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想像通りの天国       :約2000文字 :天国

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/03/06

 死んだ男は驚いた。死んだこと自体にではない。年老いていたし、そろそろだろうとは思っていたのだ。

 男が驚いたのは、自分が天国に来られたということだった。

 思わず「あっ」と声を漏らし、慌てて手で口を押さえた。周囲を見回し、誰にも聞かれていないと確認すると、小さく息を吐いた。

 澄み渡る青空。どこまでも高く、果てはない。足元は雲のように白く柔らかな地面で、踏みしめるたびにわずかに沈む。色とりどりの花々が風に揺れ、甘やかな香りを漂わせている。遠くでは泉がきらめき、さざめく水音が耳に心地よい。

 白い布をまとった人々は、誰もが穏やかな笑みを浮かべ、のんびりと時を過ごしているようだった。

 男は自分の体に目を落とし、同じ白い服を着せられているのを確かめると、小さく「よし」と呟いた。


 ――やはり、おれは運がいい。それも“悪運”がな……。


 男は犯罪者だった。盗みや暴行、脅し、騙し――やったことは一つや二つではない。だが一度たりとも捕まったことはなく、人に知られたこともなかった。

 それを生業にしていたわけではなかった。昼は真面目な顔で仕事し、夜など人けのない時間帯や、時には昼間も隙を見計らって自分の欲望を満たしていた。大した稼ぎではなく、刺激を求めるただの趣味と言ってもいい。

 あと一歩で見つかるような危ない場面もあったが、それを機にすっと身を引き、しばらく大人しくしてまた別の悪事へ移る。その繰り返しで、男はここまで生きてきたのだった。

 男はにやりと笑った。

 どうやら、おれの行いには神さまも気づいていないらしい。まあ、神といえど完璧じゃないということだ。地上の人間一人ひとりの細かな所業まで把握していなくても無理はない。おそらく、ニュースにでもならない限り、悪評が天界まで届くことはないのだろう。無名は悪名に勝る、だな。

 男は上機嫌で鼻歌まじりに歩き出した。


 すれ違う住人たちが微笑みとともに会釈をしてくる。そのたびに、男もまた柔らかな笑みで丁寧に返す。こうした外面の良さには自信があった。むしろ悪事を重ねていたからこそ、怪しまれぬよう普段から人当たりに細心の注意を払っていた。町の清掃ボランティアに参加したことすらあった。


 ――女、男、女、ガキ、女……女はいるが、どいつもババアばっかだな。まあ、天国だし年寄りが多いのは当然か。


 男は内心で舌打ちした。

 はしゃぎやがって、うるせえガキだ。また蹴飛ばしてやりてえなあ。こっちのジジイはとろとろ歩きやがって。突き飛ばしてやろうか。女、女はいねえか……。

 男は苛つきながらも表情は崩さず、目だけをさりげなく動かして品定めを続けた。

 そしてしばらく歩き、あたりに木々が増えてきた頃のことだった。


 ――おっ。


 ふと視界の端に、木陰で眠る若い女の姿が入った。幹に背を預け、白い衣の裾を無防備にたくし上げている。すらりと伸びた生足が陽光を受け、透けるような白い肌がほのかに艶めいていた。

 男は思わず、ほうと息を漏らし、鼻の下を伸ばしてじっと目を凝らした。

 周囲をさりげなく見回し、人影がないことを確認すると、男は音を立てぬようそろりそろりと近づいた。木の幹に身を寄せ、後ろからゆっくりと女の肩へ手を伸ばす――が、その手で自分の口を押さえた。


 いや、危ない、危ない……。何を考えている。さすがに神もここは見ているだろう。こんなところで女を襲えば、すぐさま地獄へ落とされるに決まっている。天国が想像通りの場所だったのだ。きっと地獄も想像通り――いや、それ以上に恐ろしい場所に違いない。刑務所なんて比較にもならないだろう……。


 男はぶるりと身を震わせると、未練を噛み殺しながらその場を離れた。

 それからも男は穏やかな笑みを崩さず、欲望を飲み込みながら天国での生活を続けた。

 会釈されれば会釈を返し「おはようございます」と声をかけられれば、丁寧に「おはようございます」と返し、「いい天気ですね」と言われれば「ええ、いい天気ですね」。「あっちに綺麗なお花が咲いていたんですよ」「それは素敵ですね」。「さっき、何もないところで転んじゃったの。うふふ、ドジね、あたしって」「あはは、それはお大事に」。「さっき、すごくいい夢を見たんですよ」「ほう、それはどんな夢ですか?」「あはは、忘れちゃいました」「あははは」。「明日は晴れますかねえ」「きっと晴れますよ」。「さっき鳥の声がしたんですよ」「ほう、どちらですかな?」。「天国はいいところですねえ」「そうですよねえ……」。


 やがて男は気づいた。


 ――ここは、生殺し地獄だ。


 途端、住人たちの笑顔がどこかぎこちなく見えてきた。

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