109 恋月期
まだ冬だけど、だんだんと春が近づいてきた。
そろそろ旅立つことをみんなに伝えて、日国への出発する頃合いかな。
夜中に、なんだか暑い気がして目が覚めた。
ノドが渇いてる。今日、あんまり水分とってなかったっけ?
体が火照ってるような気がするし……脱水かな。
部屋をそっと出て、階下に下りると、水を一気に飲み干した。
なんだか落ち着かない。
水は飲んだし、しばらくすれば落ち着くかな。
ネコ姿のおりんが階段をとてててて、とかすかに音をさせておりてきた。
「おりんも起きちゃった?」
「ちょっと寝苦しくて。お茶を入れましょうか」
「じゃあ、お願い」
おりんがヒト型に戻ってキッチンへ入っていく。
二人とも夜目が効くので、月明かりだけで十分見えている。
おりんも明かりを使わないまま、お茶を淹れ始めた。
月に照らされているおりんは、なんだかいつもよりきれいに見えてドキリとする。
「なんか、今日暑くない? 気のせいかな」
「あれ、ロロ様もですか」
おりんもだったらしい。
おりんは眠る時はネコ姿なので、毛皮が暑かったのかな。
「もしかしてですけど、ちょっと火照った感じがありますか?」
「あれ、なんでわかったの」
おりんが、微妙な顔になった。
「ロロ様って獣人でなく、狐神の加護をもらっているだけかと思っていたんですけど……。えっと、おめでとうございます、ですかね。その、大人になられたみたいで……」
「へ? どういうこと?」
「……その、火照ってるのはそういう時期だからかと」
言葉を選んで伝えてくるおりんは、ちょっと赤面している。
自分の身体の感覚と、知識がようやくつながった。
「もしかして……今、恋月期?」
春が近くなると訪れる恋の季節だ。
祖先の影響もあってか、獣人の女性は月の魔力の影響なんかを受けて、人恋しくなる。
おりんが謝ってきた。
「すみません。昔はずっと作って頂いた魔道具で防いでいましたし、洞窟から出たのが久しぶりすぎて、そういったものがあるのを今まで忘れていました」
「いや、まあ……わたしも存在自体が微妙なラインだし」
加護で狐っぽくなっているとしたら、一応ありえるのかな。
さっきから、おりんから目が離せない。
動作一つ一つ、すべてがきれいに見えて、ずっと見ていたくなる。
「去年は大丈夫だったの?」
「呪いが解ける前後くらいだったので、あまり影響を受けなかったんだと思います」
そういえば、それくらいの時期か。
「この場で、月の影響を防ぐ魔道具をぱぱっと作ったりできないですか?」
「集中しにくいし、ちょっと厳しいかな。朝になって月の影響が抜けてからの方がよさそう」
おりんがカップを二つ並べると、ソファの隣に腰掛けてきた。
お茶に口をつけて一息つく。
突然、おりんがわたしの手を握った。
びっくりしておりんの顔を見る。
月明かりに照らされたおりんの頬が赤い。
おりんは何も言わずにこっちを見ている。
おりんの指先がわたしの手をすべって、それから指と指を絡めてきた。
これ、なんか恋人がする手のつなぎ方みたい……。
「ロロ様の心臓の音、聞こえてますよ。ちょっとドキドキしていますね」
「あの……おりん?」
何のつもりなの、この子……。
小悪魔なの? 小悪魔ネコなの?
「落ち着いてきません?」
「え? あー、うん……?」
深呼吸をしてみる。
正直、おりんに手を握られてびっくりしたせいで、全然落ち着いてない。
目を閉じて、手の温もりに意識を集中する。
おりんの手、柔らかいな……。
鼓動がおさまらない。やっぱりダメそうだ。
「恋月期は他の人と触れ合っていると落ち着くんです。手をつなげばと思ったんですけど」
「……先に言ってよ。あと、効いている気はしないかな。むしろ、びっくりしてひどくなった気がするくらい」
「すみません、ご存じかと思って……。うーん、でも私も効いている気がしませんにゃ。まだ初期ですから、これくらいで十分なはずなんですけど」
わたしが普通の獣人じゃないから?
でも、おりんにも効果がないみたいだ。不思議そうにしている。
二人で落ち着かないまま手をつないでいると、おりんが別案をだした。
「運動したり、暴れて発散するという手もありますけど」
「チアは寝てるし、一人置いて出かけるのもなあ……。ストラミネアがいるから大丈夫とは思うけど」
さっきから手をつないだままだけど、特に変化はない。
その上にもう一つの手ものっけてみた。
別に変わらないな。
火照ったままでおさまる気配はない。
「初期って言ってたけど、だんだん月の影響は強くなるの?」
「ええ、そうですね」
「わたしたちは今晩しのげばいいけど……結婚してる人や恋人のいる人はともかく、それ以外の人はどうやって過ごす感じ?」
他に楽な過ごし方があったりするのだろうか。
火照って顔が赤くなる程度なら、普通に我慢するだけかな。
「今みたいに手をつないだりしながら、仲のいい女性同士で過ごすことが多いみたいですよ。もし耐えられなくなって暴走しかけても、お互いに止められるので。危ない時はぐるぐる巻きにでもしちゃえばいいですし、その、最悪の事態になっても、女性同士なら大丈夫と申しますか……」
お互いに安全装置になれるから、事情がわかるもの同士でいた方が楽だってことか。
最悪の事態というのはベッドインしてしまった場合の話だな。女の子同士だから授かりものの心配はないわけだ。
「結局そのまま一緒にすごした女性同士で付き合いだしちゃうなんて話も、珍しくないみたいですけど……」
赤い顔をしたおりんは少し早口のまましゃべり続けている。
説明はありがたいけど、今はあんまり聞きたくない情報だな……。
現在進行形で恋月期なわけで、ちょっと反応に困る。
「そ、そっか。ありがと……」
「あ……すみません。余計なことまで」
「いや、まあいいけど。さっきも言ったけど、わたしたちは今晩だけだし……。じゃあ、明日の朝までおりんはわたしのコイビトね」
「もー、やめてくださいにゃ」
気まずい感じになりそうだったので、軽くからかうと、おりんが困った声を出した。
一度下を向いて息を吐いたおりんが、つばを飲んで、こちらの様子を上目遣いでうかがってくる。
「おりん、冗談だからね」
ちょっと目がこわいんだけど。
「だって……手をつないでても全然落ち着かなくて……ギュッてしていいですか?」
「ん、まあ……それくらいなら。わたしも落ち着けるんならそっちのが楽だし」
「じゃあ、失礼して……」
おりんに抱きしめられる。
ネコ姿のおりんはよく抱っこしてるけど、ネコの時のくにゃりとした柔らかさとは違う、包まれるようなふくよかさが……。
ん……?
「おりん、あんまり胸を押し付けないで」
「押し付けてませんけど……」
あ、はい……大きいですもんね。
相変わらず火照りは変わらないままだ。
効いてないよね、これ。
おりんの顔が目の前にある。
月に照らされた、きれいな瞳、少し赤くなった頬、それから……。
おりんの心臓の音が聞こえる。
どうしよう。わたしの早くなっていく鼓動の音もきっと聞こえてる。
これ、一度離れた方がいいな。
頭ではそうわかっていても、離れたくない。
ずっとこうしていたい……。
「おりん、このままだと、わたしちょっと……」
「ねえ、ロロ様。もっと近づいたら……おさまりますかにゃ……」
おりんの声が震えていて、それから、その長いまつ毛を伏せた。
ちょっと待って。本気で……?
身をよじろうとしたけど、体が動かない。このまま離れたくない。
おりんの顔が近づいてくる。
止められない。
ちがう。
わたしも止めたくないんだ……。
わたしは、最後の抵抗に額をこつんと合わせた。
これ以上は、もう……。
コクリ、とノドが鳴った。どっちだろう。わたしのかな。
二人の距離が更に縮まって、わたしは目を閉じた。
次の瞬間、人が階段を下りてくる音が聞こえてきて、ほとんど同時につないでいたおりんの手から伝わる感触が肉球のものに変わった。




