真夜中の診療所
ケイラン村、この名前を聞くのは本当に久しぶりだ。私はほんの少し前までここに住んでいた。ここで起きて、ここで両親の手伝いをし、ここで食事をして、ここで眠っていた。
それなのに私はこの村を出た。いつかはこの村を出る時が来るとは思っていたが、まさかこんなに早く来るとは思っていなかった。
「付きましたね」
ケイラン村の位置を知らせる高い木の根元、この場所まで私は帰ってきた。時刻は既に夕暮れ、朝起きてから今までずっと歩き続けていた。既に足の筋肉は疲れ果てて筋肉痛となっている。
ナナは愛用のリュックサックを下ろすとこの村の入口付近に生えている巨大な木によじ登った。この木はそう、私が村を出た直後、ナナと出会った場所だ。思えばこの木の下から物語は始まった。ナナは気に登ったが高所恐怖症である私はもちろん気に登ったりしない、ナナも登って来いとは言わなかった。事前の偵察はナナに任せることにしている。
「今回は吸血鬼軍団の陽動ができない、だから今回は村が寝静まった頃にこっそり潜入よ」
夜中に潜入……これ自体は全く自然で当然の作戦だ。だけど私はこのケイラン村の住人だった者、本来だったら堂々と村に入ってただいまと言いたいところなのだ。だけど私はもうこの村には関係ない存在だ。事実それを象徴するかのように夕暮れに浮かぶケイラン村の建物たちは私を押し返そうと圧力をかけている。私の故郷はこの数日でただの他所の村になっていた。
「自分の故郷に思いを馳せるのもいいけど、とにかく今は食べなさい」
頭上から声が聞こえてきてポトリと薄ピンクの巾着袋が落ちてきた。中身は真っ赤なリンゴだ。巾着袋の大きさから考えてもう一個入っていたのだろう、頭の上でシャリシャリとリンゴを齧る音が虫の声に紛れて聞こえてきた。
フォンの事を考えるならここで休んでいるわけにはいかない、だけど時間を考えてみれば今は仕事帰りの人が多い時間だ。もし今、村に入ろうものなら私は多くの住民に見られることだろう。きっと「心配したぞ」とか「おかえり」とかの優しい声が聞ける。だけどそれらは多分、表向きな感情だ。きっと裏では私のことを恐れていたり気持ち悪がったりしている。半人半鬼の事例を聞いてみたらこんなのは予想できる。
「おいしい……」
リンゴは思っていたよりも甘かったが、ちょっと固かった所が気になった。もう少し熟すまで食べるのを待ったほうが良かっただろうか?だけど十分に美味しかった。
「忍び込む場所は2つ、診療所と養鶏場ね」
診療所には顕微鏡やら消毒液やらを取りに行く、一方の養鶏場……私の実家だがここには卵と鶏を取りに行くのだ。常識的に考えて必要な機材に詳しいナナが診療所、内部構造をよく知っている私が養鶏場と行くべきだろう。
「じゃあ私が……」
「ハン、あなたは診療所を頼むわ」
言い出す前にナナが口を開いていた。別に喋ること自体は問題ない、問題なのはその内容だ。彼女は私が思っていた事とはまるで正反対のことを口にしていた。
「え、ちょっと……え?」
ナナが意図して私と合わせたのかどうかはわからない、だけど彼女は他人の心を見透かしているような時がある事だ。恐らく今回もきっと、私の心を見透かしてのことだったのかもしれない。
「だからハンは診療所を頼むって言っているでしょ?私は養鶏場に行くわ」
表情一つ変えずにナナは私に診療所に行くように重ねて伝えた。
「養鶏場は私の実家です、だから内部構造は世界の誰よりも知っている!だから……」
「だからよ」
キッパリ、そしてズッパリだ。見事に私の言葉は遮られた。
「あなたは自分の立場を弁えなさい、家出したとは言えあの養鶏場は実家なのでしょう?自分の家に盗みに行くようにあなたを育てた覚えはないわ」
ナナに育てられた覚えもない、心からそう突っ込みたかった。だけどナナの目つきは真剣そのもので私に突っ込む隙を与えさせてくれない。
「ともかく、必要な物はこのメモに書いてあるからこれと同じものを持ってくるのよ」
メモを渡された……渡されたというよりも押し付けられた。渡すその手がやたらと強かったのだ。それにしてもメモか……このメモは今さっき書いたものではなく、事前に用意していたものだ。メモの内容はとても鮮明で名前の他にも絵まで用意してあった。ナナはああ見えて絵がうまいらしい、意外だった。
「分かりましたよ、分かりましたから……私はロン先生の診療所に向かいます」
ご丁寧なことにメモまで用意されてしまっては従うしかない、一体このメモを書くのにどれくらい時間がかかったのやら……私の知らないところでコソコソと絵を描くのに徹するナナを想像すると少しおかしくなってしまう。
「素直な子は好きよ、それじゃあ合流地点はここの木の根元、いいわね」
それだけを言うとナナはリュックサックも背負わずに出発した。流石に忍び込むのにあのリュックは邪魔のようだ。
ここからは別行動、完全に一人だ。お母さんからお使いを頼まれてこの村を一人で歩いたことはある。だけどこんな真夜中に村を歩くのは初めてだ。日はもうすっかり暮れている。村に点在する家、そこに取り付けられている窓もすべてカーテンや簾が下ろされており、そこから僅かに覗かせる中も暗いのだ。
「ふぁ……」
村の人々は既に眠っている。村の皆が眠っているということはハンにとっても本来は眠っている時間である。ましてやケイラン村までロクに眠らずにやってきた。本来ならいつもの二倍の睡眠時間を所望したいくらいだ。だけど眠っている場合ではない、フォンの様態は一刻を争うのだ。
診療所も当然、灯りは点っていなかった。ロン先生はあのゴチャゴチャした休憩室で眠っていることだろう。ロン先生の事だ、熟睡はありえない、眠っているとしても仮眠だ。だからちょっと音を立てただけでロン先生が起きだしてしまうかもしれない。
「おじゃましま~す……」
おじゃましますと言っている割には誰にも聞こえないような小声だった。扉を指先だけで1ミリずつ確認するように開けていく、木材の擦れる音が耳を貫くたびに背中から汗がにじみ出てきた。汗は蒸発して私の体を凍えさせる。
私のお腹が通るギリギリの隙間を開けて、そこに滑り込むように診療所に入り込んだ。ロン先生の診療所は鍵をかけていない、患者がいつ来てもいいようにとの事だが忍び込むには最高の条件だった。
「えっと……」
つま先立ちの状態でナナの書いたメモを見てみる。顕微鏡……机の上のあれだ。シャーレ、顕微鏡の脇にあった。消毒液……棚のあの瓶だ。メモに書いてあるものを探っては持ってきた麻袋に入れていく、恐ろしい程に順調そのものだった。最後にワクチンを戸棚から十本程いただく、ナナがワクチンを作成するまでの繋ぎだ。これで必要なものすべてが揃った。
吸血鬼達がいればここまで心臓に悪い潜入なんてしなくてもいいのだ。吸血鬼が出歩いていていると人は外に出ることはないし、仮にどこかに突撃するにしても吸血鬼による力任せでねじ伏せられるからだ。だけどもう吸血鬼はいない、それにこの村は私のことをよく知っている。いくら姿が変わったとは言え、その変わったあとの姿をロン先生は見てしまっている。ロン先生を起こさないようにそっとだ。机の上のものを撮る時も戸棚を開ける時もゆっくり、慎重に、そして音を立てないようにする。緊張状態が続いたせいか息をすることさえ忘れていた。
「……よし」
蟻のような声を出し、そして指先だけでガッツポーズをとった。メモに書いてある物は全て麻袋に詰め込んだ。あとは村から脱出するだけ、故郷から脱出するなんて少しおかしいかもしれないがもうこの村にはいられないのだ。
「さようなら」
だからポツリとそう言った。最もこの言葉も誰にも聞こえないようにそっと静かな言葉、当然の事だが返事をしてくれる人はいない。
ともかく診療所の用事は済んだ。ナナのメモのおかげで迅速対応だ。私はこの手の器具についてはよく分からないがそれでも事が早く済んだのは純粋にナナの下準備のおかげと言える。
私は来た時と同じようにつま先立ちで出来る限り、静かに出口に向かう、扉は開けっ放しだ。なるべく音を立てたくなかった私は無意識に扉を閉めることをしなかったためだ。普段だったら心底だらし無い行為かもしれないが、迅速に脱出できると考えれば無意識になったとは言え自分を褒め称えたい。とにかく、後はあの扉から外に出るだけだ。
「あっ……」
前言撤回だ。自分を褒め称えるなんてナシ、自分自身で侮辱しよう。なぜなら私は今、盛大なミスをしたからだ。具体的にどういうミスなのかというと、簡単に言えば医薬品の乗っているワゴンの車輪に足を引っ掛けて見事に転んだ。転んだのは私だけではない、ワゴンもガシャンガシャンと音を立てて転んだ。
「やば……」
この音はまずい、ロン先生が起きだしてしまう事だろう。暗いから周りがよく見えなかった……だから足を引っ掛けてしまったわけだが、事が起こってしまっては言い訳にしかならない。
だけど幸いなのはもう診療所の用事が終わったことだ。長居は無用、あんだけ大きな音を立ててしまえば些細な音などもう気にならない、全力の大疾走だ。来た時とは逆にドタドタ足音を立て、半開きの扉を体当たりで開ける。別に何も考えることはない、今はただ全力で逃げるだけだ。
診療所から飛び出したら最短距離で村を出る。もちろん、正規の出入り口ではなく藪の中だ。ひとまず人目につかないところに駆け込んでぐるりと回り込むように集合場所の木の下に向かう、飛び出した時はアレだけ音を立てたというのに今では忍び込む時と同じく抜き足差し足だ。足音だけは立てないようにしているが息はゼエゼエと音を立てている。足音殺して息殺さずだった。体力が続かない半人半鬼の体質はこんな時に不便である。
茂みの中を北に向かって歩いてしばらく、集合場所である巨木のしたに辿り着いた。ナナの姿は見えず、代わりに彼女愛用のリュックサックが置いてある。
「まだ来ていないか……」
忍び込む時、ナナはここでリュックサックを下ろした。忍び込むのにあの大きなリュックサックは邪魔だったからだ。この木は村の位置を知らせるランドマークとなっているが、その割に道から少し外れた茂みの中にあるので根元は目立たない。ましてや今の時刻は深夜、こんなところに荷物を放置しても盗まれるようなことはなかった。リュックサックは無事である。
「持ち主も無事だといいけど……」
私の実家である養鶏場は村の一番奥にある。これは鶏の鳴き声が近所迷惑になるからだ。だから忍び込むにも帰ってくるのにも時間がかかる。果たしてナナは無事なのだろうか?




