今日、この日
慣れない手つきでフォンの右腕にワクチンを打つ、フォンとは長い付き合いである私、メイ・サイオウだがフォンにワクチンを打つのはこれが二度目だった。
ちなみに一度目はフォンに出会ったばかりの頃だ。フォンが「もしもの時の為に」と私に注射の仕方を教えてくれた。フォンはもともと医大生だから教わるには打って付けだ。だけど私はあまり器用な方ではないからフォンに教わってもちゃんと注射できるか不安だった。
あの時はフォンに付き添ってもらったから無事に注射できたようなものだが、今回は違うのだ。注射を打つ対象はフォンで変わりないのだがあの時とは違って今回はフォンの意識がない……ただ獣のように唸り声を上げて身震いする。それだけだった。右手首と腰を一緒にして縛っているので大人しいが、もし拘束がなかったらどうなってかと思う。危なっかしい手つきで皮膚に針を差し込んで液を押し込むとフォンの身震いが止まった。上手に出来たのかわからないけれど震えが止まったという事は少なくとも成功の部類なのだろう。
だけどワクチンを打ってもフォンが目覚めることは無かった。打つ場所を間違えたかとヒヤヒヤする。そもそもフォンが自我を忘れるくらいまで放置するという事態が今まで無かった。もしかすると私のミスというよりも手遅れだったということも考えられる。
「だってこれが最後のワクチンだったから……」
ハンとナナがケイラン村に向けて旅立ったその日、早速フォンの様態が悪化した。体が縛られているというのに、それもお構いなしに廃坑の中をゴロゴロ転がってはビタンビタンと跳ねている。口は洗面器のように大きく開けてその中の針のように尖った犬歯を露出させていた。とてもではないが見ていられなかった。
一応ハンはワクチン製造の器具や材料だけでなくワクチンそのものも持ってきてもらう手はずになっている。しかし無駄遣いは厳禁だ。だから最後の一本はできる限りギリギリのラインを狙った。私が思うのに今がそのギリギリのライン、ワクチンの在庫を考えれば早すぎるかもしれないがフォンの体を考えれば限界だ。ラスト一本のワクチン、これが切れる前にあの二人が戻ってくれることを祈る。何事もなければそろそろ戻ってきてもいい頃合だ。大丈夫、きっと大丈夫と自分に言い聞かせる。それでフォンではなく自分に安心感を与えるのだ。
「フォン、起きてよ……流石に起きてくれないと私、寂しいよ……」
まさか死んでしまったということはないだろう。フォンが死ぬことはありえない、あったとしても自我が完全に消えて吸血鬼になるだけだ。
結局フォンが目覚めるまでに三時間あまりの時間を要することになった。昼間の時間帯も夕方の時間帯も過ぎ去り今は月明かりが照らす夜の時間だ。フォンは目覚めたといっても完全に起きたわけではなく、まるで寝ぼけた子供のように寝っ転がったまま、モゴモゴ動いうているのだ。
「フォン?」
フォンはまだ死んじゃいなかった。その事実が私の心を躍らせた。よかった……私の打ったワクチンはちゃんと効いていた。これからは私がワクチンを打つことにしようかな?そうすればフォンにもっと近づくことができるし、もっと彼のことを知ることができる。そうだ、そうしよう!だったら善は急げだ。私は起きだしたフォンのもとに駆け寄る。足取りが半分スキップになっていたのが自分でも笑えてしまった。
「フォン、おはよう……起きて」
寝ぼけているフォンの肩を揺する。このシーンだけ見ているとまるでよくある朝の風景だ。実に微笑ましく思えてしまう。
「ぐるるっ……」
あぁ、もうフォンったら、寝ぼけていて……
「ぐああああ!!」
まだ寝ぼけていて……ああ、縛っていた縄も力尽くで引きちぎっちゃって……
「どこ行くの?」
フォンは今さっき起きだしたばかりだというのにもう立ち上がって外へ向かって走り出す。今まで眠っていたから今度は動きたくなったのだろうか?一緒に出かけたいところだったが私にはそんな体力が残されていなかった。昨日から今日まで一睡もしていないのである。
昨日の夜はもちろん、普段は寝ている時間である昼間も私は起きていた。なぜ起きていたのかというと……アレ、なんで起きていたんだっけ?え~と……そうだ。フォンの体調が良くなかったんだ。それでハンとナナが出かけて行って……
アレ、ハンとナナって誰だっけ?
えっと……どこかで聞いたことがあるはずだ。でも私はこの姿になってからずっと一人だったし、フォンと出会ってからはずっと二人だった。それ以外に親しい人なんて……あ~でも確かに私ともフォンとも親しい関係だったような気がする!
「そうだ!」
ここまで頭をこねくり回してようやく思い出した。ハンは私と同じ半人半鬼でナナは自称ではあるが吸血鬼学者だ。そうだ、何で忘れていたのだろうか?
そうそう確かハンはフォンと私が襲った村の娘で、私たちが村に吸血鬼を放った結果、彼女を私たちと同じ半人半鬼にしたようなものだ。半人半鬼が半人半鬼を生む負の拡散、この事実を知ったときは私もフォンも相当に凹んだ。それに対する罪滅しなのかどうかわからないけど半人半鬼のハンと、それと一緒にくっついてきたナナを私たちの仲間に入れたのだった。
「なんで私、ここまで忘れていたのだろう?」
ここまで事務的に思い返してみて私はようやく思い出した。忘れていた、というよりもそこだけポッカリと穴が空いていたような感覚だ。慣れない徹夜作業で頭がおかしくなったか?あの二人が加わっていこう身の詰まる日々か続いていたというのに私はどうかしていた。そうそう……あの二人が加わってから半人半鬼の負の拡散を知ったり、フォンが吸血鬼軍団を解散させたり、フォンの吸血鬼化が進んでワクチンは底を尽きるし……ん?
「そうだよ……今、フォンを一人にさせたら!」
どうして?どうして、どうして、どうしてどうしてどうして!こんな一番大事なことを一番最後に思い出してしまうのだ!私自身の愚かさを呪いたい!
「メイさん、今戻りましたよ」
グットタイミングなのかバットタイミングなのか、ハンとナナが今戻ってきた。フォンが居なくなったから一緒に探してくれと言った所で言い訳をどうすればいいのか、今から考えなければならない。
「フォンの姿が見えないけど何処に行ったのかしら?」
女の勘って奴は全ての女性に備わっていると私は思うが、ナナの勘はかなり研ぎ澄まされている。時に威圧的な言葉を投げかけるナナだが今回の威圧感は計りの針が振り切れるくらいだ。象が私の背中に被さってきたのかと間違えるくらいに重量感を感じる。
「フォンは……どこかに行ってしまった」
誤魔化すのは不可能だ。事実、フォンはこの廃坑には居ないから嘘をついたところですぐにバレてしまう。それに今の私では嘘を貫き通すことは無理だ。
「確か縄で縛った上にメイさんが見守っていたんですよね!?」
「ちょっと目を離した隙に……」
あぁ、ハンは見た目に違わず子供だ。決して私を疑わずにフォンの事だけを考えている。こんな見え見えの嘘を信じ込んでいるその純粋さが私の心に突き刺さる。あのナナを見てみろ、フォンの事よりも私の方を疑っている。あの女の心の中では『あいつはきっと嘘を付いている』の言葉の羅列で埋め尽くされているに違いない。
「フォンが居なくなったと気づいたのは何時なの?」
ほれ見ろ、彼女の尋問が始まった。
「多分、時間はあんまり立っていないと思う」
嘘は言っていない、これは事実だ。
「吸血鬼の足を考えるとそう遠くには行っていないはずね……」
吸血鬼だって!?フォンは吸血鬼ではない、半人半鬼だし人間だ!勝手にフォンを吸血鬼扱いするな、この女!
「ワ、ワクチンはここにあります!」
ハンが持っていた袋の中からワクチンを取り出す。これはナナが作ったものではなくケイラン村の診療所にあったものだ。紛い物とは違ってちゃんと聞くだろう。
「全員ワクチンを持ちなさい、フォンを確保したらすぐにワクチンを打つこと。この廃坑から飛び出すくらいだから意識は無いと思っていいわ。それにすぐ近くにはサンコの村がある。吸血鬼が好んで入り込むとは思えないけど、もし村に入ったらかなり面倒なことになる」
そんなことは言われなくても分かっている。私は意地でもフォンを助ける……ハンターに退治されてたまるか!フォンの為にも、私の為にも絶対に助ける、それが私の生きている意味だ。




