家出
ロン先生が診療所から出て行く扉の音を聞いて私はようやく布団から顔を出した。もう誰にも私の姿を見られたくはない、私自身今まで自分の顔に自信を持ったこともないし逆に落ち度に思うこともなかった。だけど今、天井に向かって腕を伸ばすとそこにはもう気持ちの悪いくらいにシワシワでそして青々とした血色の悪い腕があるのだ。こんなのもう人様には見せることができない。
「よいしょっと。」
ベッドから起き上がってそのまま腰掛ける。それからしばらくの間は斜め上、大体角度にして30度くらいだろうか?天井のある一点だけを見つめていた。
ロン先生は今日は戻らないと荷物をまとめて去ってしまった。ロン先生は仕事人間である。患者が誰もいないとしても診療所にこもりきっているような人だ。幼い頃、私は深夜に熱を出したことがあったが……それでもロン先生は診療所にいて何事もなかったかのように私に薬と氷枕を用意した。そんなロン先生が今日は患者を置いて不在なのである。
「そっか、私は“患者”じゃないのか。」
そうだ、あくまでロン先生が待つのは患者だ。彼がここにいないとすると私は患者ではない……そう、吸血鬼だ。
外でボソボソと声が聞こえてくる。声からしてロン先生とチェンの声だ。壁に貼り付けば内容が聞こえるだろうが私はそうしなかった。
「盗み聞きなんてそんな悪趣味な。」
そう呟いて盗み聞きをしない理由を付けた。でも実際の所は単に聞くのが怖かっただけだ。そう、単純にそれだけ……なんてシンプルな理由だ。そして自分はなんて度胸なしだろうか?
診療所の周りを見渡してみる。壁にかかっている時計が目に入った。いつの間にやら時間は過ぎ去っているもので既に正午を少し過ぎたところだった。思い返してみれば私は昨日の晩御飯すら食べた記憶がない、だけど不思議とお腹は空いていなかった。
「だけど流石に食べないといけないよね。」
そう思ってのそりと起き上がって診療所の奥から続く通路を目指す。その先はロン先生が食事を食べたり仮眠をとったりする時に使う休憩室だ。私は初めて入る。私どころか村人の殆どはこの先に入ったことがないのではないだろうか?
「まぁ先生は食事は適当にあさって食べろと言ったし……」
通路の先には埃一つついていない綺麗な扉があった。何だかこの扉の先は聖域のような気がするが……だけど食料があるのはこの先だ。入ってみよう……ちょっとワクワクする。
カチャリ
扉を開けた。少しずつ、少しずつ扉を開けて床を見る……何かあった。これは……新聞?新聞のが一日分扉を開けたすぐ下の床にあった。ゆっくり顔を開ける……と、その瞬間私は思わず目を半開きにした。
「なんだこれ……」
なんとも形容し難い光景が広がっていた。一言でスッキリ述べるとするならば“散らかっている”その一言だ。その一言だけで述べられる。診療所のほうは綺麗に整理整頓、そしてマメに掃除されて清潔感漂う感じであったのだがこっちの休憩室はその真逆を突き進んでいる。床に散らかっているのは何も新聞ばかりではない、米俵とか野菜とか食器だとかが床にあった。ちなみに戸棚や収納の類ももちろんある。溢れ出しそうだったが……
「ロン先生のイメージ変わるわぁ……」
小さなテーブルの上にはこれまた小さな皿があり、その上にはパンが3つあった。食べかけではない……多分ロン先生が昼食用にとっていたものだろう。青くなった私の手でそのパンをちぎって口に入れた。不味くはないが出来立てではないので硬かった。少し残念だった。そのせいなのかは自分でも分からないが結局その一口だけで私はパンを皿の上に戻した。
結局その先も休憩室にはいたが特に何をする訳でもなかった。こんなごちゃごちゃした休憩室もなんだか居心地いいと思ってしまうくらいになった頃だ。別に「外に出るな」とは言われていないので診療所の外に出て家に帰っても別に問題は無い……ハズだ。だけど当然そんな気分は出てこない。
そのままどれだけの時間が掛かっただろうか?それを教えてくれたのは壁にかけられた時計ではなく窓だった。窓にはカーテンがかけられていたがそのカーテンから漏れ出る光はオレンジ色に染まっていた。この部屋に来たのはお昼過ぎだからそれからかなりの時間が経ったものだった。
何となくその窓に近寄ってみる。そういえば吸血鬼は太陽光に弱いと聞いたけど大丈夫だろうか?体が燃え上がってしまわないだろうか?少しだけ自分の身を案じたがすぐに「まあいいや」と思ってしまった。燃え上がって死ぬのであればそれでいいやと……だけど窓によっても体が燃えるわけでも無く、熱いとさえ感じなかった。少しだけ眩しいと思っただけだ。
カーテンを開けると私の姿を外に晒すことになってしまうのでカーテンを開けずにその隙間から外を覗いた。景色を眺める以前の問題だった。私の顔が窓に映ったのだ。
「…………」
そういえば目覚めてから自分の顔を見るのは初めてだ。初めて見る自分の顔はあまりにも醜いものだ。肌は青いししわくちゃだし、そのくせして目だけは禍々しいにも紅くギラギラと光を放っている。窓から差し込んでいく西陽はとても眩しかった……だけど吸血鬼の見た目をしている割には体は燃え上がらなかった。
「なんでだろう、日を浴びて死なないことを残念に思っている私がいる」
つぶやいて初めて自覚する。なんでだろうか?私は今まで死を願うようなことなど一切なかった。家の手伝いだとは言え鶏の世話や卵の運搬は私に生きがいを与えてくれたし近くの川や山に遊びに行ったりもした。私の生活は普通に充実していた。幸せか不幸せかといったら幸せな方だったと思う。だけど……
「あの時はお父さんもお母さんも何も言ってくれなかった。」
昼間の事、私は会いたくないと言ったのに父さんと母さんは強引に診療所の中に入ってきた。そして私がうずくまっている布団をこれまた強引に剥いだのだ。それはちょうどそれは朝、私を起こすときに近いものだったがその後はいつもと違った。私の変わり果てた姿を見たとたんその周囲の時が止まったのだ。ただ無言無言無言……それの繰り返しだった。最初にその無言の波を蹴ったのは私の方だ。
「出て行って……」
それだけを言った。それだけで十分だった。事実、お父さんもお母さんも無言のまま、そしてこちらに顔を向けることもないまま帰っていった。「出て行って」と行ったのは私だったハズなのに何故か泣いたのは私だった。
正直言って私の両親は悪くない、悪いのは吸血鬼に噛まれた私だしあの時「出て行って」と言った私の方だ。だけど本音を言えば「出て行って」と言っても出て行って欲しくなかった。抱きしめて欲しかった。素直にそう言えばよかったけどもう過ぎたこと、時間は戻ってこない。
ある単語が思いついて休憩所を飛び出し、私は診療所に戻っていた。そして診療所の扉の前にいる。この先は外だ。
「家出だ!家出!どうせ今の私なんか……」
この十五年の人生の中で家出はこれが初めてだった。だって今まで家出する理由がなかったんだもん……だけど今はある。単純にあの時、家族に優しくしてくれなかったからだ。いくら私がそれを拒んだとしてもその事実は変わらない、それにしばらく村の誰とも顔を合わせたくなかった。
入口のドアを開けてちょっとだけ顔を出す。右、左、また右……誰もいないようだった。もうあと数十分もすれば日が落ちる頃だ。皆、仕事を終えて家に帰った頃だろう……
「抜き足差し足……」
足音を殺して、そして誰にも聞こえないようにブツブツとしながら診療所を出発した。なるべく木の陰や茂みの中、そして家の壁に背中を密着させながら村の北を向かっていく、そのまま誰にも合わずに、誰にも悟られないように村を出て行くのだ。
「おい……本当なのか?」
「あぁ、どうもそうらしい。」
茂みの中をしゃがみながら歩いていた頃、茂みの向こうから声が聞こえてきた。私は気づかれないように動きを止め、そして息を殺した。この声は……木こりのヨーサとクルだ。
「俺が診療所で目が覚めた時はちょうど養鶏場の夫婦が帰る頃だった。そうしたらロン先生、ホッとした顔をしてそのまま俺の隣のベッドに行ったんだよ。ロン先生の話によればハンも吸血鬼に噛まれた。夜遅くなったから両親には一度帰らせたとか言っていたが……」
「でも昼頃、シュウさんもトーアさんもかなり凹んだ顔していたよな?」
「あぁ、きっとハンに何かあったんだ。」
案の定、私の噂をしていた。あまり内容は聞きたくない……だけど今動いてしまえばここに私がいることがバレてしまう、だからその場を去ることもできずにだた耳を塞いでいた。
しばらく経って木こりの二人が離れていく足音が聞こえた。私は茂みの中から顔を少しだけ出して周りを確認すると先を急いだ。
もう少しで村から出るところだ。何やら声が複数聞こえてきたので私は慎重に進んだ。声が聞こえてきたのは駐在所だった。駐在所の後ろは深い茂みになっている。その先をこっそり進んでいけばバレずに抜けそうだ。それでも私は抜き足、差し足、忍び足……ゆっくり進んでいった。
「ロン先生!ハンが吸血鬼になっちまったって本当か!?」
「まだ確定ではない!」
「ワクチンは確かに打ったんだろ!?どうしてこうなった!」
「だから明日トナトナに連れて行って精密な検査を!」
「でも吸血鬼だったらどうするんだよ!さっさと倒さないと下手したら村全滅だぞ」
「そんときは……俺が対峙する。」
「ハンは村の子供だ!それを殺すっていうのか!?」
「今の時代からいいが俺は吸血鬼のせいで妻を失ったんだぞ!」
「吸血鬼が憎いからって……」
「吸血鬼ならサッサと殺すべきだ!」
「あんたら一回落ち着け!騒ぐでない!」
聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない!そんな余計で邪魔で耳障りな情報ばかりが私の脳に入り込んでくる。今すぐにでも私は走り出したい……だけど今私が飛び出したらどんな言葉を浴びせられるだろうか……想像したくなかった。だから堪えて、堪えてゆっくり、悟られないようにハイハイで進んだ。
駐在所まで十分に距離が離れた。もう時間は日の入り直前だ。僅かな明かりの中、私は立ち上がり走った……走ってナンファン村に続く道をひたすら進む。だけど不思議なくらいに息切れが早く、脇腹が痛くなって走ることができなくなった。結局50mも走っていない。お腹を抑えたまま道をそれ茂みの中に潜り込む……この時間だから誰も通らないとは思うけど念のためだった。
茂みの中に背の高めの木があった。この木は私も知っている。ケイラン村の位置を知らせるために意図的に植えて育ててあるランドマークだ。私はその木を背もたれにして座り、そして体を休めた。太陽はもう完全に沈んでいた……月が異様に大きく、そして眩しく見えた。
荒ぶっていた息が収まった頃、ポトリと何かが落ちるような音が聞こえた。誰かが来たのかと身構えたが誰も来ず、顔を上げてみれば月明かりに反射する物体があった。恐る恐る近づいてみるとそれはナイフだ……ちょうど台所で使うようなナイフが落ちていた。だいぶ使い古されているようで赤い錆がついており、とてもではないが使われているようには見えない……
何となくそのナイフを握った。妙に暖かく感じた。何故ここに寂れたナイフがあるのか?それはわからない、だけど私はこう思った。
「神様は私に死ねと言っているのか……」
道のすぐそばとは言えここにナイフがあるのは不自然だ。だから私はそう思ってしまう……少なくとも駐在所のあの声たちを聞いてしまったらそう思ってしまうのだ。
ナイフを握り、刃先を自らの喉元へ突き抜ける。もう夜だ……夜は吸血鬼の時間だ。だけど私は吸血鬼なんかになりたくない……ただ人間に殺させるだけの存在だ。殺されるのは嫌だ。だから自分で死ぬ……そうしよう、そうしよう、それがいい。
そう私は決め付けて私が死ぬのは誰のせいだろうかと考えたけど……答えが決まらなくて私は目を閉じた。もう考えたくなかった。ナイフを握る手が汗でヌルヌルする……ナイフがすべらないように両手でしっかりと思った。そのままなるべく苦しくないように一気に……自分で自分の喉にナイフを刺した。
不思議だった、死ぬ感覚とは意外にも痛くないのかと思った。ナイフには面白いくらいに手応えがなくゴムの塊にナイフを刺したような感覚だった。ゆっくり目を開けた。ナイフは間違いなく私の喉に刺さっている。なのに私の意識はハッキリしていた。
「まさか……」
慌ててナイフを抜いた。傷口を右手で擦る……確かにパックリと傷は開いている。手を見てみればその血は緑色だった。これはやっぱり人間の血じゃない、私はやっぱり人間では無いようだった。もう一度確認しようとまた右手を傷口に持っていったが……もはやそのに傷口は無かった。
「治ってる……治ってる……」
そんな馬鹿な……私はもう死ぬことすら許されないのだろうか?夕日を浴びても私の体は吸血鬼のように燃えることはなかった。ナイフを喉に指しても人間のように死ぬことはなかった。じゃあ私は……私は一体なんなのだろうか!?
「もう気は済んだかしら?」
もうこのまま泣き喚こうと思ったその時、私の頭上から声が聞こえてきた。上を見上げてみるがそこには大きな木が一本立っているだけで誰もいない。
「よいしょっと」
木の枝がゆさゆさ揺れ始まったかと思うと葉っぱが大量に降ってきた。私は思わず伏せて葉っぱが目に入らないようにする。収まったと思って顔を上げるとそこには……そう、あの時に見た顔だった。
「昨日ぶりね。」
「あなたは確か……」
昨日、私が橋で埋まっているところを助けたあの人だ。そう名前は確か……
「ナナ、どうして貴方がここに……」
彼女は私が出会った時と同じように真っ黒のクロークを羽織り、そしてやたら巨大なリュックサックを背負っていた。