも、クリスには目の前に居る存在が「彼」だと分かる。
「クリス。どうやら、世界の歯車が動き出したようだ。たった一つのひずみが、まるで病のように……あるいは水面に広がる波紋のように広がって、安定した世界を大きく揺るがす。きっと、かつてないほどの騒動になるだろう」
朗々と語るその彼は、闇の中でその瞳を妖しく煌めかせていた。その瞳は、冬の透き通った空を映したガラス玉のような色をしている。それは正しく、「彼」の象徴であった。クリスはその瞳に惹かれ、そして彼の掲げる大義に惹かれ、こうして彼に膝をついている。
「世界が変わる時が来た。今までの常識が非常識となり、空と大地が入れ替わる。世界の全てが崩壊するほどの動乱のなかでようやく彼らは目を覚まし、自らの過ちを悟るんだ」
クリスの主たるその男は、屋上の淵に立ち、地平線の向こうにある墓地を見つめていた。その向こうに誰がいるのかは、クリスも知っている。
本来は交わることのない彼岸と此岸。結びついてはいけない両者の縁に、絡め取られた一人の青年。そんな彼が、こちら側の世界に足を踏み入れ、そして立ち止まる覚悟を決めたらしい。
「……では、ついに」
「ああ。全ての準備が整った。ここまでは全て僕らの革命における序奏に過ぎず、ここから世界は大きく揺れ動く」
男は大きく手を広げた。何も見えない夜空を抱擁するように。吹き荒れる風を全身に浴びて、彼の背中は背後に浮かぶ月に照らされている。風に靡く白銀の髪は、まるで彼のために誂えたマントのようだ。
「皆に伝えろ。舞台の幕が上がったと」
彼は、ドアの淵から足を踏み出す。何もない虚空に踏み出た足を支えるように、ビルの壁から人の頭ほどもある子葉が芽生えた。それはみるみるうちに成長し、夜闇より暗い漆黒のユリを空に咲かせる。その上に凜と立つ彼の姿に、クリスは神を幻視した。
徒人ならざるその能力は、彼が強者である証明だった。
「承知しました。我らは皆、貴方の御心のままに」
「頼んだよ、クリス。全てはこの世界を変えるためにある」
その言葉を聞き届け、突風に攫われるように屋上の影の片方が姿を消した。残った白銀の男は、北に見えるもう一つのビル街に視線を向ける。
「冥府。そして協会に所属する死神。彼らはきっと僕の障害となる。だとしても、僕はやり遂げなければならない。かつての『救済』を否定した存在として」
男は空に手を伸ばす。見えるはずの星々は大地の明かりによってかき消され、広がっているのは果ての無い宇宙の闇だけだった。指の隙間から見えるその黒を、男は嬉々とした表情で見つめている。
「日野深月。冥界の特異点たる君は、世界の分岐点で何を選び、何を捨てるんだろうね」
男のその言葉は夜闇の奥へと吸い込まれ、そして誰にも届くことなく空気に溶けた。




