君は激しく動揺する
いや、冷静になろう。冷静になった。
まさか新生児室のネームプレートに間違った記載などされてはいないだろう。万が一間違ったとしても、おむつを換えたり、その間違いに気付く機会はけして少なくないだろうし、間違いに気付けばすぐに訂正されると思う。つまり、司はきっと、おそらく、たぶん女の子なのだ。生まれたときから、女の子なのだ。
それに気付いたとき、俺を襲ったのは猛烈な羞恥心と罪悪感だった。まず、司を男だと思い込んでいた自分の鈍さと思い込みの激しさが恥ずかしくて堪らなかった。俺は馬鹿か。男だと思うからこそ普段から平然と触れて、当たり前みたいに司の事を甘やかしていた。女の子だと分かっていれば、もう少し接し方も気を付けていたのに。小学生の頃、司が服にジュースを零したからと無理矢理脱がせた事もある。どうして司は全力で拒否しなかったのか!と頭を抱えたくなった。よくよく考えれば、司が五月六月と続けて腹痛を訴えていたのはもしかしてせー……いやいやいやいやいや!考えるのはやめよう!これはきっと、冷静に考えてはいけない部分だ!
そして、一頻り湧き上がる過去の記憶に伴う羞恥心と戦い、ある程度落ち着いた頃に今度は罪悪感が襲ってくる。司が生まれたときから女だと知ってこれほど動揺するという事は、俺は口では性同一性障害でも司は司だからと、それならば女性として受け入れようと鷹揚な事を考えていながら、その本心では男として接していたのだろう。辛かっただろう、と同情を示しながら俺こそが誰よりも司を男扱いしていたのだ。
そんな自分の人間の小ささに、司に対する思いやりの無さに、俺は自分に対して失望もした。
「将人くん、今日は……あれ?将人くん、どうしたんだい?将人くん?」
そんな羞恥心と罪悪感がない交ぜになって、俺は司の目を真っ直ぐに見られなくなってしまった。昼休みに共に昼食を囲む司は、こちらを見上げながら俺の反応が芳しくない事に気付いたのだろう、不思議そうに首を傾げた。
「い、いや、何でもない。どうしたんだ?」
昨日は、例の写真を見てすぐに慌てて帰宅した。もう帰ってしまうのかい?と残念そうに言ってくれる司とほとんど言葉を交わす事も無く手島家を飛び出したのだ。
「今日は用事があって、少し学校に残るんだ。将人くんの部活が終わるのを待っていてもいいかい?」
「え!」
俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。普段の俺ならば、待たせるかもしれないけどいいのか、と聞いて一緒に帰る約束をしただろう。しかし今、新たな真実を知った俺は司と共にいる事にかつてないほどの気まずさと居心地の悪さを感じている。その状態で司と共に帰宅するのは、ある種の拷問のように思えた。
「あ、あー……いや、今日は部活の後、田村と用事があって…」
「むう、それなら仕方ない」
「じゃあ司、私も一緒に残るよ。暇だし」
「じゃあ司、僕も一緒に残るよ。暇だし」
佐々岡さんに続いて、潤が一人称以外全く同じ発言をすると、佐々岡さんはむっと顔を顰めて、真似すんな、と嫌そうに口にする。潤はそれに構わず、むしろ妙に楽しそうににこにこと笑って彼女の抗議を聞き流していた。
俺はいつもの四人で食事をしながら、さり気なく潤へ視線を向ける。潤は俺に『司は生まれたときから女だからね』と言っていた。つまり潤は、司が普通の女の子だと知っており、俺の勘違いも理解して、その上で俺の誤解を解こうとはしてくれなかったのだ。
勘違いをしていた原因はもちろん俺の思い込みやすさだが、どうしても、何故教えてくれなかったのか、という潤への恨み節も浮かんでくる。
「将人くん、次はきっと私と帰ってくれたまえよ。………将人くん?」
司の言葉が耳に入って来ず、ぼうと佐々岡さんをからかう潤と、そんな潤に怒る佐々岡さんを眺めていれば、司が不意に俺の腕に触れた。驚いて、反射的にその手を振り払う。司の目がまん丸に見開かれ、その手は所在なさげに宙に浮いていた。
「あ………。ごめん、ちょっとびっくりして」
「………………僕こそ、急にごめん」
司は目を見開いたまま、どこか呆然とした様子でそう呟く。司は触れようとした手を自身の胸の前まで戻し、反対の手でその手を撫でた。
「嫌だなあ、空き教室に二人きりとか。僕、告白でもされるの?」
放課後、部活が始まる前に嫌がるフリをする潤を無理矢理連れて、一年の教室がある四階から一階の隅にある、人気のない空き教室まで移動した。潤がヘラヘラと笑いながら、深刻な顔をしているだろう俺を茶化す。
「ごめんね、将人。僕には澄香ちゃんがいるからさ」
「今そういうのは良いから」
素気無く受け流したが、潤は笑ったまま俺の心を読んだ。
「司の話?」
「な、何で……」
「そりゃあ分かるよ。明らかに今日一日、司に対する態度が変だったからね」
ほとんど使われる事がないからか、埃を被っている椅子に構わず腰掛け、潤は俺を見上げた。潤の元々察しの良い性格をよく理解しているからか、まるで何もかも見透かされているようだと思った。
「…………おまえ、知ってただろ」
「何が?」
「……………………。……………司の、その……性別」
すると、珍しく潤は目を見開き、素直な驚きを示した。基本的に悪ふざけはするものの、結構冷静な性格をしている潤には貴重な反応だった。
「すごいね。自分で気付いたんだ」
「いや、何で教えてくれなかったんだよ!」
思わず少し責める調子で言ってしまえば、潤は呆れたような顔をした。俺を見上げながら、淡々と口にする。
「いや、言ったし。ただ余りにも思いこんでたから、無理矢理その認識を改めさせれば動揺して気まずい事になるだろうな、と思って途中から諦めた」
潤の考察通りの現状に、それ以上何の不満も伝える事が出来なくなってしまった。
「僕だってさ、訂正した方が良いと思ってその機会を窺ってたんだよ。なるべく穏便に気付いて欲しいと思って、司と二人きりの機会を増やしたり、司の服を買うのに一緒に行こうって誘ったり。全く気付かなかったみたいだけど」
「…………何かすまん」
俺が思っていた以上に潤は気を回してくれていたようで、思わず謝罪が口をついて出た。
「まあ、多少面白がっていた事も否定はしない」
「おい!」
俺の潤への罪悪感は一瞬にして霧散した。そうだ、潤は昔からこういう奴だった。見た目大人しくて真面目そうなのに、心の中でニヤニヤと笑みを浮かべている事が多いのだ。
「気付いたのはいいけど、それ司には言わないでね。さすがに将人に男だと思われてたと気付くと、司は傷付くだろうし」
「分かった」
誰が性別を勘違いされて喜ぶだろうか。当然、司にはばれないよう、細心の注意を払うつもりだ。大事な幼馴染を悪戯に傷付けるような真似はしたくない。
「まあ、気付いたならさっさと慣れてあげて。司はさ、将人に素っ気無くされるとそれが一番傷付くんだから」
埃っぽい椅子から立ち上がって、潤がそう口にする。有難い事に、司は昔から俺によく懐いて、仲良くしてくれている。俺も司に冷たくされれば傷付くだろう。潤の言う通り、きっと司だってそうだ。そのくらい長い時間を共に過ごして来たし、その間、お互いに友情を育んで来た。
しかし、俺は自覚がある程度に頭が固く、融通の利かない性格をしている。生粋の女の子であったと今更理解した司に対して、今まで通りの接し方が出来る自信がなかった。
読んで頂き、ありがとうございます。
ようやく司の性別を完全に把握しました。