ナナという女
ナナ、彼女は確かホアンさんに連れられて駐在所にいたはずだ。不法滞在の身であるはずの彼女が今は私の目の前にいる。
「なんで貴方がここに……確か駐在所に居たはずじゃあ」
「吸血鬼が出たって騒いでいたからその隙に逃げ出してきたのよ」
この人は命知らずだろうか?吸血鬼が出ているっていうのに外に出るなんて吸血鬼を対峙するハンターくらいだ。この人は噛まれた時のことを全く考えていないのだろうか?
「あぁそうそう、そのナイフ返してくれないかしら?大切なものなの」
ナイフまさかこの錆びだらけのこのナイフのことだろうか?確かに妙な所に落ちていたと思っていたがまさかナナのものだとは思わなかった。しかもナイフが大切なものって……言ってしまうと悪いかもしれないが悪趣味だ。そして大切なものならば落とすようなことをしなければいいのにと思いつつ、ナイフをナナに返した。ナナは目を細めて刃の部分を母が我が子を見るような目つきで優しく見つめていた。そんな彼女を見ていると鳥肌が立ってくる。不気味だった。
「それにしても貴方、ハンっだったかしら?随分と面白い姿になったわね……昔を思い出すわ」
随分と気に障る言い方をされた。私の事を“面白い姿”ですって?私はこの姿になったことで自害すらも考えたというのに何て事を言ってくれるのだろうか?しかも私を見て「昔を思い出す」って言うのも何というか……え?今彼女は確かに昔を思い出すと言った。
「む、昔を思い出すってまさか私のこの姿の事を知っているんですか!?」
「ちょっと反応が遅かったわね……私はてっきり一秒経たずに突っ込んでくると思ったけど」
それからナナは自分の髪を手櫛で解かした。そして私の事を見つめてくるのだ……さっきナイフを見つめていたように優しく、優しく……
「私はこれでも吸血鬼の専門家だったのよ。貴方のような半人半鬼にも会ったことがあるわ……かつて一度ね。彼女もまた、人間にハブられて、一人になって、そして去っていった……」
ナナは羽織っているクロークを翻して背中を向けた。今、ナナが見ているのは西の方角だ彼女がやってきたという西の国、そこに私と同じような……半人半鬼という存在が居た。そうなのだ……彼女の目を見ればもはや現実ではなく過去を見ている。過去に実際、起こったことなんだ。
「それでその人は今、どうしているのですか?」
聞くのが怖かった。だけどちょっとだけ勇気を出して聞いた。ナナは結局遠くを見ている。
「さあ……今頃、誰も知らないような場所で静かに暮らしているんじゃないかしら?」
静かにそう答えた。昔を思い出すのはもう飽きたのか?やがて彼女は名残惜しそうに西を見るのをやめた。
「通常、吸血鬼に噛まれれば寄生虫が体中を回り込んで脳まで侵食する。だけど何らかの要因で脳まで寄生虫が達しなかった。それが半人半鬼……貴方の身に起こっていることよ」
今のナナは遠くを見ていない、過去ではなく今……私を見ている。私の見に起こっている出来事を見ていた。
「貴方はワクチンを打ったのかしら?」
「診療所で目覚めたので打ったとおもいます」
そういえば駐在所の人がその話題に触れていたと思う。あの情景をあまり思い出したくなかったので思わず私は顔を伏せた。
「となると、ワクチンとあなたの相性が悪かったのか、ワクチンが不良品だったのか、噛み付いた吸血鬼が特殊なものだったか……」
ナナはクロークのポケットから手帳とペンを取り出してメモを取っている。吸血鬼学者か……どうも学者としての興味が湧いているようだった。所がある程度書いたところで彼女は突然書く手を止めた。そして手帳もペンもしまってこちらに向き直るのだ。
「違うわ……今はそんなことをしている場合じゃない」
ここで小さな深呼吸、
「さて、貴方はこれからどうするの?この木の上から村の様子は見ていたけどあの様子じゃ戻るに戻れないんじゃないかしら?貴方もどうかしら?木に登ってみる?まだあの建物の前で言い争っているみたいよ」
見たくない……聞きたくない……私が駐在所の裏手を通るときどんな思いをしていたのかナナは知らないのだろうか?気に登って村の様子を見物なんかしたら不快になる、そうに決まっているのだ。なにせ私のことを喋っているのが今までずっと暮らしていた村の人達なのだから……
「……まぁ冗談はさておき」
自分で思っているよりも私は酷い顔をしていたのだろう、流石に言いすぎたと思ったのかナナは話題を変えた。謝ることが無かったのが気に障った。
「本当にこれからどうするのよ?その様子だと家出だか何だかしてきたんでしょ?村にはいられないって……私も同じよ、祖国で色々とやらかしちゃって居られなくなった。だからここにいる。居場所が無い者同士で仲良くしていかない?」
そう言ってナナは右手を差し伸べてきた。彼女の手を取ること、きっとそれは新しい道を進むことになる。そして多分……いや、絶対に波乱の道になる。
逆に彼女の手を取らなかったらどうなるのか?そうなると村に戻るかそれとも一人で村を出るかだ。村は今頃、私が居なくなったで大騒ぎになっていることだろう……その中私が戻ったところでどうなることやらだ。一人で旅立ったところで私の持ち物はない、突発的に出て行ってしまったから持ち物も用意も何もないのだ。その点ナナはあの大きなリュックサックを見る限り抜かりは無い、それに彼女は吸血鬼の専門家だ。私の体のことも知っているし何より理解がある。そう、今の私が一番欲しいもの、理解者が彼女だ。
私はたくさん悩んだような気がするが結構キッパリと決まった。
「ナナ、あなたと一緒に行く……」
ナナの右手を握った。ほんの少しの間感じていなかった人の温もりだったが今の私にとっては何年ぶりにも感じられた。どうやら私は結構淋しがり屋だったようだ。
「お陰でこの国でも退屈しそうにないわ、ケイラン村で面白いものを見られたし何より……貴方の事が気に入り気に入った。」
ナナはリュックサックを下ろすと中をまさぐった。リュックからお尻だけ出ている光景は滑稽に見えてしょうがない……しばらくして彼女が取り出したのは何やら細長い巾着袋だった。
「ひとまず今日はもう遅いからここで野宿よ、ここなら誰にも見つからないでしょう」
巾着袋に入っていたのはテントのようだった。しかもこのテント、結構便利にできているようで組み立てるというより広げるだけで完成した。一人用を想定しているせいで若干狭いような気もするがそれはしょうがない。
さあまずは腹ごしらえとナナが取り出した食事は意外なことにロールパンだった。しかも中身にはレタスやらトマトやらの野菜が挟んである。複数あるようで一つ私にくれた。こちらには燻製の肉が挟んである。一口かじってみたところこの肉は猪のようだ。なんかこの肉は食べた覚えがあるような気がする。
「駐在所の奥っちょにあったのを頂いたわ、昨日は肉なんてないとか言っていたのに探せばあるじゃない」
大変なことをシレっと言ってくれた。通りで食べた覚えがあるはずだ。きっとチェンさんが以前狩った獲物を保存食として燻製にしたものだ。この人は常用食と保存食の区別がつかないのだろうか?
結局ナナはパンを二つ食べた。一方の私は未だ一つ目をモゴモゴしている。いつもだったらナナと同じように二つ位はあっという間に食べてしまうのに……そういえば昼間も結局パンを少しだけかじった程度だった。今日は食欲がない、多くのストレスを抱えて拒食症にでもなってしまったのだろうか?
「大丈夫よ、吸血鬼は元々あまり食べないから……前にあった半人半鬼もそうだったわ」
そう言ってくれたのが救いだった。少なくても食べる量が少ないからって心配する必要はない……それにしてもナナは私がそれで悩んでいることを見抜いていたのだろうか?自分の考えていることを覗かれているのではないかとさえ感じる。
「半人半鬼って……結局人間なのか、それとも半人半鬼なのか、どっちだと思いますか?」
聞いてみた。これは今、私が知りたいことの一つだ。過去に半人半鬼に出会っている吸血鬼の専門家なら……どんなことでも見透かしているようなこの人なら何か教えてくれるのではないだろうかと、そう考えた。だから聞いたのだ。
「半人半鬼はどちらかねぇ、それは自分自身に聞きなさいよ。自分が人間だと思うのであれば人間だし、人間であるべきよ。逆に自分が吸血鬼だと思うのであれば吸血鬼なのだから吸血鬼でありなさい……」
自分自身に聞けか、ということは人間と吸血鬼、どちらにでもなれるという事だ。どちらになりたいか?そう聞かれたらもちろん私は人間を選びたい、誰だってそう思う。
しかし、ナナは私に「人間だと思うであれば」と聞いた。決して「人間でありたいのであれば」でなく「人間だと思うのであれば」と言ったのだ。それはつまり人間になりたいと思ってもなれないという訳だ。今の私には人間になれる自信なんて……無い。少なくともあの村の様子を見てしまうと人間でいられる自信なんて無くなってしまうのだ。だから残された選択肢は吸血鬼になる。それだけなのだ。
「回答を急ぐ必要はないわ、ゆっくり考えていけばいい……焦って間違った答えをする方が怖いからね。」
そう言ってナナは水筒に口をつけた。一口だけ飲んでそのあとに息を吐き出す。ちょうど煙草を吸っている時の父のようだった。
「今日はもう寝ましょう、子供はもう寝る時間」
確かにそろそろ眠くなる時間だが何も子供扱いして欲しくない、彼女のことを尊敬した所だったのにちょっと気を許したと思ったらコレだ。でもここで言い争う気は起きず、私は素直にテントの中に入った。
「そういえば貴方、半人半鬼なのに夜は眠いのね。」
はい?確かに吸血鬼は夜行性だけど……まさか。私はこれから昼夜逆転の暮らしをしなければならないのだろうか?ゾッとしかねないが少なくとも今は大丈夫だ。普通に眠い。
「え、えっと多分眠れると思いますけどまさか……」
「私が以前会った半人半鬼は見事に昼夜逆転していたわ……お陰で私が付き合わせたり、逆に彼女が昼間起きたりして大変だった。今回はその心配がなくて良かったわよ」
彼女の表情を見れば一目瞭然だ。心底ホッとしている。しかしナナがあったという半人半鬼とは少し違う、ということは半人半鬼にも色々と居るということだ。
テントの中には寝袋が一つだけあった。元々ナナは一人旅の予定だったはずなので寝袋が一つしか無いのも当然である。ナナはまだテントの中に入ってこない、外で何やらブツブツ言っているのだ。以前会った半人半鬼と自分の違いをまとめているのだろう……ペンを走らせている音さえ聞こえてくる。結局私は寝袋を使わずに邪魔にならないようなテントの隅で寝た。このテントも寝袋も彼女のものだ。テントと食料をもらえただけで大感謝だ。だから一応彼女に敬意を払って寝袋を開けておいた。一応の敬意だ。
結局ナナは私が起きている間にはテントの中に入ってこなかった。眠気によって薄れゆく意識の中、頭の片隅で彼女を待っていたのだがそれは無駄に終わった。