君は突然理解する
七月となり、一気に暑い日が増えた。
気温はとうに三十度を突破し、太陽の下で皮膚はじりじりと焼かれ、ただじっとしているだけでも汗が噴き出すようになった。そんな夏場の剣道は過酷だ。
まず、裸でも暑いのに、あの厚手の道着を着込み、重い防具を付ける必要がある。道場は風通しが悪く、防具の下では滝のように汗が流れていた。そして、自分でも自覚が出来るくらい臭い。臭いは自覚出来始めたら相当だと聞いた事があるが、全く剣道と関わりのない人からすれば今の俺はどのくらい臭いのだろう、と怖いもの見たさのような興味がある。
「あー………死ぬ」
枯れ果てた声で同じ剣道部員の田村が呟いた。休憩時間で防具を外すと、解放感が尋常じゃない。
「夏が来る度に思うわ。絶対辞めてやるって」
「おまえそれ、冬にも言ってたりしないか?」
「言ってる。その癖辞めてないんだよなー、何でだろうなー」
その気持ちは非常によく分かる。見た目以上に過酷なスポーツで、もう限界だと思った事もあるが、何だかんだ自ら望んで続けている。最近では謎の中毒性を感じるほどだ。
「俺も帰宅部みたいにさっさと帰って彼女とデートしたいわ」
「え、田村、彼女出来たのか?」
「出来てねーよ!ただの夢だよ!ままならない現実への不満を日々竹刀に込めて振ってますが何か!?」
俺はどうやら地雷を踏み抜いたらしい。隣に並んで床に座っていたのだが、思いきり膝を叩かれた。田村は容姿も悪くないし、性格は明るく気さくで彼女もすぐに出来そうだが、どうも縁がないらしい。
「かぁーっ!これだから彼女持ちの余裕は!」
「いや、俺も彼女いないからな?」
「あーあー、そうでしたねぇーっ!幼馴染とかマジで爆発しろ」
どうやら田村は何か誤解をしているらしい。何しろ俺は司の事をずっと男だと思い、そのつもりで小学校卒業まで接して来た。高校に入学してからはその心こそ女性なのかもしれない、と今思えばとんでもない勘違いをしていたのだが、それでももちろん、ずっと友達を続けて来た司に対し、邪な感情を抱く訳がない。
ふと、田村の目から見て、司はどういう女の子に見えるのだろう、と疑問が浮かんだ。俺や潤の視点ではどうしても幼いころからの記憶やイメージが先入観を作ってしまう。
「幼馴染、司っていうんだけどさ」
「あん?」
「司ってどんな風に見える?」
俺の突然の質問に、田村は不可解そうな顔をしたものの素直に答えてくれた。
「どんなって………地味だけどまあ可愛いんじゃねえの?すげえ細くて華奢だよな。胸は無さそうだけど。結構人見知りっぽい」
「…………男っぽいなあ、って思うところあるか?」
可愛い、という単語が出て来た辺り、やはり問題無く田村の目から見て司は女の子に見えるのだろう。俺の更なる質問に、田村はますます怪訝な顔をする。
「ボーイッシュかって事か?髪は短いけど、言うほどでもなくね?顔が女だし、手足も男とは骨格とか肉の付き方が違うしな。男っぽいって思う事はまずないだろ」
言われてみれば納得する事ばかりで、俺は思わず相槌も打てなかった。司は細い。細すぎてあまり女性らしい丸みはない。しかし、男みたいに筋張っていたり筋肉がある訳でも無かった。
改めて思い返せば、本当にもう、俺はどうして司を男だと信じて疑わなかったのか。今となっては自分で自分が信じられない。少し考えて、疑問にくらい思うべきだった。ましてや、女子制服を纏っているのだ。早々に真実に行きついたとしても不思議はないだろう。
思った以上の自分の馬鹿さに、静かに項垂れる。
そうこうしている内に休憩が終わり、田村が立ち上がった。
「まあ、俺は上原の幼馴染より、もうちょっと胸がある方が好みだわ。という訳で、おまえの幼馴染の友達紹介して。背高くて胸が大きい子」
「佐々岡さんか?」
田村の上げた特徴で連想したというよりは、俺は未だに司の友達は佐々岡さんしか知らない。
「あの子なら彼氏いるけど」
「ちっくしょー!そんなこったろーと思ったよ!!」
その後の田村の部活に取り組む姿勢には、鬼気迫るものがあった。
司と並んで通学路を歩く。部活が終わって下駄箱へ向かえば、司が待ってくれていたのだ。用事があって残ってたから、と司は言っていたが、夏の大会前で普段以上に部活の終了時間は遅い。薄暗くなる時間まで何の用事があったのかと問えば、目が泳いでいたので、もしかしたら俺の部活が終わるのを待ってくれていたのかもしれない。
「お疲れ様、将人くん。最近、部活も大変そうだね」
「まあ、もう慣れたよ」
隣を歩く司がそっか、と呟いて微笑む。こうして並んで歩く事をひどく懐かしく感じた。司を女の子だと理解して以来、戸惑いが勝ってしまった俺はいまいち司への接し方を掴めなくなってしまっていた。なるべく潤や佐々岡さんと四人で行動し、司と二人きりにはならないように気を付けていたのだ。今も正直、言いようのない気まずさがある。司もそれを感じ取ったのか、あまり積極的に話しかけようとはしなかった。
ちらり、しばらく見ないようにしていた司を、さり気なく観察してみる。丸みのある頬には幼さが残り、目の形も丸い。鼻はそれほど高くはなく、唇は薄い。最近では髪が伸びて、ますます女の子らしくなった。背は高めだが、ほっそりとしていて頼りなかった。
指先に視線をやったところで、左手の人差し指に絆創膏をしている事に気付く。
「司、それ」
「え?ああ、これ。昨日夕飯の手伝いをしたときに切ってしまったんだよ」
「ああ、なるほど。司は不器用だからな」
司は左手を目線まで持ち上げ、拗ねたように唇を尖らせる。
「これでも頑張っているんだ。その内、美味しい手料理を作れるようになるだろう」
「司が?」
思わず少し笑ってしまう。司は小学校の調理実習でさえ、まるで使い物にならなかった。何をさせても失敗続きで、そんな司が家で料理をする、という姿が想像付かない。懐かしさと、違和感が可笑しくて、俺は思わず絆創膏の貼られた司の左手を掴んだ。
「絆創膏が増えるんじゃないか」
「甘いな、将人くんよ。すでに絆創膏は二箱ほど買い足してある」
何故か司は妙に自信満々にそう言った。手を切る事が前提なのか。本当に大丈夫なのかと心配する気持ちもあって、再度掴んだ司の左手に意識を向ける。
そのとき、気付いてしまった。手の感触が違う。竹刀を握って固くなった俺の手のひらや指とは違い、柔らかかった。そして、手自体がすごく細くて小さい。おそらく、同じ身長の潤よりもまだ小さいのではないだろうか。このまま手を握れば軟体動物のように、ぐにゃりと潰れてしまうのではないかと心配になった。
女の子の手だった。柔らかくて頼りない、その手が無性に性別を意識させて、俺は咄嗟にその手を離した。
「わ、悪い。急に掴んで」
「どうして?」
司が不思議そうに首を傾げる。
「久しぶりに手を繋いだみたいで、嬉しかったよ」
そう口にして俺を見上げ、司はほんの少し恥ずかしそうに笑った。はにかむような、わずかな緊張を滲ませる柔らかな笑顔。目を細めて、笑うその控え目な笑顔が妙に女の子らしくて、心臓を内側から叩かれたような気持ちになった。
俺は、こんな女の子を知らない。
動揺を必死に押し込める事しか出来なくなってしまった俺に、司は――――彼女は不思議そうに首を傾げた。
読んで頂きありがとうございます。
田村くんはがっつき過ぎてモテません。あと正直過ぎてモテません。