第9話 科学と魔法
佐藤を連れたマギサは、階段の裏側にある扉を開けた。そこには暗さで先が見えない程、長い下り階段が続いていた。彼女は入口のすぐそばの壁に掛けられたランタンのような物を取る。そのランタンは、彼女が手に取った瞬間に光が灯った。
「この先だよ。ついておいで」
彼女が振り返って言った。まるでこれから非人道的な行為をしている実験場にでも連れていかれるような、そんな雰囲気だった。
彼女から貰って履いていた室内用のスリッパを履き直して、佐藤もその後を付いていく。
「……話の腰を折るようで申し訳ないんですけど、どうして魔法を?」佐藤が訊いた。
「あれ? 君は元の世界に帰りたくないの? そう聞いてたんだけどな」
マギサは振り向かずに言った。期待感を含んだ唐突な返答に、思わず佐藤は階段を踏み外しそうになった。
「え……そりゃ帰りたいですけど、帰る方法知ってるんですか?」
「いや、全く」
マギサは即答した。背後で肩を落とした佐藤の事など、気にも留めていなかった。
「でも、もし元の世界に帰りたいなら、魔法は必要だと思うよ。それに、他にも理由があるしね」
佐藤もその可能性については考慮していた。現代の科学技術では、転生など普通に考えて不可能である。その上、この世界は科学の代わりに魔法が発達した世界。とすれば、元の世界に帰るためには魔法の力に頼るほか無い。
「他の理由って、何ですか?」佐藤が訊いた。
「君が見つかってしまった原因を何とかしようと思ってね。『人払い』って、どこかで聞いたことないかい?」
「確か、俺を襲った女の人が言っていたような……何です? それ」
「『人払い』――と言っても、正式名称は別にあって、これはほぼ俗語みたいなものなんだけど、魔法の一種で、魔力を持つ存在を遠ざける効果があるんだよね。効果外にする対象を自由に選べるから、本来は他人に見られたくない取引とか、誰にも立ち入られたくない場所とかに使ったりするんだけど、一個問題があってね」
「問題?」
「仕掛けた時に使った魔力量以上の魔力を持つ存在、もしくは魔力を持たないか、極端に少ない存在には効果がないのさ。動物とか、君みたいに魔力を持たない転生者とか」
そう言って、マギサはランタンを佐藤に向けた。
「じゃあ、あの時のあれって……」
「そ、あの辺り一帯に、あの女は人払いを発動させたのさ。おかげで君以外の人間は蜘蛛の子を散らすようにあたりから逃げ出して、君はまんまと炙り出されたってわけ」
「つまり、今後その魔法で炙り出されないようにするためには、俺がある程度の魔力を持つようになればいい……って事なんですか?」佐藤は顎に手を当てていた。
「そういう事。基本的に、転生者とこっちの人間の違いって、魔力があるか無いかだけだからね。まあ、魔力を感じ取れる人間は割と限られているけど。そういう面でも、君がある程度でも魔力を持つことは重要だと思うよ」
と、まるで会話が一時的に終わるのを待っていたかの様に、地下に続いていた階段はそこで途切れ、木製のドアがぽつりとそこに佇んでいた。石囲まれた壁の中にあるそれは、ひどく不格好なものに佐藤は見えた。
マギサがドアを開け中に入った。佐藤もそれに続いた。
その部屋は彼女の研究室だった。両脇に設置された、壁を覆うほどの大きな本棚に、今にも圧力で飛び出してしまいそうなほどに本が詰め込まれていた。しかしそれだけでは足りないのか、不規則に並べられた机や床の上にも、塔のように本が積み重なっていた。本以外にも、謎の杖や宝石、佐藤には用途の見当もつかない小物が床机問わず辺りに乱雑に置かれていて、床はまともな足場が無かった。綺麗に整理整頓がされ、掃除も行き届いている彼女の上階とは、えらい違いだった。
この部屋は一言でいうなら汚い部屋だった。しかし、佐藤は妙な安心感を覚えていた。研究室というものは、大抵物に溢れていて汚いからだ。むしろ綺麗に片付いていると、逆に落ち着かなくなる。科学と魔法という、分野は全く違うものであっても、研究者として根底にあるものは意外と同じものなのかもしれないと、彼は思った。
「ごめんね、散らかってて。普段ここに誰も呼ばないからさ」
床に散らばった紙の束を拾いながらマギサが言った。
「いえ、お構いなく。普段はここで研究を?」
足の踏み場を慎重に探しながら、佐藤は聞いた。
「うん、一応国から貰った研究室もあったりするけど、ああいうの苦手でねえ。お上の連中に呼ばれた時以外は、ここで研究しているよ」
「ちなみに何の研究をしてるんです?」
「聞いてどうしたいのさ?」
「どうするわけでも無いです。ただ、こういうの興味あるので」
「ふーん……」
マギサは佐藤の顔を見た。見定めるような目つきだった。やがて、
「まあ、良いか」と言って、マギサは話し始めた。「私がしている研究は書き換え魔法って呼ばれてて、簡単に言えば、この世界の法則を書き換えることが出来る魔法の研究をしてる」
「法則を書き換える、ですか、スケールの大きい話ですね……」
スケールが大きい、と感想は漏らしたが、正直なところ、想像もつかない話であった。法則を読み解き、それを利用する科学とは、考え方の根底からして違う発想だったからだ。
「そうだね。この魔法の凄いところは、一度書き換えてしまえばそれ以上魔力を使う必要がない所にあるんだよね。今までの魔法っていうのは、例えば物を浮かそうとしたとき、物を浮かしている間はずっと魔力を消費し続ける必要があったんだけど、法則を書き換えて、初めから浮いているって事にすれば、力も魔力もかける必要は無いからね」
「……なるほど。確かに便利と言えば、便利な魔法かもしれないですね」
と、佐藤は心にもないことを口にしていた。その魔法を一番活用できるのは魔法側ではなく、科学側の人間だと思ったからだった。
「ま、今まで浮かび上がってきた人類の問題が、一挙に解決するかもしれないとなって、それはそれは、大した騒ぎになったよ。……といっても、実を言うと七十年前に理論が提唱されて以来、だーれも成功してないんだけどね」
「やっぱり、そのくらいになると簡単に使えないんですか?」
「いいや」と言って、マギサは分かりやすく首を横に振った。「使うのが難しいのかすらわかっていないんだけどね。『そういう魔法が存在するかもしれない』って事以外、何もわかっていないのが現状。最近じゃあ、研究する人も極端に減ったね」
と言って、彼女は浮遊しながら、いくつか地面に落ちている物を拾い始めた。
「マギサさんは、何故その魔法の研究を?」佐藤が訊いた。
「ちょっとした目標があってね。その魔法なら、それが出来るんじゃないかと思って研究をしている。あ、こっちに来てくれるかい?」
と言うと、入った来た扉と反対の位置にある扉の前に彼女は降り立った。その扉を開けて、部屋の中にマギサは入っていった。地面に落ちている物を踏まないように、佐藤もそのあとを追いかけた。
その部屋は、とにかく広い空間だった。先程の物でごった返していた部屋から一変、物が一つも存在しない、灰色の壁に覆われた空間がかなり先まで続いていた。バスケットコートが二面が、すっぽりと入りそうな程であった。
「すげ」佐藤は圧倒されたように呟いた。「これ、どうやって作ったんですか?」
「魔法」
マギサが即答した。
「まあ、そりゃそうでしょうけど」
そういうことじゃない、と佐藤は言いたかったが、何だか無駄な気がしてきた彼は、別の質問をすることにした。
「ここは、実験場として使っているんですか?」
「そうだね。例えば発動が大規模な魔法、大抵『魔術』とか呼んだりするんだけど、細かい話はいいか。そういう発動するのに場所が必要な魔法とか、被害が予想できない魔法を使う時はここを使ってるね。と言っても、今日はそういう心配がある内容ではないけど」
「それなんですけど、本当に出来る用になるんですかね、魔法」
頭を指の先で掻きながら、佐藤が言った。その表情には諦めの感情が宿っていた。
「あらら。やる前からそんな弱気になっちゃって、なんかあったの?」
「別に何かがあった訳でも無いですけど、やっぱ出来る気がしないっていうか、どうしても俺の生活の中からかけ離れすぎていて、使うっていうイメージが湧かないんですよ」
「任せとけって」マギサは、自分の胸を叩いてみせた。「もちろん、絶対の保証はしないけど、それなりに自信をもってやるよ。一応、私はプロだからさ、騙されたと思ってやってみよ」
「まあ、そういうなら。どのみち、やるしかないですもんね。お願いします」
「分かった。じゃあ適当なところに立っててくれない? 準備するから」
マギサはそう言うと、一度研究室に戻り、高めの丸テーブルを持ってやってきた。それを彼の目の前に置いた。
「さて、これから君に魔法を教えるわけだけど、何か質問は?」
「……そもそも、魔法って何なんですか?」
佐藤は尋ねる。その質問が元の世界に帰るヒントになるかは分からない。けれど、この世界で生き残るためには、知っておくべきだろう。それこそ本当に、痛いほど味わった。
「君の立場で考えるなら、いい質問――というよりは、当たり前の質問だね。定義だけを端的に答えるなら、『運命を決定する力』が魔力で、それを目的を持って利用したものが魔法だ」
「運命を決定する力?」
「うん」
マギサは頷いて、ローブの袖口に手を突っ込んだ。そして中から、小さなサイコロを取り出した。佐藤はそれについて何か言おうと思ったがやめた。彼女の表情がいたって真面目で、口を挟めるような余地を感じなかったからだ。
「私は今からこのサイコロを振る。次に何の目が出るか、君には分かるかい?」
「わかりません」
「だろうね。では振ってみよう」
マギサはサイコロをテーブルの上に優しく投げた。それは数回転がって、三の目を出した。
「分かるかい?」マギサが訊いた。
「……何がですか?」
「重要なのは出た目では無い。サイコロは、何の数が出るかは運任せだ。任意的な操作は出来ない。ということは、サイコロを振る直前に世界は六通りに分岐する。一が出た世界、二が出た世界――というようにね」
佐藤は驚いた顔で、説明をするマギサを見つめていた。何故ならそれは――
「多世界解釈……」
うっかり水でも零してしまったかのように、佐藤は呟く。マギサは、その発言を聞いて、ニヤリと笑った。
「多世界解釈。なるほど、そういう言い方もあるか。ちなみに私たちは、その現象を、『世界分岐選択論』と呼んでいる。まあ、名前はどうだっていいさ」
マギサは再び、袖の中に手を入れた。そして、中から一本の白色のチョークを取り出す。そのチョークを使って、壁に鍬のような、一本から複数本に分岐をする線を書いた。
「さっきも言ったけど、可能性という名の元において、世界は分岐する。しかし実際に私たちがこうして見ている世界は一つだね」
マギサは枝分かれした線に、一つの線を除いて、バツを書き足していく。
「では、どのようにしてこの残った世界は選択されるのだろうか? 偶然? たまたま? いいや違う。明確な力によってそれは選択されんだ。その世界を選択する力こそが、魔力なんだ」
マギサの言葉を受けて、佐藤は自然と顎に手を当てていた。
「マギサさん」やがて、佐藤は口を開いた。「コペンハーゲン解釈って、知ってます?」
「知らない。なにそれ」
「量子力学において――いや、この世界についての解釈の一つの考え方なのですが、世界は分岐するが、我々が観測を行った瞬間に一意に定まる。という考え方です。観測という言葉の定義が曖昧ですが、一旦ここでは我々人間の認知であるとします。ここまで、良いですか?」
「言いたいことはまあ何となく分かるかな」
「それで、俺がさっき言った『他世界解釈』というものは、世界は観測によって一意に定まったわけではなく、その背後に同時に存在している。という考え方です。この解釈のうち、どちらが正しいのか。あるいはどちらも間違っていて、新たな解釈が必要なのかは、俺たちの世界ではまだ解明出来ていません。マギサさんたちの世界の研究者は、どういう解釈をしているのかと、今思いまして」
「ふむ」マギサは帽子の鍔を何度か触った。「私たちがどう考えているかという問いに対しての答えは、どちらでも構わないということになる。私たちの魔法技術は、そのようなことを考えるべき段階にいないからね」
「分かりました。続けてください」
彼女が語った魔法の本質は、佐藤が知っている科学の世界の本質とはかなり違っていた。否、違っていて構わなかった。新たな解釈や秩序によって、元の世界が破壊され、新しい世界が構築される――それは、科学の世界において当たり前の事だからだ。
「世界を選択する力である魔力。それを使えば、望む未来を掴む事が出来る――わけでは無いんだ」
「そうなんですか?」
「残念ながら、未来というのは少し複雑でね。一要素だけで決まらないんだ。ありとあらゆる分岐、それらが複雑に折り重なって、入り混じっている。端的に言うと、必要な魔力量が多すぎる上に複雑すぎる。たかだか一人の人間がどうにかできる代物ではないのさ。理論上は出来るってやつだね」
「魔力を使うって言ってましたよね」佐藤は顎に当てていた手を解いた。「魔力は、そもそも世の中の確率的な事象に関わっている力ってことですよね? それを人が使うことが出来るのですか?」
「それは……」マギサは決まりが悪そうな顔をした。「その点については、実はよく分かっていない。通説では、生物が持つ認知や感情、そういったものにも魔力が宿っていることが分かっていて、それらを根源として魔力を使っている。というものがある。他にも、元々魔力は生命に備わっているという説もあるし、我々の認識そのものが魔力の根源であるという説もある――だけど、確定的なことはまだ判明していないっていうのが現状かな」
「……なるほど、分かりました」
「それで」マギサはチョークを手のひらに乗せた。「この魔力だけど、確かに人が使った所で、世界選択を覆す程の力は持たない。だけど、限定された事象に干渉することは可能だ。上手く使えば、力や空間、天候や人体。そういったものを、ある程度意図的に歪めることが出来るようになる。このコントロールの仕方や方法を体系的に定義するのが、魔法あるいは魔術と呼ばれるものなのさ。分かったかい? サトウ君」
「さわりだけは、何となく」
佐藤がそう言うと、マギサは楽しそうに笑った。
「ま、今はそんなに理解しなくても大丈夫。実際、私達研究者でも分かってない事はまだまだ多い。それに、魔法を使うのに真の理解というものは必要ない。知識として覚えるだけで、十分使う事が出来るからね」
マギサがそう言った後、彼女の手のひらのチョークが独りでに浮いた。やがてチョークは丸テーブルの上まで進んで、意識を失ったかのように重力に従って落ちた。
「あれを浮かせる事が、今日の君の目標だ。頑張ってくれよ?」
「……まあ、分かりました。頑張ってみます」
「よろしい。では始めるとしようか」
マギサはもう一本、袖口からチョークを取り出した。先ほどと同じ白色のチョークだった。彼女は手に持ったそれを使って、丸テーブルからさほど遠くない位置の地面に、チョークで点を一つ付けた。そしてその点から放射状に、等角度の直線を6本引いていく。1m程引かれた線分の終端全てに、小さな丸を描く。それが終わると彼女はチョークを手で砕き、その粉を全ての丸の中に分け入れた。
「出来た。そしたら、この図形の真ん中に立って欲しい。裸足でね」
手についた粉を払い落しながら、彼女は言った。佐藤は言われるがまま、室内用のスリッパを脱いで中央に立つ。
「これでいいですか?」
「右足がもうちょっと後ろ。なるべく線を踏むようにして。……どうでもいいけど、足大きいね君」
「昔からよく言われます」
「うん。そこでいいかな」
マギサはそう言って、手を佐藤の方へ向けた。
「そしたら、一度君に魔力がどんなものかを感じてもらう。痛かったら言ってね。止めないけど」
「……言う意味とは?」
「さあね」
やがて、彼女の手が白い光に包まれた。そして、チョークの粉の塊6つが、赤く光り始めた。その光はチョークで書かれた線を導火線のように伝って、徐々に佐藤が立っている中央に向かって伸びていった。
「熱っ!?」
その光が佐藤の足に触れた瞬間、彼は声を上げた。まるで太陽光で熱されたアスファルトの上に立っているようだった。
「そのまま我慢して」
と、佐藤が足を地面の上から離そうとした所で、マギサが無表情で、きっぱりと言った。
「わ、分かりました」
狼狽えながら言って、佐藤は体に力を込めて足を動かすのを我慢した。そうして、数十秒が経過した時だった。彼はある異変に気が付いた。足元にあった熱さが、体の中に移動していた。下を向くと、赤く発光していたチョークは、いつの間にか元の色に戻っていた。
「おっけ、体熱い?」
「かなり熱いです」
「よしよし。それが魔力だよ。魔力ってね、一部分に集めたり、魔法を使おうとすると、物体や人体との摩擦で熱を発生させるんだ。その熱の感覚を、よく覚えておくように」
「は、はぁ。次はどうすれば?」
「机の上のチョークに向かって魔力を向けてみて。イメージとしては体の中の熱を、手の先からチョークに移すって感じかな? そう難しく考えず、自分には初めからそういう力があるんだと思ってやるといい」
「……分かりました」
佐藤は息を吸って、止めた。そして目の前のチョークに鋭い視線を向け、手を伸ばして力を込めた。
熱を移動させるとか、魔力を向けるとか、そういう話が佐藤に分る筈もなかった。ただ何も考えず、目の前のチョークに集中した。しかし、チョークはうんともすんとも言わなかった。それから三分ほど経った時だった。
「そのまま聞いて。サトウ君はチョークをどうしたい?」
と、マギサが佐藤に向けて話しかけてきた。言われた通り、佐藤は姿勢を崩さず、目の前のチョークへの集中を解かずに、頭の片隅でその話を聞いていた。
マギサは佐藤に近づいて、彼の腕に自分の手を重ねた。
「想像するんだ。見えない力や見えない手を。そしてそれを使って、チョークに自分がしたい事をやらせるんだ」
言われるがまま、佐藤は見えない手を自分の視界の中に想像する。透明で、物体をすり抜けて、干渉したいものにだけ干渉できる、幽霊のような手だ。そしてその手で、チョークを掬って持ち上げる想像をした。
その想像の中で手とチョークが触れた瞬間だった。チョークが派手な音を立てて破裂した。その音は、広い部屋の中を何度か反芻した。
「うっそ……。本当にできちゃったよ」
その反芻が終わった時、佐藤は驚いた顔で呟いた。呆然としたまま、彼はマギサの方に顔を向けた。彼女は愉快だと言わんばかりの顔をしていた。
「やるじゃないの。筋がいいね」
「本当に俺がやったんですよね」
薬物の副作用でも見えているかのように、佐藤は何度も繰り返し自分の手を確かめていた。
「私が補助したってのもあるけど、大枠はそうだね。今の感じで問題ないよ。力加減はやりながら掴んでいく方がいいかな。今って、チョークを持ち上げるつもりだっただろう?」
「そうですね。俺の中のでは持ち上げるつもりでした」
「まあ、私の供給魔力がちょっと多すぎたんだろう。感覚をつかんでもらうためだったから仕方ない気はするけどね。じゃ、次は砕かないように君に与える魔力を少しずつ減らしていく。チョークを壊さない事が次の目標って事で、もう一回行こうか」
「分かりました。よろしくお願いします」
マギサは先と同じように袖口からチョークを取り出して、テーブルの上に置く、佐藤もまた、同じように手を向ける。
それから、数時間が経過した。先程の一連の流れを繰り返す事計14回、犠牲になったチョークの数21本。そうしてようやく、佐藤はチョークを完全に浮かせることに成功したのだ。
「はい、いいよ。合格」
マギサはそう言って、手を叩いた。それを聞いた佐藤は、地面に派手に倒れこんだ。その拍子に浮いていたチョークは丸テーブルの上に落ちて、二つに割れた。彼の服は、汗で酷く濡れていた。
「……魔法って、こんなに習得するの大変なんですね。しかも浮かせられたのはチョーク一本。そういえば、チョークたくさん無駄にしてすみません」
肩で息をしながら、佐藤は言った。
「構わん構わん。貰い物だしむしろ処分する手間が省けた」
「今練習していた魔法って、どういう名前なんですか?」
「力場魔法。望んだ場所に望んだだけの力を発生させる魔法だよ。したい事に相応しい魔力があれば、という話だけどね。分類上は原始魔法に分けられるものかな」
「原始魔法?」
「魔法を種類ではなく、時代別で分ける分け方。原始、古典、現代魔法って具合にね。それに人体魔法を足して今の魔法体系は成立している」
佐藤はへえ、と声を漏らした。確かにそういう分類もあり得るかと、心の中で納得していた。
「何というか、俺が想像していた魔法とは随分違うんですね。火属性とか雷属性とか水属性とか、そういうのもないって事ですよね?」
「属性ってのはよく分からないけど、その認識で良いと思うよ」マギサはきっぱりと言った。「火や雷は、同じ種類の魔法を使って生成してる。だからやろうと思えば何でも好きなように生成が出来るよ。本人の過去の経験や素質次第かな。まあ、火や雷なんかはともかく、水はちょっと魔法で扱うのは現実的じゃないね。今の君にはそんなに重要じゃない話かもしれないけど」
「そうなんですか? ……それから、こういうのって何か言ったり唱えたりするものだと思ってましたけど、そういう訳じゃないんですね」
マギサは帽子の端を摘まんだ。
「それは……。君みたいな人間が魔法を使うための導入としては良いのかもしれないね。ただそうだね。例えば君は、自分の右手に向かって、動け右手よー、とは言わないだろう? それが人工物とかでなければさ」
「確かに言いませんけど、それとは違いません?」
「違わないさ。世界を捻じ曲げるのはそれくらい簡単だって事。正しく目の前の現象を理解したなら、後は感覚の話でしかないのよ。ほら、マッチョって、胸の筋肉を自由に動かせるじゃない? あれと似たようなもんだよ。鍛えてるうちに感覚を掴むっていうか。そんな感じ」
「そんな感じで世界歪めてたら大変なことになってません?」
と言って、佐藤は苦笑する。
「そういえば」と、片付けをしていたマギサが、佐藤の方へ顔を向けた。「今更思ったんだけど、なんで私たちの言葉をそんなに流暢に話せるんだい? あまりにも自然すぎて、今の今まで不思議に思ってなかったけど」
「ああ、それは――」
と、佐藤は今までの出来事を、かいつまんで話した。
「――というわけでして。どうも、ここの世界の住人の言葉が分かってしまうみたいで。文字も同様に読めちゃうんですよ。書くのは無理なんで、それは欠点ですけどね」
「ははぁ。なるほどねえ」
マギサは納得したように呟いた。しかし、彼女の表情はやけに高揚としていた。佐藤の話ではなく、もっと別の事象に対して納得しているような、そんな雰囲気だった。
「じゃあ」マギサは手に持っていたテーブルを地面に置いた。「今日はここいらでお開きにしようか。私ちょっと行くとこあるから、後適当にこの家に居といて。家の中の物は好きに使っていいからさ」
「最後に、1つだけ良いですか?」
「ん?」
「何か、1人で出来る魔法の練習方法ってありますか?」
「ああ、そうだなぁ」
マギサは袖の中に手を突っ込んで、手のひら程の大きさの透明な結晶を二つ取り出した。
「この石――魔晶石っていうんだけど、この中に魔力があるから、これを両手に握って、片方からもう片方へ魔力を移すっていう練習。まあ、方法としてはかなり遠回りだけど、一応効果はあるかな」
「分かりました。やってみます」
「じゃあ、また後でね」
「はい。後ほど」
そのやり取りの後、突然マギサは目の前から姿を消した。まるで初めから何もなかったかように、そこにあった彼女の質量や存在が0になったのだ。失った物体を埋めるように、風がそこに向かって一瞬だけ吹いた。佐藤はそれを、肌で感じていた。




