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僕のヒーロー

作者: 垢欺
掲載日:2026/07/26








 それは、普段と同じ1-Aの教室での出来事。僕は蹲っていた。

 「やーい、腕なし!腕なし!」

 恰幅のいい健太が、部下の仲間をぞろぞろ引き連れて、朝一番に俺の席にきたのだ。口の端を歪めて、顔近くまで指を突き付けてくる。うっとおしいので、手で払ったが健太はやめてくれなかった。

 「やめろ」

 「腕なしがなんか言ってるぞ」

 「腕あるよ」

 ゲラゲラと笑う集団の真ん中にいる健太に、服から覗く手を見せた。そこには、皆と変わらない手があった。子供らしい、ぷにぷにとした柔らかい手だ。なのに、健太は僕の手に見向きもしないで見えねーなぁ、と周りの男子達に同意を求めるように視線を向けた。部下の男子は首を上下に振って、見えねーと言った。

 「だって、お前の父親、腕ないから仕事ないんだろ?」

 「…っ!!」

 そうだ、健太が腕のある僕に腕なしと言うのは、僕のお父さんが両腕を失っているからからかっているんだ。たぶん、健太のお母さんから聞いたんだろう。あのお母さんは、噂好きの嫌な女だ。人の後ろめたい話を楽しそうにご近所さんに話すんだ。そのせいで、転校してきたこの学校でも僕は居心地の悪い思いをしていた。僕は眉間に皺を寄せた。

 「あいつは関係ない。一緒にしないで」

 「一緒だろ。お前も腕がなくなるんだぞ。腕なし!」

 僕はその言葉に一瞬で、頭に血がのぼった。拳を振り上げる。健太は少しだけ身構えた。健太の脂肪がたっぷりついた重たい腹が大きく揺れた。周囲にいたクラスメイトが息を呑んだ。教室の端っこで、女の子が目を大きく開いて口に手をあてた。僅かに開いた口から「キ―…」と悲鳴にでそうになっていた。教室の黒板の上にあるスピーカーから短めのチャイムが鳴った。

 僕は頭の上まであげた拳を震わせて健太を殴ろうとしたが、数秒たっても拳は振り下ろされなかった。僕が葛藤にさいなまれている間に、健太の怯えた顔はいつの間にかニヤついた健太ママと同じような嫌な笑みを浮かべた。

 「はっ、腰抜け。やっぱ、お前腕ないんだぞ」

 「…」

 「口先だけで実際には何もできない奴!だから、お前も父親と同じ腕なしなんだぞ!」

 目元があつかった。耳に痛い言葉だった。僕は、捨て台詞も吐かずに教室を飛び出した。

 教室からアルフレッド達の大きな笑い声が遠くで聞こえた。僕は袖口を涙でぐしょぐしょに濡らして、廊下を走った。朝登下校してきたほかの生徒がランドセルを背負って、走り去る僕の後姿を何事かと振り返っていた。

 別校舎に繋がる渡り廊下を走る頃には、生徒の姿はなかった。当たり前だ、そっちは教師棟なのだ。僕はしゃがれた声で、職員室のドアを開けた。

 「せんせぃ!健太が、健太がぁ…ひくっ、また、ぼくのこと、うでなしって…!」

 「またか。ヒビキ」

 ワインブレットのトレーナに、縦線の入ったシャツを中に着て、足の線を強調する青めのジーンズを履いた男が椅子を引いて振り返った。いつ見ても教師としてあるまじき服装だ。金髪に、太い眉毛も。教師にしては派手すぎる。

 ほかのクラスの先生が内緒話で聞こえた話だが、小学生教員としてダメな服装の一つとして、女子の場合露出の高い服で、男性だとオシャレジーンズだといわれているそうだ。オシャレジーンズは見た目をよくするために着るものであって、動くために想定した服ではないからだそうだ。小学生の世話をする教師は、いつでも元気いっぱいの子供達と遊べるように動きやすい服が望まれている。これじゃあ、まるでショッピングモールでデートしている彼氏のようだった。男――六月先生の格好は、職員室の背景では違和感しか感じなかった。

 六月は眠たそうな顔で、机に肘をおいている。話聞くきあるのか、本気で疑わしかった。

 「で、どうしたんだ?」

 「健太、をおこってくれ!先生!あいつ、僕をいじめて楽しんでるんだ」

 「俺はぁお前のの命令通り、何回も健太に注意してきたと思うぜ?」

 「あいつはバカだから、いってもわかんないんだよ!また、おこってよ!ねぇ、先生だろ!?」

 「えー」

 大きな欠伸をして教師のクセに子供のように駄々をこねる六月に、僕は怒りを感じた。なんで、この先生はいつもやる気がないの?僕がこんなにも苦しんでるのに、どうして見て見ぬふりをするの。僕が自殺したらどうするの。

 脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。不精髭を伸ばして、汚らしい男の顔が浮かぶ。どうして、僕の周りの大人はこんなにもロクでもないんだ…。

 「…僕、悪くないのに健太が悪いのに…」

 顔を俯かせてボソリ、と呟いた。服の袖は鼻水やら、涙で湿って気持ち悪かった。擦りすぎて、目元がヒリヒリして痛かった。六月は、机から肘を離して僕の方に体を向けた。

 「それ、本当に思ってるのか?俺は悪くないって」

 「うん、だって僕何もしてない。いつも、健太がからからってくるんだ。僕は何一つ悪くないのに…」

 何を言い出すんだこの教師は、と思った。ワックスで固めただろう跳ねた毛先がうっとおしかった。

 「健太君がからかうから、先生に教えて、先生に叱られる健太君を見て響輝君は満足なの?」

 「そうだよ!だから、また怒ってよ!」

 「先生が怒って、健太君のいじめはエスカレートしなかった?」

 僕は言葉が詰まった。先生に注意を受けたケンタは、必ずといって帰り際に僕をひどく苛めるんだ。その瞳に映るのは、いつもの嘲笑ではなく、憎しみの感情だった。ろっぴ先生は、わざと跳ねさせている毛先をいじっていた。

 「健太君を叱って、イジメがエスカレートする。それを永遠に何回も続けるつもり?君も変わろうとする努力をしなきゃ。先生ばっかり頼ってたって、何も解決しないよ」

 「…先生は頼る存在じゃないの?」

 「なんで」

 質問を質問で返されて戸惑った。だって、ほかのクラスのヒトシくんもサキちゃんも家族の問題や人間関係を先生に相談したら、全部先生が解決してくれたと言っていた。それも熱心に、相談してくれて嬉しかったと周りの友達に自慢していたのを憶えている。だから、生徒が困っていたら先生に相談することに理由などなかった。ましてや、ろっぴ先生は僕の担任だ。

 「だって、ろっぴ先生は先生だもん」

 「俺達小学生教員が文部科学省に言い渡された仕事は、満6歳〜12歳の児童に対し、学習や生活を指導する仕事だよ。国語や算数などの各教科を教えて、知的能力の向上をあげるための存在だ。そのために、君達が怠けないように宿題と重圧と、馬鹿な君達にもわかりやすいようにサルでもわかる授業の準備をしなきゃいけない」

 「なにいってるかよくわかんない」

 「つまりだ」

 ろっぴ先生は足を組んで、太腿の上に肘をおいて、手の平に顎をおいて前のめりに僕に顔を近付いた。黒髪から覗く目が鋭かった。一応、髪は染めていないのだ。整髪料の香りがして、僕は顔を強張らせた。

 「俺は君に割く時間はこれっぽっちもない。はい、わかったら教室に戻れ。授業が始まる」

 ろっぴ先生はまるで、虫を掃うようにしっしっと手を振った。

 その顔には、情や感情はなかった。めんどくさい、子供の僕にもわかる嫌悪感が肌に伝わってきた。僕は唇を引き結んで、先生の机を蹴った。衝撃で、デスクの上で書類に万年筆をはしらせていたろっぴ先生自身まで被害が及んだ。痛って…と間抜けた声が聞こえた。しかし、そんなこと僕には関係なかった。僕の担任が、ヒトシくんの担任の体育教師みたいに果敢に母親に挑む人だったら、サキちゃんの担任の優しそうなおばさん教師みたいに親身になってくれる先生がよかった。僕は悔しさで、ぎゅっと拳を握った。

 「ろっぴ先生なんか大っ嫌いだ!」

 職員室中に響く大きな声だった。周りにいた先生達が驚いた顔で作業そっちのけで、僕らを見る。僕は顔を徐々に青ざめていった。僕はなんてことを言ってしまったんだ。いくら本心だからって、怒られる!

 僕が一人であわあわとしているのに対し、ろっぴ先生は字が歪んでしまった書類を見てから、ふぅーんと空気の抜けた返事をして万年筆を机に置いてにっこりと笑った。

 「ありがとう。俺、子供嫌いなんだ」

 その顔はちっとも堪えた様子はなく、この先生は本当に最低な人間だなと傷ついた心の底で思った。

 「そうだ、今週は授業参観があるんだ。さっさと、原稿用紙だせよ。クラスででていないのお前だけだぞ」

 今度は長めのチャイムが鳴った。授業の始まる本命チャイムだ。ろっぴ先生は立ち尽くす僕を置いてさっさと職員室をでていった。



 ***



 帰り、僕は地団駄を踏みながら通学路を歩いていた。イラついている僕の様子に気づいた同級生がびっくりして、僕を奇異なモノを見るような目で隣にいる友達に内緒話をしていた。信号機の表示が青から赤に変わってしまい、皆一斉に足を止める。

 小学生登下校は家が近いもの同士で班を作って帰るシステムになっている。不審者対策だという。でも、僕はそれが余計なお世話だった。班で一緒に列を作って、家の近くまでの長いようで短い距離が僕には苦痛でしかなかった。隣同士で喋る同級生がいるのに、僕はそこから孤立したように少し皆から距離をおいて班の後ろをついていった。

 「カエデちゃんバイバイ~」

 「ばいばい~」

 上級生が下級生の子が家に入っていくのを見届けるように手を振っているのを見て、僕は班からそっと抜け出した。周りの子も気づいていないようだ。それもそうだ、皆僕のことなんか興味ないもんな。

 細い横道を一直線歩くと、綺麗に整えられた住宅から少し朽ちたような古い家々が多くなった。瓦がとれた家や、畑が大部分を占めて、家が小屋みたいな所もある。その家の前の素通りして、一番奥にひっそりと建っているさらに汚らしいアパートの前で立ち止まった。

 アパートは壁にヒビがはいっていて、塗装が剥がれている部分が目立っていた。二階にあがる鉄でできた階段は、錆びついていて一歩、一歩、踏みしめるたびに嫌な音を響かせる。いつか、抜け落ちるんじゃないかと本気で心配している。

 階段をあがって、すぐにある表札に『近藤』と書かれた扉の前で足を止めた。電気メーターのメモリは動いてなかった。扉の向こう側から物音ひとつしない。でも、――いる。僕は首からぶら下げていた紐で、括り付けていた鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。少し位置は高くて背伸びしないと届かないが、やっとのことでカチャリ、と音ともに扉は開いた。僕はノブを捻って、家にはいった。

 汚らしいアパートの部屋は、見た目通り人ひとり通れるくらいの狭い廊下とリビングと寝室と風呂とトイレしかない。リビングに行くと案の定、あの人がいた。

 「ただいま」

 リビングの真ん中に敷かれた敷布団の上に眠る男が一人いた。男の瞳はキツく閉じられている。しかし、僕は知っている。この人は寝ていないのだ。やることがないから、寝転がって眠るふりでしか一日を過ごせないんだ。僕はランドセルを乱暴にソファに放った。それでやっと、あの人はノロノロと起き上った。

 「おかえり。響輝」

 男はニコリ、と笑った。男の髪はボサボサだった。寝癖で髪の方向があちらこちらと不規則に跳ねている。不精髭があって、男のみすぼらしさを際立たせていた。ヨレヨレの白いTシャツを着る男の腕は、肩から先の部分がなかった。そのため、布団から体を起こすのも一苦労していた。

 僕はその様子に顔を顰めて、水道の蛇口を捻ってコップに水を注いだ。

 「学校はどうだった?」

 「別に」

 「友達できたか?」

 「あんたせいでイジメられている」

 僕はコップの水を飲んだ。男は苦笑いして「ごめん」と言った。それが無性に苛立った。気づいたら、コップを床に叩きつけていた。

 「響輝!なにやってるんだ!」

 男は怒鳴った。優しく笑っていた顔は、怖い顔になっていた。僕はビクッと少し怯んだ。だが、負けじと前のめりに体を傾けて男を睨んだ。

 「僕、悪くない」

 「コップを割ることは悪いことだ。形あるものはいつかは壊れるものだが、意図的に壊そうとするのはいけないことだ」

 「コップだって、元はお母さんが買ったものだろ。あんたに説教される筋合いはないよ」

 男は目元をキツくした。僕は畳みかけるように溜め込んでいたものを吐き出した。

 「あんたのせいで友達もできない。腕がない、って悪口言われるんだよ。…僕は腕はあるのに、物だって掴めるのに―…あんたが腕がなくて、仕事ができないからお母さんが必死に働いてるんじゃん。そのせいで、毎日疲れてて、でも怒らなくて…優しくて、あんたが僕に何をしてくれたの?割れたコップも拾うこともできないあんたが、僕に父親らしいこと一回でもしてくれたのかよ!?毎日、寝るだけの生活なんて楽でいいよな!」

 目を大きく見開いてから、男は視線を床に向けた。無残に割れたガラスが落ちている。窓から差し込む光がガラスに反射して、キラキラしていた。男は膝をたてて、ガラスの前までノロノロと移動した。その動きも小学生の僕よりも遅い。男は服の袖で、ガラスに触ろうした。しかし、拾うことはできない。手がないからだ。男は申し訳なさそうな声で小さくもう一度、「ごめん」と言った。それが、自分よりも大きい大人の男の声とは思えないほど小さな声で、この狭い部屋じゃないと聞えないほどだった。その声が、傷ついてますと言っているようで僕の心をさらに傷つけた。

 「……っ」

 僕は唇を噛みしめて、ランドセルを掴みリビングを飛び出した。男の方は振り向きもしなかった。顔をあげた男の顔を見るのが嫌だったからだ。僕は急いで寝室に行って、暗い部屋に敷かれている3つの布団のうち、真ん中にある布団の中に潜りこんだ。ふわふわの綿の感触や、全身を覆ってくれる布団やらで、誰もいない部屋で涙が自然とこぼれてきた。

 「ぅ…うう…」

 布団のシーツが僕の涙を吸収してくれる。いつも、辛いことや苦しいことがあると僕は布団の中で泣いた。外と遮断しているようで、安心できるからだ。僕は大声をあげて、泣いた。シーツを何度も殴って、やり場のないイライラをぶつけた。リビングからは相変わらず物音一つしない。

 僕は目元を乱暴に服で拭って、ランドセルから一枚の原稿用紙と授業参観の紙を取り出した。授業参観でやる授業は発表会。自分の両親について発表する授業だ。僕の原稿用紙は、名前と僕のお父さんと題名以外何も書いてなかった。その原稿用紙を見ていたら、また涙がじわりとこぼれた。

 (あんな人、腕と一緒に死ねばよかったんだ…!)

 そうすれば、僕達の生活はもう少し楽だったし、イジメられることはなかった。原稿用紙の紙をぐちゃりと潰した。教師は今時多い放置教師だし、なんて不幸な子だと、布団の中で僕は思った。



 ***



 布団の中でいつの間にか寝ていた僕は、玄関を開く音で目を覚ました。窓の外は真っ暗だ。怪獣の目覚まし時計が12を指していた。こんな夜遅くに帰ってくるのは、一人しかいない。

 「お母さん!おかえり!」

 元気よく玄関に走って向かえば、予想通り母親の姿があった。毛先があちらこちらに飛び跳ね、膝上のワンピースを着ていた。口は真っ赤な絵の具がぬられている。僕は普段の自然体のお母さんが一番綺麗だと思うのに、お母さんは仕事に行くときには絶対にお顔にお絵かきをしていくのだ。

 お母さんは疲れた様子で玄関で項垂れていたが、僕の顔を見ると弾けたような顔で出迎えてくれた。

 「ただいま。響輝」

 僕はお母さんの胸に飛び込んだ。お母さんは、しっかりと僕を抱きしめてくれた。背中にお母さんの腕の温かさを感じた。それが、とても嬉しくてそれだけが幸せだった。

 「お母さん、今週ね。授業参観があるの。だから、来てね!」

 「いいわよ。お父さんと一緒に行くわ」

 「…あの人はダメ」

 お母さんは困った顔をして、僕の頭を優しく撫でた。

 「どうして」

 「あの人は腕がないから」

 「お父さんだって、好きで腕がないわけじゃないのよ」

 「知ってるよ。事故にあって、なくなっちゃったんでしょ?でも、腕がないことは変わりないじゃん。仕事もできないし、日中ゴロゴロしてるし。…あんな人、死んじゃえばよかったんだ」

 パン、と乾いた音が響いた。僕は状況が呑み込めずに、目を瞬かせた。それから右頬に痛みを感じて叩かれたのか、とようやく理解した。お母さんの顔は、瞳に涙をいっぱい溜めて怒っていた。その顔は妙に迫力があって、僕は何も言えなかった。

 「…それ、お父さんに言ったの?」

 「ううん…」

 「響輝は知らないだろうけどね。お父さんはね、本当は―…」

 






 授業参観は土曜日にあった。授業がそろそろ始まるので、廊下には生徒の姿はなかった。いつも歩くのに邪魔な子供達がいないせいか、廊下の真ん中を六月は歩いていた。すぐ横の掲示板には、一年生クオリティーの上手いとも呼べない絵がたくさん飾られている。その横を興味なさげに、欠伸を噛み殺して通り過ぎる六月の前に近藤響輝は飛び出した。

 「どうした。君、今日も発表会の原稿用紙はできてないのか?」

 辟易した顔をしたが、響輝は何も言わずに一枚の紙を渡した。六月は黙って原稿用紙を読んで近藤に返した。

 「まぁ、いいんじゃない?」

 響輝は称賛の声に、コクリと頷いてバタバタと教室に戻った。六月は、その小さな後姿を見送ってジーンズの尻ポケットにいれた携帯を取り出した。電話帳を開いた。ミヤビ、と書かれた番号に通話ボタンを押してポケットにしまった。

 「今日もめんどくさいガキの世話でもするか」

 軽く腕を伸ばして、教室に入った。席にちゃんと座って、輝いた純粋な瞳で見てくる子供達の姿に六月はうんざりとした。



 ***



 電気がついてない部屋で瞳をキツく閉じて眠る男に、女は声をかけた。

 「授業参観、一緒に行きませんか」

 「行かない」

 眠っていたと思っていた男から返事があった。女はそれにびっくりした様子もなく、布団の横に座って男の背を支えて上半身を起き上らせるのを手伝った。男は悲しそうな顔をしていた。

 「俺が行ったら、響輝に迷惑だ」

 「そんなことありません」

 女はきっぱりと強く否定した。男は首を横に振った。

 「いいや、俺はいけない。お前が行ってくれ。響輝は、お前が来ることを望んでいる」

 「あの子だって、あなたが来ることを本当は望んでいるわ」

 「そんなことない。だって、俺は――腕がないから」

 男は布しかない腕の部分を揺すって、女に見せつけた。女は、唇を一文字に結んで言い返そうとした。窓から差し込む光の角度が変わり、食卓の上に置いてあった鞄を照らした。静かな部屋の沈黙を破るようなけたたましい携帯の着信音が響いた。女は立ち上がって、食卓の上に置いてある蛍光色の派手な鞄からスマホを取り出して、相手の名を見ずに通話ボタンを押した。

 「もしもし」

 「…」

 話し相手は何も喋らなかった。気味が悪くて、切ろうとしたが僅かだが人の話し声が聞こえた。スピーカー状態にすると、雑音交じりだがはっきりと子供の声が聞こえた。

 『近藤響輝。題名、僕のお父さん』

 子供の声は紛れもない自分達の息子の声だった。男と女は顔を見合わせた。どうなっているのかお互いわからなかったがとりあえず聞いてみようと思い、女は男の横に座り直して、二人は耳を澄ましてスマホに近づいた。息子の声はいつもより、緊張した声だった。

 僕のお父さん 近藤響輝

 僕のお父さんは腕がありません。仕事もしてません。家でいつも寝ています。テレビも新聞も読みません。腕がないから、動くのも一苦労です。僕と50メートル走で走ったら僕の方が早くて、お父さんはいつも息を切らして「響輝は早いな」と笑っていました。そんなお父さんが僕は大っ嫌いでした。ある日、僕は言いました。「あんな人、死んじゃえばよかったんだ」そしたら、お母さんは今まで見たこともないほどカンカンになって怒りました。僕は怒っているお母さんにびっくりしてると、お母さんは泣きそうな声で教えてくれました。

 昔、この町で通り魔事件があったそうです。通り魔は、夜道を歩く女の人を電動ノコギリで襲っていたそうです。重症者も多く、大変有名な事件だったそうです。お父さんは、元は警察官でした。夜道で診察所の帰りに、通り魔に襲われそうになるお母さんを助けて、通り魔に両腕を落とされたそうです。

 お母さんは泣きながら言いました。「私がもっと明るい公道を歩いていたら、もっと早く逃げていれば、あなたは両腕をなくさなくてすんだのに」と。すると、お父さんは真っ赤に染まった警官の袖で、お母さんのお腹を擦った。「しょうがない。あなたは、お腹に子供がいたんだから」

 僕のお母さんはシングルマザーでした。僕はそれまで、ずっと知りませんでした。お父さんは、実は本当のお父さんじゃなかったんです。お母さんは、警察を退職したお父さんの元に何度も通いました。お母さんがお父さんに結婚してほしい、と言った時もお父さんは断りました。「両腕のない自分じゃあなた達を幸せにできない」と、でもお母さんはそれでもいい、と言いました。「私があなたを幸せにします。あなたがいなければ私も、――この子もいなかったんですから」そうして、お父さんとお母さんは結婚しました。両親が反対していたので、殆ど駆け落ち状態だったそうです。

 僕はそれを聞いて、いっぱい泣きました。僕はお父さんに酷いことをいっぱいしてきました。苛められる理由も、友達ができない理由も全部お父さんのせいにしました。前の学校でうまくいかなくて、転校したいと言った僕に渋っていたお母さんに「転校させてやろう」と関口に言ってくれたのもお父さんでした。お父さんのせいで、友達に悪口を言われたことがありました。近所のおばさんに可哀想、と何度も言われました。いつも、誰かが僕達を可哀想、可哀想、と言ってて悔しかったです。でも、僕はぜんぜん不幸じゃありませんでした。血の繋がらない、しかも自分の両腕をなくした原因である僕を一切責めずに黙って「ごめん」と言っていたお父さんが、どれだけ家族の中で苦しい思いをしていたのか、自分のことしか考えてなかった僕にはわかりません。

 僕のお父さんは、腕がありません。肩車も、手を繋いだことも、抱きしめられたこともありません。僕は野球が好きだからキャッチボールがやりたいけどお父さんは腕がないからできません、僕はお父さんの大きな手の平を感じたことがありません。

 でも、実の血の繋がった腕のある父親よりも、腕がなくて何もできないお父さんの方が僕は誇りだと思います。割れたコップも拾えなくて、徒競走は小学生の僕よりも遅いお父さんだけど、ほかの子供のお父さんより優しくて、強くて、頼りがいがあって、カッコいいお父さんが大好きです!





 一瞬の静寂の後、携帯からは大きな拍手が聞こえた。鼻を啜る音も聞こえる。そこで、携帯の通話は切れた。通話相手を見て、雅は納得した。そして、再び昔と違って不精髭を伸ばしたままの近藤悠斗を見た。

 「行きましょう。授業参観」

 「…今更行ったって遅い。着くころには授業参観は終わっている」

 「学校にいるあの子を見るのが授業参観です!今行かなかったら、それこそもう二度と溝は直せません」

 近藤の濁った瞳が少しだけ光が灯った。しかし、雅の首筋につけられている赤い点にすぐに顔を逸らした。

 「いけない。俺は、あの子に顔見せできない。俺が働けないからお前に水商売みたいなことをさせた。俺が情けないばかりに―…」

 弱音を吐く近藤の言葉を遮るように、雅は畳を強く叩いた。近藤はびっくりして、雅の顔を思わず見た。そこにある強い意志がこめられた二つの瞳は、結婚してほしいと突如5つも年下の少女が言った雪の日のことを思い出させた。

 「私は一度だって、この生活が苦しいと思ったことはありません。貧しいかもしれません、周りの目線は辛いかもしれません、ですが私はあなたと響輝がいればそれだけで十分です。だから、そんな私を憐れむのはいくらあなたでも許しません」

 窓から差し込む光が食卓から動いて、雅を照らした。太陽の眩しい光に目を逸らしたり、手で影を作ったりせず、じっと雅は近藤を見据えていた。

 近藤はくしゃりと顔を歪めた。

 「お前は強いな」

 「あなたと響輝のおかげです」

 クスリ、と雅は笑った。そして、近藤に手を伸ばした。

 「行きましょう。あなた。私達の子供に会いに」

 眩いばかりの力強い笑みだった。出会った頃は、少女だった子がこんなにも大きくなった。なのに、手の平は小さくて、そんなチグハグだらけの彼女に魅力を感じて俺は結婚したんだな、と改めて思った。雅の手の平に、近藤は服の袖をちょこんと置いた。



 ***



 授業参観を終わった後、後ろで立っていたお母さん達が一目散に僕の元に駆け寄って僕の頭を撫でた。あの噂好きのケンタのママまで、目元をハンカチで抑えながら泣いていた。僕はその光景が現実味がなくて、ただ流れてくるお母さん達の声を右から左へ聞き流していた。

 下校のチャイムがなって、同級生は自分のお母さん達と手を繋いで帰って行った。ろっぴ先生なんかさっさと教室をでて「ドアしめてけよ」と言い残して行ってしまった。僕は誰もいなくなった夕方の教室を見渡して、帰るかと一人呟いてランドセルを背負って下駄箱で靴に履き替えた。ランドセルの肩にひっかける人工革でできた部分を掴んで、テクテクと校門に繋がるアスファルトの上を歩いた。

 (すごくスッキリした気分だな…)

 たくさんの人が僕の言葉に泣いていた。同級生もたくさん拍手してくれた。今日はなんだか、生きてきて一番学校を楽しいと感じた一瞬だった。

 横を見上げると細い高い木が見えた。風に揺れて、葉が何枚か落ちる。たくさん褒められた。でも、――お父さん、お母さんがいなければ意味がないんだ。

 僕はたくさん酷いことを言った。今更許してもらえない。僕はお父さんのことを恨んでいたが、お父さんも僕のことを恨んでいたかもしれない。だって、僕達は血が繋がってないんだ。血が繋がっていない本当の息子じゃない子に、暴言を吐かれてお父さんだってもう、父親なんてやめてやるって言うかもしれない。今日帰ったら言われるかもしれない。そしたら、僕は何も言えない。今になって、僕のお父さんでいてなんて都合がよすぎる。

 アスファルトに灰色のシミができていた。雨が降ったのかと思えば、僕の涙だった。涙がボロボロとアスファルトの上に落ちる。

 「お父さん、ごめんなさい。お父さん、お父さん、お父さん、ごめんなさい」

 今になって気づいても遅いのに、言わずにはいられなかった。

 「お父さん、お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 父親らしいことなど何もしなかった、と僕は言ってしまった。そんなことはなかった。お父さんは、父親として僕の命をまさに命がけで守ってくれた。こんなこと、普通のお父さんならできる人は少ないだろう。お父さんがそれを迷いなくできたのは、お父さんが警察官だったからだ。警察官と仕事に誇りをもっていて、どんなことがあっても市民を守ると信念があったからだ。それを、僕が、お父さんの仕事まで奪ってしまったんだ。

 「嫌いじゃないよ…。ずっと、大好きだった。だって、お父さん、いっつも優しかったもん。僕はそれに、甘えていたんだ…」

 僕は愛されていたのだ。お母さんからも、お父さんからも。

 それは普段の家庭生活ではわからないだろうけど、僕の知らない所でお父さんとお母さんの物語があって、色んな苦難を乗り越えて僕が生まれたんだ。だったら、そこに愛情を感じない親はいないだろう。どうして、僕はそれに早く気付けなかったんだろう。たぶん、理由は決まっている。それは、僕が未熟な子供だったからだ。

 僕は涙で濡れた顔を手で覆った。

 「お父さん、ごめんなさい―…」

 「ヒビキ!!」

 自分の名前を呼ばれて、咄嗟に振り返った。そこにいたのは、息を切らして走ってくるお父さんの姿だった。腕がないからバランスがとれずに、身体はふらついていた。お父さんは小石につまずいて、盛大にこけた。

 「お父さん!」

 「痛てて、情けないね…。お父さんは」

 腕がないため、直にアスファルトに顔を直撃したお父さんの顔は擦り傷で血が滲んでいた。お母さんがあなた、と悲鳴をあげて急いで近寄った。僕は倒れこむお父さんの顔を触った。

 「お父さん、ごめんね。僕、お父さんにいっぱい酷いこといった。いっぱい、いっぱい、お父さんのこと傷つけた。ごめんなさい、ごめんなさい」

 「…」

 「いっぱい、酷いこといった僕だけど、まだ僕のお父さんでいてくれる…?」

 僕は恐る恐る聞いてみた。断られると思っていたからだ。父さんは服の袖を持ち上げた。腕がないのに、僕は咄嗟に身構えた。

 「当たり前だろ。お父さんは、響輝のたった一人のお父さんだぞ」

 お父さんは服の袖で泣いていた僕の目元をなぞっていた。そこには、布が擦れる感触しかなかったはずなのに、確かに父親の温かい大きな手の平を感じた。ゴツゴツとした、傷だらけの肌黒い手が、涙で滲んだ目で見えたような気がした。僕は我慢できずにお父さんに抱き付いた。

 「お父さん…!」

 「ははっ、響輝は本当に俺に似て泣き虫だな」

 お父さんは僕の背中を服の袖でポンポン、と叩いた。質量感がないから気づきにくいかもしれないが、あるんだそこに、お父さんの手は。腕がないお父さんが、僕のお父さんだ。隣でお母さんがハンカチでお父さんの額から流れる血を拭って、笑っていた。

 「おい、ヒビキ」

 しかし、そんな幸せな時間は続かなかった。ケンタが一人で僕達の前に現れたんだ。ケンタの顔は不機嫌そうだった。僕達の温かな空気が一気に凍る。僕は生唾を飲み込んでからなに、と震えないように返事をした。学校の前に止まっていたトラックのエンジン音が起動して、運送会社のロゴがはいったトラックはどっかに行ってしまった。

 ケンタは頭を下げた。

 「ごめん。腕なしなんて言って」

 「えっ」

 「俺、お前のことなんも知らなかった。いっぱい、いじめてごめん」

 ケンタは重たい腹を揺らして、肉厚のある手を差し出した。

 「俺、お前の言葉に感動してお前のこともっと知りたいと思った。仲良くなりたいと思った。俺と、――友達になってください」

 自分に差し出される手に、僕は戸惑った。だって、ケンタは僕をいじめてきた主犯で、僕はこいつのことを絶対許すつもりがなかった。教師に怒られるケンタをいい気味だと思ったし、僕よりも頭の悪いケンタを内心馬鹿にしていた。

 その時、風が強く響いて僕は乱れる髪を抑えた。風と共に、脳裏に一人の気だるげの男の言葉が響いた。

 ――君も変わろうとする努力をしなきゃ。先生ばっかり頼ってたって、何も解決しないよ。

 何故その言葉が今、思い出したのか僕にはわからなかったが、言葉が心の奥底に染みわたっていった。僕はもう一度、ケンタを見た。あのプライドばかりが高くて、他人に命令ばかりしていた奴が頭を下げていた。いじめていた僕に。それは、どれだけの勇気と葛藤があっただろう。先ほどの僕のように―。

 ケンタの手の平は油っこくて、とても握るには躊躇した。ケンタは顔をあげた。

 「俺を許してくれるのか」

 「許さないよ。だって、僕だけじゃなくて、お父さんのことまで悪く言ったんだもん」

 ケンタはすぐに肩を落とした。そうだよな、と落ち込んだ声をもらす。お父さんと、お母さんは僕の両手を優しく握りしめた。

 僕は咳払いをした。

 「でも、僕のお父さんの悪口を撤回したら、…友達になってあげてもいいよ」

 最後の方は言葉が詰まってしまった。恥ずかしい、ケンタは歯をむき出して笑った。

 「ああ!だって、お前のお父さんはカッコいいもんな!」

 他人から自分の父親を褒められるというのは、初めてだった。だから、それが少し照れくさくて、でも自慢したいような見栄っ張りの欲もでてきて、僕は頬をかきながらはにかんだ。

 「うん、僕のお父さんは世界一弱くて腕のない僕らのヒーローだからね」




  ***




 六月は書類整理を終えて、やっとのことでめんどくさい授業参観から解放された。職員下駄箱で靴に履き替えて、自前の車に向かおうとする。車のキーを人差し指で振り回していると、細い木の下で騒いでいる集団がいた。関わるとめんどうなので、軽く無視して通り過ぎようとすると女性の方がこちらに気付いた。

 「あっ、ろっぴ君。今回はありがとね」

 「俺は何もやってないよ。お前の所のガキが勝手に青春ごっこしてただけだろ」

 長い茶髪の髪を靡かせて、雅は頭をさげた。ろっぴはそれを嫌そうな顔で溜息を吐いた。少し離れた所には、不精髭の男が小学生男の子二人と野球のモーションをしていた。傍から見たら不審者丸出しなので、教師として通報したいと思う所だが、子供達の瞳が輝いていたので、その必要はなさそうだ。不精髭の男も心なしか、濁った瞳に光が灯っていた。

 六月は辟易した顔で舌をだすと再度車に向かった。すると、背中越しに普段の彼じゃ想像もできない元気な声が、六月を呼び止めた。

 「ろっぴ先生!」

 「なんですか」

 六月はめんどくさそうな顔で振り返った。横では、健太が驚いた顔で響輝を見ていた。不精髭の男はおかしな野球モーションをやめて、ヒビキの傍に寄り添った。雅は遠くで息子の後姿を見守っていた。響輝は大きな深呼吸をすると、真っ直ぐな瞳で六月を見据えた。

 「僕、ろっぴ先生みたいな大人にはなりたくない!」

 「あっそ」

 六月は簡単に切り捨てた。話は終わりか、と目で訴えると響輝はその名に相応しい輝いた笑顔を見せた。

 「でも、僕、ろっぴ先生がやってる教師になりたい!」

 「そうですか」

 またしても、六月は簡単に終わらせた。六月は、話はそれだけだとさっさとその場から立ち去ってしまった。でも、無慈悲に見えるその横顔が少しだけ笑っていたのを響輝は見逃さなかった。







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