弐戦目・『山姥』
「おうおう、とうとう島に渡っちまったか」
鬼ヶ島を正面に見据えた浜辺の先、少し窪んだ砂地に立てられた小さな漁師小屋から、双眼鏡をのぞいていた男は大きなため息を吐いた。
海風で金の髪が揺れている。
無精髭も金髪ならあまりいやらしくないのが不思議である。
双眼鏡をのぞいていた碧眼の視線は、携帯用カセットコンロの上で沸騰した、ピーピーケトルのお湯に移動した。とりあえずはコーヒーを淹れてその香りを味わう。
「うーん、マンダム…」
世代不明の呟きである。
「しっかし、ももの奴が本気でこの島に辿りつくとはなあ…」
乞われて彼女に剣の扱いを教えた男は、感慨深げに過去を振り返る。
男が扱うのは西洋式の大剣だった。
曰く、突かずに振り回すタイプだ。
その乱暴さが彼女にはあっていたらしい。
初め、自分の背より長い剣を振り回す彼女に、男は自分の命の危機を覚えたものだが、なかなかどうしてあっという間にその背を伸ばした娘は、耳半分に男が教えた扱いを覚えた。
そして、鬼退治に行くと言いだす。
あれは、彼女が旅立ちを決めた前日の事だった。
『もし…もし、あたしが帰れなかったらその時は…』
珍しくひらひらな着物を着ていて、いつもの三割増し胸元や太腿が出ていたから、風邪をひかぬかと内心心配になった男に、ももは潤んだ瞳で唇を震わせる。
その姿があまりに見慣れぬものだったので、何のギャグかと思い吹き出してしまったのがまずかった。
中年男にデリカシーは存在しないのである。
『もういい! あんたになんか心配してもらわなくったって平気なんだから!』
どこかのツンデレっ子の様な捨て台詞を吐いて、彼女は走り去った。
訳が分からず呆然としていたが、追いかけるつもりはなかった。
もちろん、毛頭、これっぽっちもなかったのである。
「あそこでマグロがなあ…」
意味不明のセリフを呟いて、遠く不可思議な悲鳴や呻きが聞こえ始めた鬼ヶ島を、男は見つめ続けたのであった。
◇◇
餓鬼の群れを倒した一行は、そのまま道なりに山道を登っていく。
途中、左右が岩に迫られた洞窟になったが、他に道もないので仕方なく進んでいった。
薄暗い坑道は、それでもあちこちに外に通じる小さな穴が開き、空気は循環しているようだ。
「きゃん!」
不意に、猿彦に抱かれていたサユリがその身を躍らせ、更に狭くなる道を走っていく。
「待て、サユリ! どうした!」
アプリコット色のトイプードルは、元々アナグマなど狭い場所に潜む小動物用の猟犬なのである。
足場の悪さをものともせず走っていくサユリを追いかけると、不意に犬を呼び寄せたものの正体が分かった。
「あ、姐さん…」
「ああ、猿彦。お前も気付いたか」
「食いもんの匂いですな!」
「おう!」
実際、彼らは腹を減らしていた。
鬼ヶ島に近づけば近づくほど、食糧の捕獲が困難になっていたのである。さすがにホウ酸団子を食う気にはならなかった。
何故か洞穴の奥の方から漂ってくる煮炊きの匂いに、一行は一目散に走りだしていた。
「ちょ、ちょっと! 待ってくださいよう!」
鳥目の雉だけが薄暗さに視界を失い、よたよたと後をついて飛んでくる。
而して狭い坑道を抜けた先に、その小屋はあった。
「あら、こんなところにお客さんとは珍しいねえ」
小屋の前では、人のやってくる気配を感じたのか、一人の老婆がにこにこと声をかけてくる。
「婆さん、こんなところで何しているんだ?」
「何って…ただ暮らしてるのさ。それよりあんたら腹は減ってないかい? ちょうど飯ができたとこだよ? 食ってけばいい」
人のよさそうな丸顔に、なかったわけではない警戒心がほぐれていく。
「姐さん!ぜひごちになりやしょうぜ! もう三日も飯を食ってねえ」
「わかってるよ! 言っとくけど婆さん、もし変な事でもしようとしたら、たとえ年寄りでも容赦しないからな?」
凄味を利かせて背中の刀をちらつかせるももに、老婆は「おお怖」と笑いながら一行を小屋の中へと招きいれた。
確かに小屋の真ん中では、囲炉裏にかかった鉄鍋の中身がぐつぐつと音を立てている。
「あんまり取れるものもないでね、具は岩陰のキノコくらいのもんだが…まあ、食ってくんな」
「うめえ! 姐さんマジうめえ!」
さっそく猿彦ががっついた。
粗末な皿に取り分けた鍋の中身を、サユリも嬉しそうにふうふうしている。
雉だけが鍋の中身になりそうで怖いのか、高い天井に開いた穴から自分の餌を求めて飛んで行ってしまった。
ももも遠慮することなく頂戴する。こんな時には躊躇しないのが彼女の長所だった。
直系一メートルはあろうかと言う鉄鍋の中身は、二人と一匹にあっという間に食い尽くされる。
何故か老婆はよそうだけで、にこにこしながら自分は何も口にしない。
「まあまあ、喜んでもらえてほんによかった」
そう言った老婆の姿が、視界の中で傾いでいく。
(え…?)
腹がくちくなったせいか、急に眠気が襲ってくる。
「こんなあばら家だが…眠ければ休んでいくがいい」
さも優しげな声を最後に、ももたちは意識を失ったのであった。
◇◇
しゃくしゃくと小豆を洗う音がする。
…いや、小豆を洗う音に聴こえていたのは庖丁を研ぐ音だった。
「うふふー。久しぶりの御馳走だわ。筋っぽい猿や毛深い犬っころはともかく、つやつやの娘っ子が美味しそうだ事」
語尾にハートマークを付けそうな勢いで、刃物を研ぐ音が加速していく。
彼女は山姥である。その額には、小さな角が二本、にょきっと突き出ていた。
旅人を招き入れ、歓待して食うのがその性であった。
「どうしよっかな~、やっぱ刺身? それとも煮込んで出汁をとってからいぶそうかしら」
楽しい想像に、彼女の胸は期待で膨らんでいく。
実際、はじめにもも達に見せた老婆姿から、だんだんと若返っている。
睫毛の量は倍になり、目尻には山姥のデフォルトである白いアイラインが入っていた。
時として、若い男を誘う時はこちらの恰好が便利だから、その時に応じて姿を変えられるのである。
「いい刀も持ってたから、献上すれば羅刹様も喜んでくれるわよね? もしかしたらご褒美に一夜のお情けを…」
美しいこの島の主である男鬼の姿を思い浮かべ、彼女は陶然となった。
この際、妻であり女王である夜叉の存在は無視である。
鬼の意識にモラルは存在しない。
ピンク色の妄想に浸っていたせいか、その気配に気づくのに遅れた。
「あと一日は眠ってる筈だったんだけどねえ…」
老婆のなりをした若い鬼女は、背後から首筋に突き付けられた刀の冷たさにぶるりと震えた。
足音もさせず、ももは彼女に刀の切っ先を突きつけている。
「悪いな。年寄りに育てられたから早起きなんだ」
少女は不敵な笑みを浮かべて言った。
ももに毒草は利かない。
その昔、修行と称して師匠に散々山籠もりを強いられた時、腹が減るたびに目につくものを食っていた。おかげで今でも食える植物とそうでないものは大抵見分けはつくし、多少の毒なら効かない身体になっている。
「ここの王は…羅刹って言うんだ」
「そ、そうよ! すっごくかっこよくてめちゃくちゃ強くてアッチもたまらなく良いんだから!」
「…アッチ?」
あいにく、ももの頭にはまだ通用しない指示代名詞だった。
「とにかくそいつを倒せば宝が手に入るって事だな?」
「無理よ!」
叫んだ途端に首筋に刃が浅く食い込む。
浅黒い肌に紅い線が走り、女は沈黙した。
「分かった」
それだけ言うと、白刃をきらめかせて刀を鞘に納め、ももは振り返って猿彦を蹴飛ばす。
「おら! 休憩は終わりだ! さっさと行くぞ!?」
「ね、姐さん…?」
寝ぼけ眼で猿彦がごそごそと起き出す。その足元でサユリも前足と後ろ足を交互に伸ばしてのびをした。
「わ、私を殺さないのかい?」
女は引き攣った笑いを受かべてももに問いかける。
鬼の世界は殺ったもん勝ちだ。見逃すなんてありえない。
「何で? 飯を御馳走になって休ませてもらっただけだろ?」
ももの返事は素っ気なかった。
「あんた…その甘さがいつか命取りになるよ」
女の唇が妖しく濡れて光る。
「なんねえよ。二度目はねえしな」
振り返ったその笑みの凄味に、山姥はもう一度沈黙した。
背筋がぞくりと震えるほどかっこよかった。
(やだ、胸がドキドキしちゃう。この子にならあたし…食べられてもいいかも…)
そんな不埒な彼女の想像に気付く事なく、ももは小屋を後にした。
「こっちです。見えにくいかもしれやせんが、こっちに抜ける上り坂がありますぜ?」
僅か上方で、雉の軽い声が聞こえる。どうやら小屋の中の内情を知って、身を潜めていたらしい。
大きな鳥はそのまま降下するとももの肩にとまって囁いた。
「よろしかったんですか? 殺っちまわなくて…」
ももは雉に視線もくれずに言い捨てた。
「仕方ねえだろ。育ての婆さんと同じ飯の味だったんだ」
山姥は、山に捨てられた女のなれの果てだと言う。あるいは山の恵みを司る山巫女の変化だとも。
雉は呆れた様にため息を吐くと、一行を先導すべく天井近くに高く飛んで行ったのだった。