02 誘惑の果て
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山中の天候は変わりやすいものだが、徐々に霧が立ち込め、世界が白に染まりつつある道中を進む人影がひとつあった。
うっそうとした曇天の合間にちら見えた、空の青を思わせる重厚な鎧を纏っているにもかかわらず、それを感じさせない歩行の速度は戦士の力量を暗に物語っている。
そして、立ち込める霧の中でも迷いのないその足取りには、並々ならぬ強い意志が感じられた。
彼はディルダス王国から送り出された、新たなる『勇者』。
大人数で攻め込み、壊滅した後での単騎侵攻など、端から見れば無謀以外の何物でもない筈だ。
なのに、それを迷い無く行おうとする蒼穹の『勇者』は、やがて小さな村の入り口へとたどり着いた。
魔王が巣くう、凶悪なダンジョンの手前にある、最後の安全地帯。
しかし、その実態はダンジョンマスターの支配下にあるのではないかと推測される、謎の村だ。
有象無象の冒険者にとっては、都合が良ければ問題のない休憩地点だろうが、ディルダス王国の魔導機関に所属する者にとっては、危険な罠となる。
そして、その魔導機関で仕立てられた『勇者』にとっては、ダンジョンに突入する前の最初の試練となる場所でもあった。
そんな村へ『勇者』が足を踏み入れようとした矢先、奥の方から人影が彼の方へと歩いてくる。
飾り気のない修道服に身を包み、それでいて浮かび上がるグラマラスな肢体のラインは隠しきれない、美貌のシスター。
この村の代表を務めるという、シスターマルマと呼称される人物の登場に、『勇者』は進みかけたその足を止めた。
「ようこそ、『勇者』様……私はこの村の代表、シスターマルマ。貴方様を、歓迎いたします」
丁寧に頭を下げて、挨拶をするマルマ。
だが、たったそれだけの動作の中にも、男の欲望を煽るような色気に満ち溢れている。
フルフェイスの兜のせいで表情は窺えないが、おそらくマルマの存在を警戒しているであろう『勇者』であっても、彼女の一挙手一投足に目を引かれている筈だ。
「『勇者』様……よろしければ、そのご尊顔を拝見させて頂けませんか?」
言葉遣いこそ下手に出てはいるが、そこ込められた意思は、男であれば抗いがたい強制的な響きを含んでいる。
そして、そんな彼女の申し出に答えるように、『勇者』は兜の面当てを上げた。
「あら!」
顕になった『勇者』の素顔に、思わずマルマはご馳走を前にした美食家のような声を漏らす。
少年から青年へと変わる時期の、あどけなさと力強さが同居するその素顔に、内心で淫魔の本能が舌なめずりした。
「ウフフフ……美味しそう♥」
その呟きと共に妖しい光がマルマの瞳に宿り、不可視の光線となって『勇者』を射抜く!
次の瞬間、ダラリと力が抜けて棒立ちになった彼に、マルマは悠然と近づいていった。
「さぁ、楽しみましょう」
修道服の前をはだけ、その下から現れた白い肌を包む淫靡な下着姿を見せつけながら、彼女はそっと手を伸ばす。
「貴方も、その武骨な鎧を脱ぎ捨てなさい」
マルマは『勇者』に抱きつくようにして首もとに腕を絡め、甘い吐息を漏らしながらその無防備な唇へと、自身の唇を重ねようとする……だが!
ドスンという鈍い音と共に、マルマの腹部に『勇者』の拳がめり込んだ!
「おっ……ぶらぁ!」
込み上げる苦痛のうめき声と吐瀉物を撒き散らし、マルマは『勇者』から離れて数歩下がる!
「あ……がぁ……」
「調子に乗るなよ、聖職者面したアバズレが……」
嫌悪感を声に滲ませつつも、不意打ちの成功に口角を上げながら、『勇者』はマルマへ追撃の蹴りを放つ!
体重の軽いマルマの身体はあっさりと吹き飛ばされるも、地面を転がりながらなんとか体勢を整えた!
「……いやですわね、女性の扱い方を知らないガキは」
「お前が化け物じゃなければ、もう少し加減してやっても良かったがな」
こちらの正体を見抜いている様子の『勇者』に舌打ちし、マルマは素肌に着いた土を払いながらユラリと立ち上がった。
それと同時に、彼女の外見に変化が現れる!
下着が身体に張り付くボディペイントのように肌に馴染み、小悪魔じみた尻尾が桃のような臀部から伸びてくるではないか!
さらに背中から蝙蝠に似た羽、頭部からは角が生じ、桃色の淫らな魔力印が瞳に輝く!
完全なるサキュバスとしての正体を現したマルマは、男を虜にする扇情的なポーズを構えながら、マルマは『勇者』へ妖艶に微笑みかけた。
「さぁ、ここからが本番ですわ……カラカラになるまで、搾り取って……」
ペロリと赤い唇に舌を這わせながら、誘惑するようなマルマの言葉が、唐突に途切れる。
その直前、わずかに響いた風を切る音。
そして、反転する視界。
「え……?」
自分の戸惑う声と、地面に打ち付けられた衝撃の鈍い音が頭部に響いた時、マルマは自分の首が落とされた事を自覚した。
(う、嘘……)
以前に乗り込んできた際に食った『勇者』は、非力なマルマであっても少しは戦えたというのに、目の前の『勇者』はまるでレベルが違う!
なにより、サキュバスの本性を現すと同時に自動で発動される、魅了が効いている様子がない事が信じられなかった。
「…………」
パクパクと口だけは動くものの、かすれた音が漏れでるだけで言葉にはならない。
そんなマルマを見下ろしながら、『勇者』はツカツカと距離を詰めてきた。
「じゃあな、化け物」
振り上げられた足甲と靴裏、そしてグシャリと頭の砕ける音が、マルマが知覚できた最後の音だった。
◆◆◆
「……………えぇ~」
目の前で繰り広げられた、マルマ瞬殺の映像を見せつけられ、俺達はそんな声を絞り出すのが精一杯だった。
特に、オルーシェとティアルメルティは「ち、違……私が見たかったのは、こんなんじゃ……」って顔をしている。
確かに、同じような子供に見せたくない絵面なジャンルではあるけど、方向性が違い過ぎたもんな……。
「か、完全に死んでるが……マルマのやつは、あれで終わりなのか?」
誰ともなく、地上の惨劇を見ながらそんな呟きを漏らす。
それに対して、ダンジョンマスターたるオルーシェは首を横に振った。
「まだ……まだ終わらないよ」
そう言いながら、手元のパネルを素早く操作する。
すると、部屋の壁に奇妙な転移口らしき物が浮かび上がり、そこから首の繋がったマルマが、吐き出されたではないか!
その光景に驚く皆を前に、オルーシェは胸を張って誇らしげな顔をした。
「サキュバス転生したマルマは、本質的にはダンジョンモンスター。だから、死体の一部を吸収してポイントを使えば、再生することは可能」
「な、なるほど……」
感心する皆の前で、俺も当然のようにオルーシェの側に佇んでいたが……そ、そんな復活の仕方があったのか!
この身体になってから、死ぬ(?)レベルにまで至る事はなかったから、知らなかったぜ。
モニターの向こうでも、マルマの死体が地面に吸収されて消滅した事で、『勇者』も周辺を警戒しているようだった。
「うあぁぁんっ!マスタアァァァァッ!」
再生復活したマルマは、低空タックルと涙目でオルーシェに抱きつく!
「たしゅけてくれて、ありがとうございますぅぅぅぅぅ!」
「うん、いいから……離れて……!」
お前は、主を絞め殺すつもりかっ!
ギリギリとオルーシェを締め付けるマルマを引き剥がし、少し離れた場所に座らせると、今さっき戦ったばかりの『勇者』について、直接対峙した感想なりを話させる事にした。
「……わ、私は、この姿になった瞬間に、確かに『魅了の魔眼』を発動させたんです」
そう、マルマは切り出した。
例えどんなに硬い意思を持つ者であろうと、男であるならば全裸でベッドにダイブする事になるという、サキュバスの奥の手か……。
「普通なら、耐えられる筈がないんです……ましてや、下半身が思考に直結する、十代の青少年ならば」
ひどい言われようではあるが、確かにあれくらいの年頃の男子ならば、極上のサキュバスボディに食いつかない訳がないよな……。
そうなると、なにかしらの魔道具かなにかで、耐性をつけているのだろうか?
なんにしても、地上階層の管理者であるマルマが敗れた以上、勇者がこのダンジョンに突入してくるのを止める術はないだろう。
早々に、対策を練らねばな。
「まずは、『勇者』と闘いたい四天王を先に配備して……」
今までとは違う、圧倒的な強さを示した今回の『勇者』は、並みのトラップでは倒せそうもない。
なので、四天王には、勇者をぶつけるんだよぉ!な、コンセプトで配置の手はずを整えていたのだが……。
「聞こえているか、魔王おぉぉぉぉっ!」
唐突に、ダンジョンの入り口で内部に向かって大声で叫ぶ『勇者』の声が響いた!
な、なんだぁ……?
『勇者』を映し出しているモニターには、兜を脱いで完全な素顔をさらした少年が、ダンジョンの中へ向かって大声で吼えている姿があった!
そのあまりにも突然の呼び掛けに、つい俺達も呆気にとられてしまう。
そして、こちらの状況を把握している訳ではないだろうが、動きの止まった俺達を見計らうかのように、『勇者』は再び叫んだ!
「これから俺は、ダンジョンへと潜ろう!近くお前らと合いまみえるだろうから、実験体十七号……ダンジョン・マスターにもよろしくなぁ!」
こ、こいつっ!
一応、魔王のによって占拠されてダンジョンを奪われたって設定だったが、やはりディルダス国の連中は、オルーシェが健在だと疑ってやがったか!
ふん……だが、そんな気合いだけで攻略できるほど、このダンジョンは甘かぁない!
何より、俺がいるからなぁ!
矢でも鉄砲でも、持って来やがれってなモンよ!
……まぁ、こちらからの声は向こうに聞こえないだろうが、そのくらいは言い返してやろうかと思った、その時だった!
「……………………うそ」
小さく漏れた声の方へ顔を向けると……『勇者』の素顔を見て、両手で口元を押さえながら、蒼白になったオルーシェの姿が俺の視界に飛び込んできたのだった。




