棄てられ村
吸血鬼、二年くらい前まではその言葉を聞いただけで震え上がったものである。と言っても私はその吸血鬼を研究する立場だったのでそこまで恐怖していたわけではない、むしろ興味津々だった。だから私は”西の国”で吸血鬼の研究をする大学にわざわざ入学してその手の先生についたのだ。だから吸血鬼の知識は一通りある。
吸血鬼はそもそも目に見えないほどの小さな寄生虫である。体内に入り込んだその虫は急速に繁殖し宿主の脳に侵入、体を完全に乗っ取ってしまう。肉も魚も野菜も好き嫌いせず食べるし食糧難の時は土の養分も食べる。繁殖手段は新しい宿主を得ること、具体的には宿主に他の生物に向かって噛み付きを行いその傷口から仲間を送り出すことだ。……一通り述べてみたが一言言えること、それは非常に面倒な生物ということだ。ネズミだろうが犬だろうが……そして人間だろうが宿主になり得る。人間がなったときは最悪だ。その人間を殺さなければいけなくなる。幸いなのは熱にめっぽう弱い事、太陽光ですら長時間あたっていたら宿主ごと溶けてしまう。
二年前、この面倒くさい吸血鬼が本当に面倒くさいことになった。”西の国”で人間の吸血鬼が増えたのだ。知恵のある動物に寄生したほうが効率いいと判断したのだろう……とにかく人間の吸血鬼が増えた。先生も私も働きずくめだった。しかし大規模な吸血鬼の駆除が行われたためこれは収まった。
それ以降時代は本当に変わった。
吸血鬼に対する武器ができて普及した。
吸血鬼に対するワクチンができた。
吸血鬼は人間を恐れるようになった。
吸血鬼は人里に現れることはなくなった。
たまに迷い込んだ人間が吸血鬼になって……
たまに迷い込んだ吸血鬼が人間に殺された……
人間様様だ。この世界、食物連鎖という概念の頂点はやはり人間なのである。しかし私は吸血鬼を研究する傍ら、吸血鬼のことが気の毒に思えてしまった。吸血鬼によって人間にどれほどの被害が出たのかは分かっている。数字でも見たし現場でも見た。だけど吸血鬼もまたこの世に生まれ落ちた生命である。それにあの人の存在が……いや、とにかく私はある日、“吸血鬼側”に加担してしまった。別に後悔はしていない……だけどその件によって西の国からは完全に“お尋ね者”扱いであり今はこうして船に乗って国外逃亡の身なのである。しかも深夜にコッソリとだ。
「ナナ、そろそろ着くぞ!」
私を呼ぶ声がした。その声を聞いて私は体が隠れてしまうほどのリュックサックを背負い肩を揺らした。特に重くはないが船頭さんがそれを見て目を丸くした。
「港につけるのは一瞬でいいわ」
これから向かうのは“東の国”である。当然“西の国”のお尋ね者である私が国境を渡ることを許されるはずがない、だからこれは不法入国だ。だから目立たないような廃村を選んで目立たないように上陸するのだ。
やがて船は陸地を捉える。そして見えるのは小さな村の影だ。最もその村にあるはずの建物は全て朽ち果てておりこれから乗り付けるはずの港も同様朽ち果てていた。船は静止し不気味な桟橋が闇の中、目の前に現れる。
「じゃあね、私は……まあ何となく生きていくわよ」
「おうよ……元気でな」
人生の分岐点がこの一歩になることは間違いない……だから何時もよりも強めにその一歩を踏み出した。ギシギシと音を立てる桟橋は本当に弱ったらしくて頼りない……このまま穴があいてしまうのではないかと怖くなった。とにかくこの桟橋はひどい有様で弱々しいばかりか海特有のあの潮の匂い……それの嫌な部分だけを凝縮させて詰め込んでいるのかと思うくらいひどい匂いである。私はたちまち鼻をつまんで桟橋が予想よりも短いことを祈るばかりであった。
桟橋を抜けてジャリジャリとした陸地に立ったことで私は一安心だ。摘んでいた鼻を放してスウと深呼吸、溜まっていた二酸化炭素を吐き出して酸素を供給させようと思ったらまたあの匂いだ。先ほどより幾分かマシになったとは言え匂いは止まっていない。私は振り返って桟橋に向かってガンを飛ばしたのだ。しかし嫌な潮の匂いは桟橋だけが原因とは思えない……鼻を360度ぐるりと一周してみれば廃村全体が匂いで包まれていたのだった。
「冗談じゃないわ」
この村はかつて小さな漁村だった。小さいだけあって漁獲量もそれなり……稼ぎがある村ではなかったらしい。私が生まれるよりも十年以上前の事、大嵐がこの辺りを襲い村は海水に浸った。漁業に深刻なダメージ、そればかりか海水の浸った土壌は農業にも深刻な被害を被った。何より大勢の犠牲者が出た。“東の国”の政府はこの村を復興するのではなく廃棄することを選んだとのことだ。
「とにかくもう眠いわ、泊まれそうなところ、泊まれそうなところ……」
いくらここが廃村だとしても元は村だったという事実は変わらない、三十年近く放置されていようが建物くらいは残っているはずだ。だから建物……だったものはいくらでもある。
流石に三十年の放置期間は痛くつくようだ。この家は泊まれそうかと思ったが壁がない、この家は泊まれそうと思ったが今度は屋根がない……壁がないより最悪だ。その隣の家は……柱すら無くまるで巨大なプレス機にかけられたようにペシャンコだった。ここまで酷いともうこの村には泊まらないという選択肢はどうだろうか?
「ナイナイナイナイそんなの絶対にナイ!」
私は疲れているのだ!ここから近い町は地図を見ればケイラン村、歩いたら半日はかかる。私はさっきまで狭っまい船の中でコンテナと同様折りたたまれて身を潜めていたのだ。足腰痛いこの中歩くなんてゴメン中のゴメンだ。意地でもこの村で一泊してやる……もっとも宿泊場所があればの話だが。一応野宿も考慮してテントは用意してある。だけど村の中でテント広げて野宿だなんて間抜けな姿を晒したくない。いくらここが人のいない廃村だとしてもだ。
「ここなら……まあマシか」
村の中で壊れていない建物を見つけた。といっても原型を留めているというだけで壁からは風が貫通してくるし天井を見上げれば星が見える。今は天気がいいから星空が見える中でグッスリというロマンチックな表現ができるが眠っている間に雨が降ってはびしょ濡れだ。雨が降らないとしてもこの埃っぽく潮っぽく、そしてドブネズミっぽい匂いはどうあがいても誤魔化せそうにない。もしかするともっと村の中を回れば綺麗な家が見つかるかもしれない……しかし今の私にはそれを実行するだけの体力は残されていないのだった。
人生諦めが肝心と聞いたことがある。今がその諦めの時なのだろうと私は背負っていたリュックサックを小汚い床におろした。すると床はメリメリバキバキ言いながら沈んでいくではないか、綺麗さっぱり穴が空いてリュックサックは半分ほど陥没した。ため息しか出ない。
「あぁ、もうこの為に新調したリュックサックがぁ!」
床下で何かの足音が聞こえた。もしかしなくても鼠である。リュックサックが落下した衝撃で驚き逃げ出したのだ。そんな鼠の住処に堂々と土足で上がり込んだ(正確には沈み込んだ)のは私のリュックサック……半分から下は見事に泥に浸っていた。
「お前は!このお前は桟橋ちゃんよりも弱ったらしいのか!」
何て穴のあいた床の板っぱしに怒鳴り散らしたところで何も始まらない、穴からリュックサックを大根の要領で引っこ抜く……案の定、下から半分は泥まみれだ。バッサバサ布地を叩く、今度はサッサササ泥を落とす。バッサバサ、サッサササ、バサバササササ、ババババササササ……泥は落とせても染みと匂いはどうしようもなかった。染みと匂いは諦めて足ふみを強めでダダダンダン、床の強度を確かめてリュックサックを優しく置くと……今度は床が抜けることなく置くことができた。
「さてと、いい加減に寝ますかね」
“バキリ”……あぁ、腰を下ろした途端にこの嫌な音だ。何の音かって言ったらそりゃあもう……私の真下の床が割れた音である。今度は私のお尻が泥の中だ。体がくの字に曲がって穴にハマっている……それはそれは滑稽なこと!心の中では一刻も早くこの滑稽な姿から脱却したいところだが……その心の中の更に内側では「もうメンドくさい」とも思っている。だから暫くこの間抜けな体制を維持、下着まで泥にビッちょりになろうと泥沼様の気が済むまで濡らしてやろうじゃないか……
「はぁ……」
だけどため息が出るのであった。そしてそのまま何も考えられなくなる。一体になんで私はこんな目に遭わなきゃならないのだろうか?天罰だろうか?もしそうなのであれば喜んで引き受けるところだ。しかしよくよく考えてみれば天罰がこんなにも馬鹿ったらしいわけがない。天罰っていうのはもっとこう……うまく表現できないがもっと真面目な罰な感じじゃないのだろうか?嫌、まてよ……それだったら単なる罰と変わりがないではないか?
「はぁ……」
またため息が出るのである。思っていたことが飛躍しておかしな方向に行ってしまった。私は決して哲学者ではない、元ではあるが吸血鬼学者なのだ。ここは反省反省と自分の頬をビンタして気を覚まさせる。それでは何も考えずにこのまま無心になろうとしよう…………ぐぅ
「っておぅぅぅぅい!」
おいおいおいおいおいおいおいおい!危うく眠りそうになってしまったではないか!こんな間抜けな格好で眠ってしまっては本当に間抜けではないか!抜けて出してやる……こうなったらこの穴から抜け出してやる。確かに疲れているから眠気が来るのは仕方ないとしてこの奇妙な体制で眠ったら起きた時に関節痛に悩まされるのは目に見えている。明日動くために今は休むのだ。休んだ結果動けなくなるのは勘弁願いたい。
「よいしょっと」
くの字に曲がった体制が体制だ。穴から引っこ抜くには多少の工夫と多少のちからが必要だった。肘から指先をぴったりと床にくっつけてそのまま腕を伸ばす……ゆっくりゆっくり体が浮いて……どうにかこうにか脱出した。そのままゴロゴロ床に転がって部屋の隅……転がったあとにはナメクジの通ったあとのように濡れていた。
「厄日よ厄日!こんな国外逃亡生活初日からして厄日だよ!」
天井を見上げる……それと同時に星空を見上げた。なんとまあ不思議な風景だこと!当然これは皮肉である。
「寝よ……」
服の全てがぐちゃぐちゃだ。髪の毛が濡れなかったのは本当に良かったと思う……それだけは女として……守れたことは誇りだ。もう体の内側から悪臭が立ち込めてくる。着替えるべきかと思うが……それ以前に耐え切れない眠気が襲ってきた。良くもまあこの匂いの中、そして壁やら天井から容赦なくぶつかってくる風の中眠れるものだと自分で感心しながら私は眠りにつくのだ。さてさて明日からさらなる波乱の日々だ。




