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主語の大きい吾輩

掲載日:2026/10/12

吾輩はライオンである。

 言うまでもなく、群れを背負う者である。

 世界は広く、乾いた風は容赦なく、運命はしばしば王者にこそ過酷な試練を課す。

 まことに、世は厳しい。


 本日の試練は、餌が取れなかったことである。


 いや、ただそう言ってしまっては軽い。

 軽すぎる。

 これは単なる失敗ではない。

 群れの未来を左右しかねぬ重大事であり、ひいては草原の秩序そのものを揺るがす由々しき事態である。

 吾輩が一頭のシマウマを逃したということは、すなわち自然界全体が吾輩に背を向けたということに等しい。


 あと一歩であった。

 あと一歩、爪先ひとつ、息ひとつの差であった。

 それが届かぬ。

 かくも世界は、全力を尽くす者に冷たい。


 無論、言い訳をする気はない。

 王者たるもの、敗北にも品格が要る。

 吾輩はただ、事実を述べているにすぎぬ。

 足元の石の位置がわずかに悪く、風向きにほんの少しの裏切りがあり、獲物の勘がたまたま冴えており、ついでに昼の暑さが普段より粘り強かっただけである。

 これはもはや、個体の問題ではない。

 環境全体の吾輩への当たりが強いのである。


 狩りののち、吾輩はゆっくりと群れへ戻った。

 急いではならぬ。

 成果が出なかった日こそ、堂々として見せる必要がある。

 背筋を伸ばし、視線を遠くへやり、いかにも深い事情があったような顔をして歩く。

 王者には王者の美学がある。


 群れの者たちは、吾輩を見るなり、ああ今回は駄目だったのだな、という顔をした。

 たいへん遺憾である。

 こちらはまだ何も言っておらぬのに、結果だけが先に伝わっている。

 空気というものは、ときに言葉より残酷である。


「どうだったの」  と番いが聞いた。


 この問いがいちばんつらい。

 群れの仲間の視線もなかなか堪えるが、番いの静かな問いには、別種の重みがある。

 期待と現実と、ほんの少しの諦めが絶妙に混ざっているからである。


 吾輩は咳払いをひとつした。

「世界が、少々手強かった」


 番いは黙った。

 黙ってから、

「逃したのね」

 と言った。


 言葉が早い。

 こちらには、王者の苦悩と自然の非情さについて一席ぶつ予定があったのだが、番いはいつも要点だけを抜く。


「逃したのではない」

 吾輩は低く言った。

「群れの未来を思い、無理な深追いを避けたのだ」


「転んでたと聞いたけれど」


 情報が回るのも早い。

 群れとは厄介な共同体である。


 その時、少し離れたところで若い者たちが獲物を仕留めた。

 小ぶりではあるが、立派な餌である。

 群れの空気が一気に明るくなった。


 吾輩はうなずいた。

 実に落ち着いた、王者らしいうなずきであった。


「見たか」


 番いが眉ひとつ動かさずこちらを見る。

 吾輩はさらに続けた。


「個の力に頼る時代は終わった。これからは群れである。

 吾輩が日頃から背で示してきた連帯の精神が、ついに実を結んだのだ」


「あなた、今日は何もしていないでしょう」


 番いは容赦がない。

 だが、そこは視点の違いというものだ。

 実際に牙を立てたのが吾輩でなくとも、群れに勝利の気概を与えたのは吾輩である。

 若い者たちが王者の背を見て育ったことを思えば、この成果は遠回しに吾輩のものであると言っても、決して過言ではない。

 むしろ控えめなくらいである。


「では、その連帯の精神を育てた王者として、あなたは何をしたの」


 吾輩は少し考えた。

 考えてから、威厳を崩さぬよう慎重に言った。


「……見守った」


 番いは、ああそう、という顔をした。

 あまり納得していない顔である。


 だが群れの者たちは餌を囲み、若い者たちは誇らしげで、腹の虫は遠慮なく鳴っている。

 こういう時、細かな事実関係にこだわるのは野暮というものだ。

 群れに餌があり、空腹が満たされ、王者の面目もどうにか保たれる。

 それでよいではないか。


 吾輩は堂々と胸を張った。

 世界は今日も吾輩に試練を与えたが、最終的に群れへ勝利をもたらしたのは、やはり吾輩の徳と器の大きさであったらしい。


「食べる時だけ先頭なのね」


 番いの声が背中に飛んできた。


 ……まことに遺憾ながら、群れというものは、王者への敬意がやや足りぬ。

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