謎の女
私の名前はハン・マオ、このケイランに住んでいる者だ。早速だが朝の擬音はなんだろうか?チュンチュンと答える人が多いかもしれないが私の場合はコケコッコーだ。
ケイラン村は山間に有り古くから林業を中心に発展した村である。だけど私の家は木こりではない、このケイラン村の外れで養鶏場を営んでいるのだ。最も私はまだ十五なので父親と母親の仕事を手伝っているだけだ。鶏は実に素直に卵を産んでくれる。今日も元気に卵を産んでくれた。問題は少し騒がしいことだろうか?私自身は慣れているので特に問題ないのだが私の家に来る客人はいつも耳が疲れるという。父親によるとだからこの養鶏場は村の外れにあるのだ……との事だ。確かに騒がしいかもしれない、だけど私は今日もこのコケコッコー響く鳥小屋で卵を集めているのだ。
「父さん、集まったよ」
籠いっぱいに乗せているのはもちろん鶏の卵、今日はそれなりの量だ。特別多いわけでも特別少ないわけでもない、ただ鶏達はしっかりと仕事を果たしてくれた。お疲れ様です鶏さん、今度は私の仕事だ。この卵を家まで運ぶのだ。少しだが地味に距離がある。
「ハン、少しだけ待ってくれ、餌やりが終わっていない」
「手伝うよ」
卵の入った籠を私は慎重に荷車に乗せた。ここで荒々しく乗せてしまえばせっかくの新鮮卵が割れてしまう。幼い頃はよく割ってしまっていた。だけど私だって成長くらいはする。今じゃあマオ家の重要な働き手だ。そう思うとは私は鼻高々、ランランと歌を口ずさみたくなる。
鶏達に毎日あげているのはお隣にあるナンファン村の小麦だ。父親がもう少し待ってくれと言っただけあって餌はもうほとんど巻き終わっている。雨どいを半分にしたような長いトレイに小麦をパラパラ、小麦が落ちる瞬間に鶏達がついばんでくる。子供の頃はしょっちゅうこの時に指やら腕やら、最悪の時は鼻をつつかれた。そのせいで子供の頃は少し鶏が怖かった。調子こいて手伝おうとした罰だった。その調子だから当時は手伝うと余計に父と母の足を引っ張ってしまったわけである。だけど今は平気だ。目を合わせたり不用意に手を出したりしなければ鶏もつついてこない……それを理解している。
「すまんなハン」
「いいよこれくらい」
返事を返して私は卵の乗った荷車の上に乗る。そして父親は荷車の引手を持つのだ。父親が荷台を引くと私は揺れを感じた。次の私の仕事、それは卵が荷車から落ちないように見守ることだ。だけど私がその仕事をちゃんと努めたのかどうかは少し怪しい……というのも父親は荷車に乗せられた卵を一度たりともひっくり返したことはないのだ。父親は私が生まれるよりずっと前から……母と結婚するより前から養鶏場を営んでいる。鶏の扱いにも卵の扱いにも長けているのだ。だから私がわざわざ荷台の上から卵を見張る必要はない。でも私はこれが仕事だから卵を見張っていた。やっぱり卵は転がることも、かち合ってヒビが入ることもない。だから私ははじめこそ卵を見張っているつもりでも何時しか心が風と一緒に飛んでいってしまうのだ。父親を信じている証拠といえば聞こえはいいが、悪く言えば怠け者だ。
「……おや?」
ちょうど心が飛んでいった頃だ。そのおかげである声を聞いた。声というか悲鳴……女性の悲鳴のようにも聞こえる。父は何事も無いように荷車を動かしていた。まるで気づいていないようだ。父は私とは違って真面目な人だ。仕事に集中しているからこそ声に気づいていない……だけど私に聞こえてきたのは悲鳴だ。これを放置するのはちょっとやばいような気がする。
「父さん、なんか声が聞こえてこなかった?声というか悲鳴が……」
「悲鳴?確かに何か聞こえてきたような気がするが……鳥か何かかと思った」
一応聞こえてはいたようだ。父は鳥だとか言っているがあれは間違いなく人の声だ。悲鳴となっては一時を争うのではないだろうか?そう思えて仕方ない。
「南の川の方からだ。ちょっと見てくる」
私は荷台から飛び降りた。後ろから父の声が聞こえてくるけれども私にはそれはただの小鳥のさえずりにしか聞こえない、聞く耳すら持っていなかった。南の川、そこにはひとつの橋がかけられている。橋といっても今は使われていない物だ。私だって滅多に近づかないし他の住民だってわざわざ立ち寄るようなことはしないだろう。昔はその橋の先をずっと歩くとウーハイと言う漁村があったようだが今は放棄されているとのことだった。このケイラン村は隣の村ということもあってここには元ウーハイの住民も結構いるのだ。最も私が生まれる前の話なのでよく分からない。
川が流れる音が聞こえてきた。この川、川というよりも小川と言ったほうがしっくり来るくらい小さな川だ。深くても水深は1メートルくらいしかない。幅も5メートルあればいいところだろうか?ともかくそんな川に一つ橋がかけられている。そんな橋に着いてみると……見たこともないような光景が広がっていた。
「あ、あのぅ……大丈夫ですか?」
橋から人が生えていた。違う、橋から人が生えてくるわけがない、橋に人が埋まっていた。私より年上と思われる女性、ボブカットにした美しい黒髪にも注目だがそれ以上に目を引くのは顔だった。少なくともここの辺りじゃ見ないようなその顔立ちは外国の人と感じさせる。彼女はウンウン言いながら橋と格闘していた。
「あのう……」
返事がないようなのでもう一度声をかけてみる。するとその女性はこちらをギロりと睨みつけた。つまり察することに……助けろと言っているのだ。脇から下が綺麗に埋まっているのだ。もがいたところで抜け出せるようには見えない。
「い、今助けますからね……」
脇の下あたりを掴んで持ち上げようとする。すると途端にその女性は暴れ始めた。持ち上げて助けるとか言っている場合じゃない、思わず私は1メートル後ずさりしてしまった。
「ああ、ゴメンネ!別に脅かすつもりじゃなかったのよ!ただ脇の下はさすがにくすぐったいわ」
じゃあどう助けたらいいのだろうか?脇から上の部位で掴めそうな場所は……頭?いやいや、そんなところを引っ張ったら頭が抜けて死んでしまうのではないだろうか?やっぱり脇だ、脇以外にありえない。
「だ、だから脇は……ちょっ私そういう所弱いのよ……!タンマ!ちょっとタンマ!」
「少し我慢してくださいって!」
腕どころか首すらグルングルン回して一方的に抵抗を続けている。かと言ってここで助けるのをやめたらそれはそれでクレームの嵐を受けそうだ。私の中の結論はズバリ“決行”このまま強引にでも引っこ抜く!彼女は外国の人にしては軽かったので私でも持ち上げることができた。引っこ抜いた彼女をそのまま地面に寝かせる。服装は少し変わっていた。
真っ黒いクロークを羽織っている。ちらりと見えるその中身は……どこかの学校の制服だろうか?紺のブレザーに地味な色のチェックスカートだった。体重も体重で軽かったが身長も私と同じくらいだ。顔立ちからして西の国の人と思うのにそれにしては小柄だ。
「はぁはぁ、ありがとう……はぁ、全くもう昨日といい今日といい私は木材に嫌われているのかしら?……イテテテテテテ?ん、痛い?イタタタタタタタ!!」
右足を見てみれば血が出ている。脈打つほどの血ではないがタラタラ流れおちる血だった。彼女が埋まっていた穴を覗き込んでみればその先には少し大きめの石が川から顔を出している。落ちたとすれば……ちょうどスネに当たるかな?もしこの見立てがあっている場合、巻き起こる結果は……目の前の彼女を見ればわかっている。彼女に巻き起こったのは悶絶だ。橋から落っこちて石に当たったのだ。
「ハン!やっぱりそこにいたか」
毎日聞いている声が聞こえてきた。父親がこれまたいつもの荷車を引いている。だけどその荷台に卵は乗っていなかった。一旦家に引き返して母に卵を託してきたようだ。となると今は本来昼ごはんの頃合だ。そう考えてみるとお腹がすいてくる。
「父さんこの人怪我している!早く診療所に連れて行かないと!」
「人って……外国人じゃないか!?何でこんなところに」
確かによく考えてみればこんなところに人が、それも外国人がいるのは不思議なことだ。村に来たという話も聞いていない。だけど今は余計な詮索は後回しというところ。
「とにかく荷台に乗せよ!」
「わかった」
父さんが怪我した女性を荷台に乗せ、そして私も荷台に乗った。父さんがいつもより少しだけ早めに荷車を押す。私はその荷台を見守った。いつもは荷台に乗った荷物のことなんか気にしたことがない。だけど今回ばかりは荷台に乗った女性をじっと見守っていた。幸い怪我自体はたいしたことない、だけど本人がとても痛がっているのが気にかかるのだ。この声は消して演技などではない。
そうこうしている間に村唯一の診療所に着いた。いつもより荒々しく感じた荷台から飛び降りると荷車の音を聞いたのか中から初老の老人が出てくる。この村の医師であるロン先生だ。先生は荷台に乗った怪我人を見るなり一言……
「まぁたいしたことはない」
結構あんまりな言葉だった。どれだけ彼女が痛い痛い連呼していようが結局のところ“たいしたことない”とのことだ。一応、念の為に行っておくがロン先生はヤブ医者などではない、私だって何度も何度もロン先生の診察を受けた。多少偏屈かもしれないが腕は確かだ。
「外国の人か?まあそのケガじゃあ骨は折れてはいない、足は曲げられるだろう?」
「痛くて曲げられないわよ!」
「痛いかどうかを聞いているんじゃない、曲げられるかどうかを聞いているんだ」
怪我をした足はプルプルと震えているがゆっくり、ゆっくりであるならば曲げられるようで伸ばしていた足も今は斜め45度程度には曲げられていた。彼女は相変わらず唸っている。怪我をした足を曲げようと思えばなおさら騒がしくなった。流石に耳が痛くなってくる。しばらくはこの悲鳴やらうめき声が脳裏から離れなくなるだろう……
「どこかにぶつけたのだろう?見た感じ単なる打撲、傷口もわざわざ縫うほどじゃないからそう騒ぐな。中で傷口を消毒してやる。ついでに痛め止めも処方するから黙ってくれ、その叫び声でワシが難聴になったらどうする?シュウさん、ちょっと彼女を診療所の中に入れてやってくれ……ハン、君の仕事は駐在所に行くことだ。ホアンさんを呼んできてくれ、変な女がやってきたとな」
ロン先生のお話は以上、短いが的確な事を話して診療所の中に消えた。父は先生に言われた通り女性を抱えて診療所の中に入る。そうなると私のやることはやっぱり……保安官のいる駐在所に行くことだった。
保安官、彼らは国の検定試験や訓練などを受けて町や村の治安維持に務める人である。基本的にどこの村にも一人は駐在している。だけど正直に言ってこの村では必要がないのかもしれない……と言うのもケイラン村は非常に小さい村なので村人全員が顔見知りである。時折、村の木こりたちが切った木材を買うために外部の運び屋や商人が来ることもあるがその人たちもお得意さんなので顔はわかる。トラブルなど起こりえないかなり治安がいい村だ。だからこの村にいる保安官、ホアンさんはいつも暇そうにしている。いつも彼は駐在所でヴァンパイアハンターのチェンさんと一緒にだらだら喋っているのだ。ホアンさんもチェンさんも、基本的にいつも暇だ。働く時といえば村に獣や吸血鬼が入り込んだ時くらい……大体ひと月に5時間働いて暮らしているようなものだ。でも公務員だから居るだけで国から給料がもらえる。ちょっと羨ましい。
そして今日は数ヶ月ぶりに保安官が働くところを拝むことができる。だけど今回は別に獣が入り込んだわけでも吸血鬼が入り込んだわけでもない……人間が入り込んだ。私はなぜホアンさんを呼びに行かなければならないのか分からなかったが冷静に考えてみればロン先生の考えていることが読めてきた。彼女が埋まっていた橋……あの橋は普段使われていない、だから底が抜けたのだ。その橋の先にあるのはウーハイ……今は亡き廃村だ。昔は魚を獲って暮らしていたその村にはもちろん漁港があるだろう……そして今日やってきた女性は外国人、つまり彼女は不法入国者であるかもしれないのだ。だからロン先生はホアンさんを連れてくるように言った。“西の国”から“東の国”にくる手段は陸路、海路、両方使えるがわざわざ廃村を選ぶ必要はない、そう考えるとあの人の胡散臭さが醸し出されてきた。
「もしかすると……かなり厄介事を引っ張ってきちゃったかなぁ」
ホアンさんの所に行くのが嫌になってきた。だけどここまで話が進んでしまっては戻ることはできない……進むしかないようだ。