門番・『牛頭・馬頭』
男はぼーっと海を見ていた。
正確には海の向こう、正面にある怪しくも不気味な島を。
裾野が広く、天に向かって伸びる細長い二本の頂と、肉眼でも見えるぽっかりとあいた洞窟らしき闇の三点が、奇しくも巨大な鬼の顔が海から覗いているように見える。
もも達一行が島に渡ったと思われる日から、既に1週間は過ぎていた。はっきり言って見ていてもあまり意味はないのだが、帰れぬ理由がある。
『あの子が忘れていった様だから、これを届けてくれろ』
皺だらけの顔を更に気難しく歪めながら、ももが忘れていった地図を片手に老婆は言った。
『何で俺が!』
『あんたはあの子の師匠だべ! 困ってる弟子を放っとけるんかい!』
自分の半分ほどの背丈しかないのに、落ち窪んだ皺の向こうから光る小さな目が、なかなかに恐ろしい。
拾われた口うるさい赤子を見た時は腰を抜かしていた婆様だが、それでも母性なんてモノが残っていたのか、育て始めるとそりゃあももを可愛がっていた。まるで目に入れても痛くないコンタクトレンズの様に。
そんなわけで、男は愛弟子であるももに、彼女が忘れていった鬼ヶ島までの地図を届けようとしたのだ。
しかしそこに誤算があった。
ももは思った以上に方向音痴だった。
気が付けば、男はももが辿り着くより早く鬼ヶ島へ着いてしまった。
(あの馬鹿、一体どこで油を売ってやがる…)
苦虫つぶした顔で呟きながら、男はそれでも彼女を更に探しに行く事もなく、いつかは会えるだろうと踏んで鬼ヶ島前の海岸で野宿を始めた。ここで会って地図を渡してもあまり意味がない、と言う事実には気付かない振りをする。不肖の弟子を追ってあちこち彷徨うのは真っ平だったからだ。
要は、彼女にこの地図を届ければこのミッションは終わるのである。
けれど問題は食料だった。
鬼ヶ島付近の海には邪気でも取り巻いているのか、魚が殆どいない。
海草くらいはあったが腹の足しにはとてもならない。
仕方なく適当に船を仕立てて遠洋漁業としゃれ込んだ。
鬼ヶ島を鍋の蓋のように位置する内海から、小さな島々の隙間を抜けて沖を出ると、今度は面白いように魚が獲れる。ついつい夢中になって我を忘れた。
特に大鮪との戦いはすごかった。
剣士生命をかけたと言っても過言ではない。
そうして男は夢中になりすぎたのだ。
ふと我に返って、大漁旗をなびかせながら浜辺に戻った時には、島にはもう異変が起きていた。
もも達が島に渡ったのだと瞬時に悟る。
結局、彼の懐には渡しそびれた地図だけが残った。
どうしたものかと迷いながら刺身や焼き魚を堪能していたら、ある日、地響きを上げながら島が沈んだ。様に見えた。
いや違う。
沈んだのではない。
まるで…達磨落としの下の部分が落ちたように、その島の最下層が崩れて、島は何間分かの高さを変えたのだった。
「………」
一体、何がおきたのだろう。
そして、彼女たちは無事なのだろうか。
男は険しい顔で考え込んだふりをすると、串にさしてあぶった、脂の滴り落ちている鮪の大トロ部分をさもうまそうに食い千切ったのだった。
◇
「今度はさすがにやばそうですぜ?」
岩陰から、大きな二つの影を指差して猿彦が言った。
牛の頭をした巨漢と、馬の頭をした巨漢が一人ずつ、その身の丈の倍はありそうな鋼の門の前で仁王立ちになっている。その手にはお約束の様に凶悪な金棒が一本ずつ。
猿彦がびびるのも無理はないほど、いかめしい雰囲気を醸し出している。
ももも身を乗り出して覗き込みながら、ううんと考えた。
猿彦やサユリはなんだかんだ言ってもすばしこいし、雉は鳥だから扉が開けば上部をすり抜けられるだろう。
「よし。こうなったら私が色仕掛けで奴らの目を引きつけるから、その隙にお前らは門を開けて走りぬけろ」
「そんな無茶な!」
前回の茨木童子で味をしめたのか、ももは仲間たちが止める間もなく意気揚々と門番の前に躍り出た。
「誰だ、お前は?」
どすの利いた声が、ももの身長の倍くらいの高さから降ってくる。
ももは一瞬怯える顔になるが、奥歯を噛み締めて巨体を睨みつけた。
怖くない。怖くなんか、ないんだから…!
精一杯、強がった表情を浮かべながら、ももは肩肌見せる様に着物の襟を下ろし、胸に巻いた晒しを緩め出す。怪訝な顔で見下ろす門番達は、不意に何かに目を止めて言った。
「ここを通りたいのか?」
「え? …そう、だけど…」
「ならば通れ」
「嘘! いいの!?」
え? まだ大してぽろりもしてないのに、こんなんで通れちゃうの? もしかして私の色気ってマジ半端ない!?
喜色が浮かんだももに、鬼達は呆れたように言った。
「おぬし、『しるし』を持っているではないか。仲間なら通すのに異存ない」
「え…?」
ももは何の事かと自分の体をあちこち見回す。
胸元には茨木童子からがめたペンダントがきらりと光って揺れていた。
(もしかして…これ? 通行証だったのか?)
まじまじと銀色のチャームを見下ろす。
そんなももを鬼達は無言で見下ろしていた。
「あのー…、仲間たちもいるんだけど、そいつらも通っていいかな?」
余裕が出てきたので、一応可愛い子ぶって身をくねらせてみる。
「構わんが? お前の子分と言う事だろう?」
「そうそう、私の子分たち」
「ならば共に入れ」
「やった、ラッキー☆」
ももは指を鳴らして仲間たちを呼びよせると、閂を外してくれた牛頭馬頭の間をそれでも緊張した面持ちで通り抜けた。
「おい、娘」
そんなももの背中に、牛頭が話しかける。
「な、何?」
一応ももの主目的は鬼退治である。敵地で油断は禁物と、とっさに刀に手を伸ばす。
しかし、意外に牧歌的な声で牛は言った。
「そのぶら下げているものの使い方を知っているのか?」
「え? これ何かに使えるの?」
話しながらも、門は自動ドアなのかズズズと勝手に閉まり始めるから、牛の声が聞こえづらくなる。
「…に向かって、じゅも…なえながら振れ。さすれば――」
最後まで聞き終わらぬ内に門はぴたりと隙間なく閉まってしまった。
ももは胸のペンダントを見て呟く。
「要は何かに向けて振りゃあいいって事か?」
「ももちゃん、用途も分からないのにいきなり使ったら危ないですよぉ」
雉の声に耳を貸そうともせず、じゃあ振ってみようかとそのペンダントヘッドを手に取った途端、門の向こうから先ほどの開閉よりすごい地響きが響いてきた。
ゴ、ゴゴゴゴゴ…!!!!
「わ、うわあ~~~っ!!!」
立つのもままならない地揺れに、彼らは身動き一つ出来ぬまま、その場に屈みこんだのだった。
◇
「最下層は突破されたようですね」
「まあ、あの辺は雑魚ばっかだからなあ…」
閨の奥にしつらえられた寝台の上で、妖艶な美女鬼、夜叉は白い素肌を晒し、甘い吐息を漏らしながら言った。その肌には情を交わした紅い印が点々と残っている。
彼女の上には浅黒い肌をした羅刹が覆い被さったままだ。
彼らは思うがままに生き、思うが儘にふるまう。
それが鬼ヶ島を統率する王と女王の在り方だった。
「ここまで…辿りつくでしょうか…」
「あの娘が、それなりの訓練を受けていれば、あるいは、な」
「…ふふ、楽しみですわね」
世にも美しい笑みを浮かべる女を見て、羅刹は、この女だけは心底恐ろしいと思う。
あの娘が上層へ、つまり我らの元に近づけば近づくほど、壮絶な戦いが待っているだろう。
もちろん、戦いに異論はない。むしろ鬼としての血がたぎると言っても過言ではない。
問題は…あの娘がこの島にとって異物であると言う事だ。
だからこそ流した。
異物は排除せねばならない。
そうしなければ―――この島は文字通り、崩壊を迎えるだろう。