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葬送哀歌は夜明けとともに  作者: 月乃はな
序幕「始まりの月が昇る刻」
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Episode4 「仕立屋リゼ」②

 リゼは冥界随一の仕立屋で働く職人の一人だそうだ。他にも何人か同僚がいて、外に出たがらない店長の代わりに出張したり、仕立てをおこなったりしているのだという。仕事の分散のため、基本的に職員を指名することはできないらしいが、現世への出張は別枠らしい。なんでも、専用の通行証がなければ現世には渡れないという。


「死神の多くは、通行証を持っていません。持っているのは「協会」に属する死神だけです。私は仕立屋の一人ではありますが、同時に協会員でもありますから、こういう現世への出張は全て私の仕事なんですよ」


 最も、現世に住む死神なんてごく少数ですが。

 つやつやのマスカットのタルトを頬張りながら、リゼはそう続けた。

 採寸をするといって移動したのは、何度も訪れている新宿の事務所だった。到着してすぐに採寸が始まるかと思いきや、ルカがどこからかおいしそうなタルトと紅茶を取り出して、テーブルに広げはじめたのである。曰く、親交を深めるのは重要だから、と。そうして、用事の前に穏やかなティータイムが始まった。ちなみに覡は昼間の見回りに出かけているらしく、席を外している。


「このタルト本当に美味しいですね。このためなら面倒な渡界手続きも楽に思えてきそうです」

「そう言ってくれると嬉しいよ。試作品はまだあるんだ、もう一切れ食べるかい?」

「いただきます」


 喰い気味に空になった皿を差し出す様は、同じ年頃の人間とあまり変わらないように思えた。彼女が死神であることなど、誰一人として分からないだろう。面食いの質がある翔なら、食事に誘っていたかもしれない。


「深月も食べる?おかわり」

「あ、じゃあ……お言葉に甘えて」


 差し出した皿に、新しいタルトが乗せられる。つや出しの為に塗られたナパージュが、マスカットの瑞々しさを際立たせていた。極めつけはタルトに敷かれたレアチーズフィリングだ。濃厚でなめらかな口溶けに、甘すぎず風味を邪魔しない丁度良い塩梅で作られたそれは、マスカットの甘みを引き立てる最高の相棒になっている。


「気に入ってくれたみたいでよかった。来月の季節のケーキはこれで決まりかな。あとは茶葉とコーヒー豆を買い足さないと……うん、やることは少なくなさそうだ」


 満足げに頷いたルカは懐から手帳を取り出して、考え事をしながら何かを書き留め始めた。


「ルカさんって凄いですよね。私は仕立屋だけで精一杯なのに、ルカさんは協会の仕事もカフェの仕事もこなしていて……本当に尊敬します」


 リゼが感嘆に満ちたため息と共にぽつりと零した。確かにどちらも量が多く、一人でこなすには難しい仕事だろう。死神業には覡も関わっているけれど、覡は月に一度この事務所を留守にして、冥界に出向いている。カフェの方は、買い出しと調理と接客と、とにかく考えただけで目が回りそうなほどに仕事の種類が多い。覡が居ないときも、しっかりと一人で東京を守っていたルカの能力が恐ろしかった。少なくとも、ごく普通の人間にこなせることではない。

 しかし、リゼに褒められたルカは眉を下げ、どこか申し訳なさそうに微笑んだ。


「所長のおかげだよ。俺がカフェを開けているときは、殆ど所長が死神の業務をこなしてくれる。今だってあの人は……のんびりしている俺達とは違って、異変がないか見回りをしている訳だしさ」


 それに、とルカは続ける。


「俺は、所長の補佐としては力不足だから」


 諦念まじりのその言葉を聞いて、リゼは表情を凍らせた。すぐさま目を伏せて、喉に熱い紅茶を流し込む。彼女は何も言おうとはしないけれど、泳ぎ続ける視線と彼女の態度が全てを物語っていた。この話題は、触れてはならないものなのだと。


「さあ、そろそろ本来の目的を達成しないとね。所長が戻ってきたらなにをしているんだって怒られる」


 気まずい空気を払拭すべく、ルカは慌てて話題を変える。けれどリゼの方はそう簡単に切り替えられないようで、今にも泣き出しそうな声ですみません、と謝った。カップを持つ手は小刻みに震えている。


「……気にしないで。俺はなんとも思っていないよ。むしろ……ごめんね、気を遣わせてしまうような、変なことを言って」

「それは」

「いいんだ。リゼ、早速採寸の準備を始めていてくれないかな。俺は、このタルトを冷蔵庫に戻してくるから」

「は、はい。分かりました」


 任せたよ、と言って、ルカは残りのタルトを持って、この事務所を出て行った。恐らく一階に向かったのだろう、階段を下りる音が聞こえてくる。扉が静かに閉められるまで座ったままでいた僕たちは、その音を耳にしてようやくまともに呼吸をすることができた。


「……やってしまいました」


 消え入るような、耳をすまさなければ聞こえないような声で、リゼが呟く。


「気を遣わせたのは私の方です。話題選びはもっと慎重にするべきだと、店長にも言われていたのに。安易に話題を振って、ルカさんを傷つけてしまって……これだからお前は駄目だって店長に言われるんです。ルカさんに謝った方がいいでしょうか……いえ、また掘り返したらそれはそれで何か言われそうだし……」

「あの、リゼさん」

「あ、は、はい!」


 ブツブツとつぶやき続け、心ここに在らずといった状態だったリゼに話しかければ、彼女は弾かれたように顔を上げた。

 彼女はきっと、僕の知らない二人のことを知っているのだろう。だからこそ、いまの話題が不適切だったと判断している。僕は彼女に比べたら何も知らないも同然だし、今の話題のどこが駄目だったのかも分からない。けれど、このタイミングでなぜ不適切だったのか、と尋ねるのが野暮であることくらいは理解できる。本当は知りたい。でも、それ以上に彼女のことを追い詰めるのは憚られた。


「僕、フルオーダースーツって初めてで。どうすればいいんでしょうか」


いつもと変わらない声色になるように気を付けて、僕はリゼにそう訊ねる。すると、彼女ははっとしたように目を見開いてから、大きく息を吐き出した。


「えっと、そうですね。生地に関しては協会の規定があるので、規定に則った生地見本を用意します。先に、デザインの目星をつけておいていただければ。今から準備しますので、ちょっと待っていてください」


 そう言って、リゼは大きな革製の鞄を広げ、何やらごそごそと探り始める。そして、様々なボタンが並べられたケースと、分厚いファイルを取り出した。ファイルからは何枚かの紙が飛び出していて、今にも滑り落ちそうだ。


「ボタンの種類、スーツの形状、あとは中に着るワイシャツのデザインも、なにか要望があれば教えてください」


 ファイルとケースがガラステーブルの上に見やすいように広げられた。リゼに促されるまま視線をファイルに落とせば、そこにはたくさんの写真と名称が連なり、特徴などが手書きで詳細に説明されている。


「本当は、この場に見本のスーツをたくさん持ってこられたらいいのですが。代わりにと言ってはなんですが、説明と生地サンプルを参考にしてくださいね」

「これ、リゼさんが書いたんですか?」

「はい。分かり辛かったら質問をお願いします。何でもお答えしますので!」


 すっかりもとの調子を取り戻したリゼは、心底楽しそうな笑顔を浮かべた。

 彼女が鞄の中からメジャーやら生地サンプルやらを引っ張り出している間に、僕はファイルを読み込むことにする。スーツにもいろいろなスタイルの違いがあるようで、正直何を選べば良いのかよく分からない。そんなときに、彼女が付け足した説明がとても参考になった。イギリス式は正統派、イタリア式はオシャレで軽やか、こなれた感じがする。アメリカ式は他の二つに比べたらシンプルかつカジュアル……らしい。あとは前ボタンの数だとか、ジレの有無だとか、とにかく決めることが多そうだ。よく電車などで見かけるようなスーツのデザインももちろんあるが、思っていたよりもその種類の豊富さに驚いた。


「スーツのデザインを決めているのか」


 突然、耳の奥に響いてくるような艶のある低音が背後から聞こえてくる。はっとして振り向くと、そこにはスーツ姿の覡が立っていて、ファイルを後ろからのぞき込んでいた。


「覡さん、ご無沙汰してます」

「リゼ、久しぶりだな。元気そうで何より。店の調子はどうだ?」

「おかげさまで盛況ですよ。店長も嬉しそうにしていました」

「それは重畳」


 生地を腕にかけながら、リゼはぺこりと頭を下げる。覡もほんの少し口角を上げて会釈をしたあと、僕の隣に腰掛けた。


「死神の仕事着で重視すべきは動き易さだ。そう考えると、ダブルスーツよりもシングルスーツの方がいいだろう。ダブルは基本的にボタンを外さないからな。俺はイギリス式を着用しているが、ルカはイタリア式だ。生地の重厚感が違うから、どのようなスーツを着たいかよく考えるんだ」

「はい」

「生地の色は規則で黒と決まっているが、それ以外は自由だったはずだ。こちらも、お前の好みで構わない。お前の好きなように、思うままに作ると良い」


 そうして、ようやく僕のスーツ作りが始まった。覡からアドバイスを貰いながら、いろいろな場所を採寸し、デザインを考え、生地を選ぶ。全てが終わったときには既に日が傾いていて、僕も精神的に疲れきっていた。途中から参戦したルカは、袖口のゆとりやらスラックスの長さの調節やら、はたまた広げすぎた生地の片付けなど、時々リゼのことをサポートしながら、リゼと共に僕の身体に合うように微調整を繰り返してくれる。覡もデザインを選ぶときにたくさんの助言をしてくれて、僕は彼らの意見を参考にしながら、やっとのことでスーツの注文を決めることができた。

 大学の入学式の時に、同じようにスーツを手に入れる機会があった。ほんの数ヶ月前のことだ。当時の僕は特にこだわりもなかったし、スーツのデザインよりも口座の残高の方に関心があったから、できあがりのスーツを購入した。以前の僕は、数ヶ月後にこんな展開になることを想像していただろうか。僕よりも遙かに知識が豊富な人からアドバイスを貰って、自分の欲に忠実に、自分が着たいスーツを仕立てて貰う。一人では絶対にできないこの体験に、僕は胸が溢れそうな気持ちになった。

 もし、僕の父親が生きていたら。進学祝いも兼ねて、こういうことを体験していたのだろうか。

 あり得たかもしれない世界を幻視して、ふいに目の奥がじんとする。過去を思って、どうにもならない現実を嘆いて涙を流す時期はとうの昔に過ぎたけれど、それでもやはり心に来るものがあった。


「……では、イギリス式のシングルスーツ、無地の生地でジレ有り、水牛の黒ボタンでよろしいですか?」

 深月さん、と鈴の鳴るような声で呼びかけられて、僕の意識が浮上する。

「は、はい。よろしくお願いします」

「完成まで一ヶ月ほどお時間をいただきます。できあがり次第、こちらにお持ちしますね」


 透明なファイルに注文書を挟みながら、リゼは微笑んでそう言った。仕事が一つ終わったのが嬉しいのか、はたまた仕事が入ったのが嬉しいのかは分からないが、リゼの表情は今日一番に輝いて見える。革の鞄に荷物をまとめていく様子を、僕たち三人はただ眺めていた。

 ふと時計を見てみれば、既に六時を回っている。そのことに気が付いたルカは慌てて立ち上がり、申し訳なさそうにリゼに頭を下げてから席を外した。店を開けていない日のこの時間、いつもならルカは夕食の準備を始めているからだ。そうして結局、リゼを見送るのは僕と覡の役目になった。しかし、リゼが今にも帰ろうとしている時に、覡は何かを思い出したように目を瞬かせた。


「……ところで、リゼ。少し聞きたいことがあるのだが、時間は作れるか」


 咳払いをしながら、覡は今にも帰ってしまいそうなリゼを呼び止める。リゼの方はと言えば、来たときに持っていたカンテラを取り出して、革の鞄を持ち上げているところだった。覡の言葉に話が長くなりそうな気配を感じたのだろう。荷物を地面に置き直し、神妙な面持ちで改めてソファに腰掛けた。


「覡さんの頼みなら、いくらでも。あ、でも今日中には解放してくださいね」

「すまない、感謝する。まず一つ。近頃の冥界の様子はどうだ?なにか気になることは起こっていないだろうか」


 覡の問いに対し、リゼはしばらく黙り込んだ。そして数分考え込んだあと、薄く色づいた唇を開く。人に聞いた話ですが、と前置きをして。


「東ユーラシア協会の方で、少し上層部がごたついているという噂を聞きました。なんでも、各地の支部長たちが会長の解任を求めているとか」


 覡の細い目がさらにすっと細められ、瞼の奥で煌々と赤い瞳が輝いた。


「他には?」

「あとは……各地で悪霊の数が増加傾向にあるという話もよく聞きます。店の常連さんが、厄介な仕事が増えて面倒だって愚痴をこぼしていました。気になる話題はこのくらいですかね。何か心当たりでもあるんですか?」

「……いや。心当たりはないのだが、情報として知っておこうと思っただけだ。協会内部とはまた少し離れた視点で、どのように冥界が映っているのか。それにしても……なかなか物騒な噂だな」


 覡は口元に手を当てて、いつぞやのように思案の海に沈んでしまう。すっかり黙りこくってしまった覡を見て、リゼはもどかしそうに視線を泳がせた。


「あ、あの。協会の会長ってどんな方なんですか?」


 僕の方もいい加減気まずくなってきたので、リゼへと話題を振ることにした。覡は時々、こうやって考え事をして黙ってしまうことがある。こうしている間は何を言っても反応しないのだと、ルカがぼやいていた。この場にルカがいれば、何か面白い話でもし始めて場を和ませてくれるだろうが、生憎彼は今席を外している。だから僕かリゼかどちらかが話し始めなければ……それはもう、目も当てられないほど大変な空気になってしまうのだ。そんな状況に陥ることだけは、お互いの精神衛生のために避けるべきだった。

 僕は慌てて話題を選んだが、どうやらそれは良い方向に転んだらしい。リゼは金色のまるい瞳をキラキラと輝かせながら、少しも悩むことなく即答した。


「とっても優しくてかっこいい方です!」


 曰く、すらりと長い手足はまるで芸術品のようで。

 曰く、武器を振るうその背中は勇ましく美しい毛並みの獅子のようで。

 曰く、どんな末端の平会員すら慈しむ様は天人のようだと。

 矢継ぎ早に「会長」の褒め言葉が飛んできて、僕は思わずたじろいだ。まさか、こんなに好印象を持たれているとは想像していなかったからだ。「解任」という言葉が噂とは言え聞こえてくることから、勝手に悪印象がついて出てくると思い込んでいた。だから僕は、ただでさえ少ない語彙力がどこかに吹っ飛んで、「いい人なんですね」などという当たり障りのない陳腐な言葉を彼女に返してしまう。

リゼは僕の返答に対し、力強く、けれどどこか悲しげに、小さく頷いてみせる。


「本当にいい人なんです。だから解任なんて……たかが噂といっても、ちょっと信じられなくて」


 彼女は心の底から「会長」を慕っているらしい。膝の上に置かれた両の拳が強く握られ、うつむきながらリゼは続けた。


「きっと嘘だと思います。あの方ほど部下を考えてくれる上司はいません。東ユーラシアの『規律』を守れる死神も。だからきっと、根も葉もない噂なんでしょう。絶対に」

「……そうか」


 そこでようやく、覡が口を開く。ため息交じりのその一言は、どこか冷淡に響いていた。切れ長の目がゆっくりと瞬いて、目の前に座るリゼを見据える。僕の位置からは彼の横顔しか見えないが、その視線はいつかの面接のときのように、冷たく厳しいものに思えた。


「そうは言っても、何かしら心当たりがあるのだろう。きっと杞憂では終わらない」


 覡のその言葉に、リゼは僅かに肩を震わせた。図星のようだ。彼女の様子を見るだけでも、それだけはハッキリと伝わってくる。


「まあ、あの強かな「会長」が簡単に倒れるとは思えない。だが、もし解任が決まった場合……いろいろと面倒なことになるな」

「面倒なこと、ですか?」


 組織のトップが替わることで、現場には大きな影響がでることくらいは僕にも想像できた。例えば、組織の体制がまるっきり変化してしまうだとか、規則が大幅に変更されるだとか。国という大きな括りから学校などの小さな集団まで、その現象は至る所で見受けられる。


「まず、お前の『会員証』……身分証明書の手続きが遅れるだろう。登録の際は会長の認可が必要だが、現会長の解任後すぐに新しい会長が決まるはずがない。臨時の議会の認可でも代用は可能だろうが、上層部の連中は頭の固い奴が多いからな。今までのように融通が利くかどうか」


 確かに、手続きが若干遅れるということはありそうだ。今までの会長なら通っていたものが、新しい会長になることで通らなくなるかもしれない。もしそうなった場合、僕の身分証明書とやらはどうなってしまうのだろうか。まさかこのまま契約打ち切りになってしまう、なんてことも無いとは言い切れない。そう考えると、会長の解任、新会長の着任という問題は、僕の身近なところにも影響を及ぼしそうだ。体制とか、規則とか、全体の話だけではなく。


「それに加え、もう一つ重大な問題が起きる」

「重大な……?」

「ああ。この東京支部出張所の存続に関わる看過できない問題だ」


 いかにも重苦しい表情で放たれた覡の言葉に、僕はごくりと息を呑む。次に発せられる言葉に対し、拳に力を込めて身構えた。


「現在のように、リモート出勤ができなくなるかもしれない」

「え?」


 拳に込めていた力がすっと抜け、僕は唖然として覡のことを見た。

 重大な問題にしては、想定していた、例えば人事変更だとか、そういう分かりやすいものに比べて響きが身近だった。それこそ、つい数年前によく巷で聞くようになった言葉だ。

「言っただろう。ここは出張所だと。本部は勿論冥界にある。そして、このように出張所を設けている支部は全体の少数派だ。コスト削減や業務の透明化、出張所の運営を停止させる理由はいくらでも考えられる。もし運営が停止することになれば……俺達は冥界への常駐を求められる。現世と冥界の行き来には制限があり、手続きも面倒で、今までのようにすぐに現場に駆けつけることができなくなる。これは重大な問題だ」


 つまり、現在の状況や現「会長」は、覡にとって都合が良いのだろう。リゼが先程「渡界手続き」が大変だと言っていたことからも、冥界に常駐せず、現世に留まりリモートで業務を行うことには充分すぎるメリットがある。


「それに、お前との雇用契約もあるからな。まあ、現状維持が最も嬉しい結末ではあるが、そう上手くはいかないだろう。例え会長が替わったとしても、こちらに影響が及ばないよう、最善を尽くそう」


 そう言い切った覡は、とても頼もしい存在に思えた。絵に描いたような、頼れる上司そのものだ。きっと彼が「会長」になったのならば、多くの部下が彼を信頼し、その背中についていくのだろう。

 だが現会長の座が揺らいでいる今もなお、野心と呼ばれる感情を覗かせない彼は、権力というものに興味が無いのかもしれない。もしくは、現状で満足しているか。少なくとも、ここで「覡さんが会長になればいいんじゃないですか」とかいう提案は、空気を読まない無粋な言葉であることに違いなかった。

 それから少しの間、覡はリゼと情報交換という名の雑談を続けた。雑談がようやく終わったのは、時計の針が七時を指した頃だった。


「リゼ、色々と教えてくれて助かった。やはりお前からの情報は参考になる」

「いえ。お力になれたのなら良かったです。また何時でも呼んでくださいね。あ、でも」


 カバンを持ち上げ、リゼはびしっと覡の胸に人差し指を突き立てる。シャンパンゴールドの瞳を細め、唇を突き出しながら、彼女は比較的強い口調で言った。


「服を大事にしてください。破いてボロボロにして私を呼ぶのはナシですからね。特にルカさんによく言い聞かせておいてくださいよ。最近無茶をしすぎです」

「ああ、分かっている」


 この場にいないルカの代わりに、覡は甘んじて仕立屋のお叱りを受ける。ルカは結局一時間もの間戻ってくることはなく、僕たち二人がリゼの見送りをすることになった。覡によると、なんでも今日中にやらなければならない仕込みがあるのだとか。


「もう完全に日が暮れてしまったな。リゼ、『扉』まで俺が送ろう。現世は何かと物騒だ。深月、そこのワードローブの中にジャケットがある。もしお前に時間があるなら、それを羽織って下に降りてこい」


 覡が指さしたのは、黒く塗られた木製の扉だった。恐る恐るその扉を開けると、中にはたくさんの、様々な種類のスーツが綺麗にかけられていた。


「あの、どれを着れば……って、もういない」


 どうやらもう先に降りてしまったらしい。頼みの綱であるリゼも既にこの部屋にいなかった。残されたのは僕一人で、誰もいなくなった事務所は不気味なほどに静かだ。改めて事務所の内装に目を向ければ、所々に置かれた観葉樹以外、白と黒のモノクロで統一されていて、それ以外の色が殆ど存在していないように見える。棚の上は掃除が行き届いていて、埃やちりは見当たらなかった。

 恐らくこれらの家具は覡の趣味なのだろう。一階のカフェとはまるで違う内装の数々は、それぞれ別の人が主であると言われれば納得できた。カフェをルカのテリトリーとするのなら、この事務所はいわば覡のテリトリーだ。几帳面に揃えられた本棚も、しわ一つ無いスーツの数々も、曇り一つ無いほど磨き上げられたガラスの机も。

 事務所を眺めていると、ふと、覡の一際大きな黒い机の上に置かれたものに目がいった。白と黒に支配されたこの事務所の中でただ一つ、視線を奪われるほどに鮮やかな色をしたものが、かけられた布の隙間からちらりとその姿を覗かせた。

黒い布が被せられたそれは、アクセサリー専用のラックらしい。黒い金属でできた木の枝に、銀色のピアスや指輪がかけられている。シルバーアクセサリーが多い中、一つだけ、まるで昼と夜の境目のような、鮮烈なまでの赤と深い蒼が混ざり合った宝石があった。それはシルバーのチェーンネックレスにつけられて、樹の奥の方で静かに輝いている。


「……綺麗」


 そう、綺麗だ。きっと覡によく似合う。なぜなら彼の瞳は、正しくこの宝石の赤い部分のような色をしているから。覡は常に左耳にピアスをしており、指輪をしているところも時々見かけることがあるものの、もれなく全て飾りのないシンプルなシルバーだった。だからこそあのピジョンブラッドの瞳が一際目立っているのだけれど、ネックレスにこの宝石があったとしても違和感はないだろう。寧ろ、そのコントラストが際だって……。

 そこまで考えて、ハッとした。僕は今、彼らを待たせているのだ。せめて着てもいい服くらい教えてくれても良かったのに、と内心頭を抱えながら、僕はワードロープの前に戻った。どれも生地が高級そうだったけれど、正直良し悪しは分からない。だからとりあえず普通に見える無地のものを取り出して、僕はそのサイズが合わないジャケットを羽織ることにした。

 これ以上待たせてはいけないと急いで事務所を飛び出し階段を駆け下りる。合わない肩を片手で押さえていると、階段下にいた覡に肩を掴まれた。


「羽織れとは言ったが、袖を通さなければ動きづらいだろう。片手が塞がっていては武器を握ることができないぞ」

「武器って、悪霊がでるんですか?」

「可能性の話をしている。今は夜、ここは現世。であるならば、確率は低くとも悪霊と出くわす可能性は否定できない。何時如何なるときも万全の状態でいろ。それが護衛という仕事だ」

「護衛だなんて大袈裟です。私だって戦えますから。勿論覡さんやルカさんには及びませんけど、それなりには動ける自信がありますよ」


 リゼはどこか拗ねたように口を尖らせ、肩を竦める。


「さあ、行きましょう。もし悪霊に出会ったとしても、私がすぐに送ってみせます」


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