188 スラムでの治療3
「パントス、いますか?」
「こちらに」
屋敷の中に向かって声をかけると、それほど大きな声を出したわけでもないのに、どこからともなく姿を現した。
パントスに紹介をしておき、それから使用人ハウスの二階にある、ほぼベッドしかない四つの空き部屋に四人をあてがった。
赤ちゃんズは奥にある部屋のでかベッドで寝るわたしたちのそばだ。
今晩世話するのはわたしかおりんになるからね。
「明日からは本館で寝てもらって、数日はわたしかおりんが付くようにしますね」
「そこまでしていただかなくても……」
「そうは言っても、お湯の用意におむつを洗ったりなどまったく勝手がわからないでしょう」
わたしからの話が終わると、そこからは経験豊富なおりんがテキパキ対応してくれた。
「では、この子は離乳食はもう始まっているんですね。何を与えてました? ハイハイは? こちらの子は寝返りはまだですか?」
「え、ええと……粉に挽いた麦粥と……」
「うちの子は寝返りはまだで……」
うーん……後ろで聞いていたが、月齢的にもう少し動けるようになっていてもいい気がするな。
「三人とも、ちょっと遅い感じがしないですか?」
「そういえば、そうですかね。でもこれくらいの子もいると思いますよ」
乳の出が悪かったという話だし、食が細かったせいかな。
「この寝返りがまだの子は、うつ伏せにしたりはしていましたか?」
「うつ伏せにすると死んでしまうんじゃ……」
「よく知っていらっしゃいましたね。でも、ずっとじゃなくて筋肉をつけるために運動として少しだけやるんです。今後はミルクの前にやっていきましょうか」
「筋肉、ですか……」
うつぶせの方が乳児の突然死は多い。
そこだけなぜか知っていたようだ。
横ではおりんが隠しもせずに驚いた顔をしている。
ちょっとおりん、驚きすぎでしょ。
わたしが孤児院出身なの忘れてるのか。小さい子だっているんだぞ。
今のは前世の記憶の方だけどさ。
「筋肉は大事ですよ。筋肉は裏切りませんし、寂しいときもいつも側にいてくれます。今回はうつ伏せにすることで、脊柱起立筋や僧帽筋、広背筋などが……」
「なに言ってんですか?」
「なに言ってるの?」
「すみません、なにをおっしゃってるのか、よく……」
おっと、うっかり前世の知識と、独り身の寂しさの記憶が漏れ出てしまったな。
そのあと、驚いた顔をしていたおりんに、二人きりになってから尋ねられた。
「なんでああいうことを知ってるんですか?」
「筋肉?」
「そっちはどうでもいいです」
赤ちゃんの話の方か。
おりんが筋肉に目覚めたのかと思った。
「前世で、本とか、親戚の子供見てるときに聞いたりとかだよ」
経験に基づく知識なら圧倒的におりんの方が上だろうが、理屈や理論的なものは育児書由来でわたしの方が知っているかもしれないな。
「本ですか……私もそれ読みたいのですが」
さすが元・子守りメイド。
魔術師としてもそれくらい熱心でいてくれてもいいんだけど。
おりんは感覚派なのもあって、魔術に関しての勉強はあまり熱心ではない。
しかし、おりんからのこういう要望は珍しいな。
なんとかしてあげたい。
「本自体はいいけど、問題は翻訳か……」
再現しても日本語になるし、記憶をもとに私が書く……のも手間だな。
そこへ、イオナンタと二人で三人姉妹の子供たちを見ていたチアが呼びに来た。
母親たちは、貧しい生活と子供たちの世話で体力も神経もすり減らしていた。
疲れ切っていたのでそのまま休ませている。
「おしっこ、たくさんしちゃって。服も濡れちゃった」
「おりん、洗浄かけてきて。わたしはそろそろ次のミルクの準備しとく」
紙おむつなんてないからな。
わたしたちがいる間は、洗浄魔術一発でいけるのでなんとでもなるんだけど。
不在になってもいいように、と考えると、そのうち紙おむつの適当な代用品を作っておけるといいかもしれない。
「イオナンタ、こちらを手伝って。あなたにもやり方を覚えてもらいますから」
言いながら、おりんに頼まれた育児書の知識はせっかくなのでイオナンタと母親たちにも知ってもらっておいた方がいいか、と思いついた。
この子たちは字の読み書きはできない。
本の内容を話して聞かせるのがいいかな。
完全に覚えきれなくても、四人いるのでカバーしあえるだろう。
ついでにパントス自身に読み書きを教えてもらうか、教える者を依頼してもらっておくか。
忘れないうちにさっさと頼んでおこう。
赤ちゃんたちの世話が一段落したところで屋敷の方でへ行き、再度パントスを呼んだ。
「そういうわけで、時間のある時に読み書きの教育をお願い。まあ、今回の育児についての話は全員に話して聞かせることにするつもりだけどね」
「承知しました。ところで、その育児の話は私も一緒に聞いてもよろしいでしょうか」
「それはもちろんいいよ」
なんで育児系の知識なんてと思ったけど、しばらく赤ちゃんはうちにいることになるし、知っているべきだと考えたのだろう。
そもそも執事となると家全体を取り仕切るわけで、そこに子供のことも含まれると考えればそれほどおかしくはないのか。
翌日の朝、早速軽く時間を取って話をしていると、パントスはその内容を奇妙な略式文字などを用いて速記していた。
……本当に特技の多い人だな。




