156 稲荷の脅し
翌日、バーレイ家でジニーの話をしたあと、父の第一夫人であるラボワの実家、バクスター伯爵家を訪ねた。
黒狐がロロナリエの姿で、わたしは使用人のロロとして付いていく。
伯爵邸を訪れ、奥に通されるとバクスター伯爵に、跡継ぎの長男を筆頭とした三人の息子とその妻、まだ子供の孫、伯爵の弟たちや甥など王都にいる血族が勢ぞろいしていた。
一日しかなかったのになかなかの集まり具合だ。暇なのだろうか。
「ようこそいらっしゃいました、ロロナリエ様。この場にいる者のみに特別なお話を聞かせていただけるとか……それにしても、聞く聞かないで我がバクスター伯爵家の未来がまるで違うものになるなどと……ずいぶんと大きく出られましたな」
どんな声のかけ方をしたのかと思っていたら、ちょうどバクスター伯爵がしゃべってくれた。
なるほど、そういう感じか。
バクスター伯爵があごひげを撫でる。
嫌な笑い方をする男だ。
バクスター家の所領は広く、伯爵という肩書き以上の権力を握っているとストラミネアから聞いている。
黒狐は何も言わずに黙ったままだ。
ちらりとバクスター伯爵に目をやっただけで、あいさつも返さずにそこにいる者たちの顔ぶれを順に見回していく。
自分の話を完全に無視している黒狐に、バクスター伯爵が一瞬片眉をあげて不可解そうな顔をしてから、いらだった様子で語気を強めた。
「この国で実績をあげるため、我がバクスター家に協力を求められたことについては慧眼と言わせていただきましょう。一体どのようなお話をお聞かせ願えるのか楽しみにしておりましたよ!」
「まあまあ、お父様。性急すぎますわ。まずは座っていただいて、バクスター領特産のお菓子と南方より取り寄せた紅茶で一息ついてもらいましょう」
父の第一夫人ラボワだ。そばには昔から仕えており、嫁入りにも付いてきた使用人の女もいる。
父の姿はない。
ラボワの姿を認めた黒狐が、ロロナリエの青かった瞳を黒狐本来の赤い色へと変えてにたりと笑った。
雰囲気が変わったロロナリエに気付かないまま、ラボワは話し続ける。
「わざわざ私にまで不可思議な芸で個別に声をかけたのは、よい心遣いでしたよ。とはいえ、聖女様。あなたがいたような遥か西のちっぽけな島ならともかく、たとえ聖女だろうと、この国では獣人の平民風情が我々貴族に声をかけるときにはもう少しへりくだった方がよろしいかと思いますわ。獣の匂いを振りまいて申し訳ありませんなどとね」
「あらあら、お嬢様。本当のこととは言え、言いすぎでございますよ」
見下した笑みを浮かべるラボワと使用人の女をはじめとした者たち――その場にいるほぼ全員だが――を無視して、黒狐が一瞬宙に目を向けてから、指先を伯爵の方に向けた。
「子供はいない方がよい」
今日は演技をする気はさらさらないらしい。
黒狐は普段の簡潔なしゃべり方そのままだ。
それを怒っているととったのか、ふん、と鼻を鳴らした伯爵が子供たちを下がらせた。
「態度には少々気を付けてもらおう。ただ野山を荒らし、転々と獣を殺しまわって暮らすだけの野蛮な獣人とは違い、人族は大地に根を張り大地神の教えに従って生きてきた。我々貴族は更にその中でも選ばれた存在なのだ。何の間違いかたまたま豊穣神の加護を授かったらしいが、だからと言ってあまり調子に乗らない方がいい。……それで、子供は遠ざけたぞ。一体どんな話を聞けるんだ?」
へぇ。
獣人への軽視にはそういう理由もあるのか。
しかし、解釈の仕方が偏っているなあ。
どっちの生き方が歓迎されるとか歓迎されないとか、大地神にそういうものはない。
大地神の神官たちが祈って地力を回復させるようなことができるから、変に勘違いされているのだろうか。
まあ、宗教としての大地神教は間違いなく人間が人間のために作り出したものだからな。
稲荷神だってわかりやすく山の神をやっている黒狐を筆頭に、みんながみんな人間のために存在しているわけではない。
「そうだね。せめてもの慈悲として童たちは何も知らないまま眠るように死なせてやろう」
気高く鋭い銀色の声は、明らかに人間の発するものとは違う不思議な軽やかさと重さを持って響き渡った。
「なにっ!?」
即座にわたしと黒狐以外の全員が、その場で地面に叩きつけられた。
そばにあった椅子を粉砕し、テーブルや家具を砕きながら床に全員が体を張りつかせる。
重力操作!
「な、何だ! 我がバクスター家を敵に回すつもりかっ!? バクスター家は伯爵位とはいえ、王国でも指折りの――」
「今日限りでなくなる家の話なぞ、興味はないね」
べらべらしゃべれているあたり、単に動けなくしただけのようだ。
天狐と銀狐がその姿を現した。
ロロナリエの姿になっている黒狐も頭上に真っ黒なシルエットのようなものを出す。
黒狐のそれは、なんか悪役っぽくない?
見ようによっては、黒いもやに操られているみたいに見える。
「なっ!? 何だ、お前ら!? おいっ、誰か!!」
「豊穣神、天柱稲荷だ。わめくのは勝手だが、今この屋敷で動けるやつは一人もいねえよ」
「同じく、宇迦銀灰稲荷。このまま全員床の染みに変えることもできる。余計なことは考えないことだね」
「山の神、黒点稲荷。神子を侮辱するのは私たちを侮辱するのと同じ」
「くっ、獣神どもめ、我々に手を出して後で後悔しても遅いぞ! 我らの後ろには――」
「黙ってろ」
天狐の言葉に喚いている伯爵の息子の一人が顔を赤くして沈黙した。
うめいているので、重力を更に強めたのかもしれない。
「さて、バクスター伯爵とやら、少し話をしようか。お前だけは術を解いた」
「む……」
バクスター伯爵が自分の体を確認するように、膝をはたきながらゆっくりと立ち上がった。
一度ゆっくりと息を吐いたあと、大きく息を吸ったバクスター伯爵が、天狐たちを静かに見据える。
天狐たちに気圧されていないな。
最初の舐め腐った態度は気に食わないが、それなりに修羅場もくぐってきたのだろう。
まがりなりにも貴族家当主の肩書きを背負うだけのことはある。
「先ほどの態度について、謝罪すればよいのかね」
「今、話すべきことはそれではない」
あっさり銀狐が切って捨てた。
「……何をお望みですかな。ロロナリエ様から最初にお聞きしていた我々の未来が変わるという話についてですか?」
「変わる未来はないと言いたいが、せっかくだ。十年前の話をするとしよう」
「十年前……?」
銀狐がちらりとわたしを見た。
それから床にはいつくばっているラボワに視線を移す。
「十年前、そこのラボワという娘が嫁いだ先で、その夫と別の女の間に子が生まれただろう」
バクスター伯爵とラボワが目を見開き、他の者たちは一体何を言い出すのかといぶかしげな顔をした。
バクスター伯爵はラボワに一度目をやり、それからその視線をロロナリエ、天狐、銀狐の耳を順にたどらせてから、目を閉じて息を吐く。
十年前の獣耳の子供と銀狐たちに何かしらの関係性があることに気付いたのか、絞り出すような声で肯定した。
「……ええ。ございましたな」
「貴様らが殺したその子は、この宇迦銀灰稲荷が特別に加護を与えた子であった。ゆえに人族でありながら我が加護の印として、我らに近しい姿をもって生まれてきたのだ。このロロナリエと同じくな」
「……殺した?」
「人族……あの聖女も?」
銀狐の言葉に床這いつくばっている者たちがざわついたが、続く天狐の言葉でそれは悲鳴に変わった。
「さて、そういうわけだ。おまえ達がこれから死ぬ理由はわかったか?」
「ひっ」
「聖女様、お慈悲を!」
「どうか神の怒りをお収めください」
ロロナリエに化けた黒狐は澄ました顔で沈黙を保ったままだ。
自分の代役だと考えるともう少し演技してもらいたい気もする。
今は黒稲荷だからロロナリエじゃないよ、という設定なのかな。
「お待ちを! あれは本意では……」
「へぇ?」
おもしろそうに天狐が片眉を上げた。
ん、何か引き出せそうかな……?
実はこの件についてはまだ不明点がいくつかあるので、強引に聞き出すために脅すからと天狐たちから事前に聞いていた。
バクスター伯爵が一度大きく息を吸って吐く。
その瞳には、覚悟の光が宿っていた。
「いや、今はそれを言っても詮無きことか……。ここでそれを知っていた者はごくわずかで、子供を含めほとんどの者は何も知りません。我が領に暮らす者たちも当然無関係。この場はこの首一つでお収め頂きたい」
なるほど。彼はたしかに貴族だ。
家のために、自領に類を及ぼさないために、必要ならば命を差し出す決定さえ即座に下せる。
この傲慢な伯爵は、自分が間違いなく貴族であり、その権力と責務を一身に背負っていると信じている。
「お前の首に神が特別に加護を与えた神子と同じ価値があるってのか?」
「……どの国も、国ごとに事情があるもの。その加護による獣人のごとき外見のせいで、娘や婿のために我らが何もしないわけにはいかなかったということも理解していただきたいですな」
バクスター伯爵はまっすぐに天狐を見据えた。
その目にもう恐れはなく、ただ覚悟だけがあった。
「その前に、さっきの本意ではなかったって話についてしゃべってもらいたいね」
問答無用で皆殺しにしてくるだけの存在ではなく、多少なりとも話を聞く気があるという姿勢を見せた銀狐の言葉に、ほんのわずかに場の空気が弛緩した。
とは言え、散々脅されたあとだ。もうこの場で嘘は並べられないだろう。
さて、どんな話が出てくるかな。
今のところ、天狐たちの狙い通りに話は進んでいるようだ。