第3話 鹿と重力加速度
佐藤は目を覚ました。目を覚ました瞬間に、幼児のようなうめき声を出したくなった。彼がそれをしなかったのは、シルワの顔が見えたからだ。
「おはよう。大丈夫?」シルワが訊いてきた。
「まあ、なんとか」
佐藤は何でもないような声で答え、体を起こした。どうやらベッドで寝かされていたらしい。自分の体に、タオルケットのような薄い布が被せてあった。
「頭痛ぇ……」
呟きながら、佐藤は自分が打ち付けた後頭部をさすった。打った所が少し盛り上がっていた。
「ごめんね」シルワが謝ってきた。「私、回復魔法はあまり得意じゃないんだ。というか、魔法がそもそもあまり得意じゃないんだけど。昼に使った分で、魔力が尽きちゃって」
「いえ……先ほどはどう考えても俺が――」
悪い。と、言おうとして、佐藤は果たして本当に自分が100%悪いのか考えた。
「まあ、悪かったです」
と、佐藤はそう結論付けた。100%悪いわけでは無いにしても、多分原因の80%は自分の女性経験の無さ――つまりそれは、佐藤は童貞であるということだ――に起因するものであるだるという、そんな結論だ。
「……そういえば」佐藤が口を開いた。「俺が最初に頭を打った時、気絶するぐらい強く打った割には、それほど痛みが無かったり、たんこぶが出来ていなかったりしてたんですけど、それってシルワさんが?」
「そうだよ。あの時、回復魔法をサトウ君に使ったんだ。あの時はまだ魔力が残ってたから、良い感じに治療できたんだ」
「なるほど……便利なものですね」
佐藤は呟きながら、目線を壁に取り付けられてあったランプへと向けた。そのランプのおかげで、部屋は一定の明るさを保っていた。しかし、そのランプは火が灯っているわけでは無かった。代わりに、ガラスの中にある石のようなものが輝いていた。
「そこのランプは?」佐藤が指をさして訊いた。
「あれ? あれは魔灯だよ」
「魔灯?」
「魔法の力で動くランプ。夜になると自動で明るくなるんだ」
「ちょっと、見てもいいですか?」
「うん」
シルワは魔灯を壁から外して、佐藤に渡した。佐藤は魔灯を回して観察した。ランプには、ダイヤル式のスイッチがついてあって、『自動』と『入』と『切』の文字が刻まれてあった。
「これ分解しても……」佐藤はそう言いかけて、慌てて口を閉じた。
「ちゃんと戻すならいいよ?」
「ついいつもの癖で言ってしまいました。すみません。そもそも、ねじのようなもので止めている訳じゃ無いので、中を詳しく見るなら破壊するしかないですね」
佐藤は軽く魔灯を回して、夜になると自動で点灯する仕組みがなんであるのかを考察してみた。しかし、普通のランプとの違いは、ダイヤル式のスイッチとフィラメント代わりの石のみであったため、『そういう性質を持った石』という何ともありきたりな回答しか生まれなかった。
「……これ、どうやって作ったんですか?」
佐藤がそう聞くと、シルワは首を振った。
「それ、カートルさんから貰ったの。作った訳じゃないんだ」
「カートルさん?」
「行商人をやってる人。ここの近くをたまに通るから、ここじゃ採れないものを貰ったり買ったりしてる。その魔灯も、カートルさんから貰ったんだ」
「その人、次はいつこちらに? 出来れば、会わせていただきたいんですが」佐藤は顎に手をやりながら言った。
「一週間くらいかなぁ。会いたいのはどうして?」
「この世界から帰るためのヒントを探すために、人がいるところに行きたいんです。国や村……なんでもいいんですが、そういうところで、情報を集めたいんです。今は何をするにしても、情報が不足しているので」
「あー、そっか。もしかしたら、元の世界に帰る方法を知っている人もいるかもしれないしね」
佐藤は魔灯を横目で見た。
「ちょっと気になったから聞くんですが、その行商人のカートルさん、移動手段はどうしているんですか?」
「えっとね、魔法馬車」シルワが答えた。
「魔法馬車……」聞きなれない単語を、佐藤は繰り返した。「魔法で動く馬車?」
「ううん」シルワは首を振った。「魔法で出来た馬が引く馬車。すごく高いんだけど、エサとか要らないし、疲れないし、長距離移動にはすごく便利なんだって」
「魔法の馬が引くから、魔法馬車か……」
呟きながら佐藤は思う。車と似ていると。元の世界で、科学技術の向上によって、人々の地上での輸送手段が馬車から地下鉄や自家用車へと変遷していったように、この世界では馬車から魔法馬車へと変遷した。という事だろう。
「ねえ。そういえば一つ聞きたいんだけど、いい?」
と、佐藤が暫く黙って考えていると、シルワが訊いてきた。
「あ、はい。なんですか?」
「サトウ君って、もしかして男の人?」
シルワからの予想外の質問に、彼は一瞬固まった。
「……もしかしなくても男の人ですけど。どうしたんですかいきなり」
「ご、ごめん。私って、小さい時からずっとここに住んでたから、若い男の人って見たことが無くて。もちろん、自分が女っていうのはお母さんから聞いていたけど。それで、最初はサトウ君が男の人なのか、女の人なのか分からなかったんだけど」
「……それで?」
「さっき、サトウ君の裸を見た時に、股間になんか変な小さい物がくっついてて、それが私と違うから、だから男の人なのかなって」
「へ、変な小さい物……?」
佐藤の絶望したような表情に、シルワはしまったという顔をした。
「ご、ごめん。普通を知らないのに、変っていうのはおかしいよね」
「そっちじゃない……!」
「え? どういうこと?」
「俺のは小さくない!――多分!」
佐藤の叫びは、星の夜空に虚しく消えた。
「多分小さいんだろうなぁ……。はぁ」
佐藤はベッドの上で一人呟いた。彼女に悪意が無いのは分かっている。だからこそ、それは本心から出た言葉であることの何よりの証明だった。
「もういいや。寝よ」
佐藤はそう言って、腕時計をベッドの上に置いた後に、部屋の魔灯に手を伸ばして、スイッチを切った。部屋が一瞬で暗闇に満たされる。窓から降り注ぐ月明りで、何とかベッドの位置が分かるくらいだった。
(やってる事だけで考えたら、あんま元の世界と変わらないな)
魔灯、魔法馬車、それから、ツリーハウスだというのに、スープ料理? が作れる水や火があり、風呂に入ればお湯が出てくる。元の世界で科学が生み出した便利な物が、この世界には魔法という、科学とは違った法則で存在している。佐藤は確信する――ここが、《《科学の代わりに魔法が発達した世界》》だと。
と、そう前提を置くのなら、いくつか疑問に思う事が佐藤にはあったのだが、襲い来る睡魔の前に、そういった思考は纏まらなかった。
――そういえば。
大変だったね。と言われて、怒らなかったのは久しぶりだったな。
* * *
(……あれ?)
目を覚ましてすぐに、佐藤はこれが夢であると悟る。
眼前に広がるのは、寝る前に見た景色と同じだ。シルワに借りた部屋と同じ間取り、同じ材質、同じ壁の位置にある棚の上に、同じ本が置いてある。自分の枕元の側には、外した腕時計が置いてある。
それなのになぜ、ここが夢だと分かったのか。それは、酷い耳鳴りがしていたからだ。テレビの砂嵐の音を限界まで大きくしたような、そんな耳鳴りだ。次に佐藤は、腕を動かそうとした。しかし動かない。万力にでも固定されているかのように、どんなに力を込めても、何も動かない。辛うじて、指が動く感じがした。しかしそれすら、はたして本当に動いているのかどうか怪しいところだった。
それはいわゆる、金縛りだった。そう形容されるべき現象が、佐藤の身に起きていた。
しかし佐藤は、慌てるでも焦るでもなく、またかと思った。ここに来てからは初めて見るなと、そうぼんやりと思った。
気が付くと、馬乗りのような形で黒い何かが、佐藤を支配するかのように上に乗っていた。重さは感じない。しかし、体は何一つ動かせない。そのまま、黒い何かは佐藤の頬を押さえつける。そのまま何を言うわけでもなく、しかし何か言いたげに、黒い何かは佐藤をじっと見つめる。
暫くして、それがどれだけの時間かは分からないが、佐藤は目を覚ます。覚醒したという感覚が、しっかりと自分の中にあった。だから、わざわざ体が動くかどうかなど確かめる事も無かった。
佐藤は枕元に置いてあった腕時計を拾って、液晶画面を光らせる。液晶は午前2時を表示していた。もちろんこの時間は正確なものではない。このツリーハウスには時計が存在していない。シルワが言うには、昔はあったらしいのだが、狩猟生活を続けるうちに、日の出と日の入りに合わせて柔軟に行動を決める必要があるため、決まった時間を知る必要性がなく捨てた。とのことだった。
それでも、自分がどのくらい時間寝ていたのかは分かる。魔灯を消して、最後に見た時刻が午後11時であったから、3時間ほどの睡眠を取ったことになる。
いつもこの夢を見るときは、完全に目が覚めてしまう。佐藤は体を起こして、一つ伸びをした。眠気が再び戻ってくるまで、少し散歩でもしようかと思った。ベッドから立ち上がって、扉を開けて通路に出る。通路は木の板が上部の太い枝に吊るされているような構造で、見る限りでは危なっかしいものだが、しかしその事実に慣れてしまえば安心感を覚えるほど安定していた。
通路を通って、また別の部屋の扉の前にたどり着く。その扉のノブに手をかけるのは若干の躊躇があった。そこがシルワが寝ている部屋だったからだ。しかし外へ出るには、この扉を通るしかない事も事実だ。やましい事がある訳ではない――と、自分に言い訳をしてから、佐藤はノブを慎重に捻った。部屋の中に入ってから、ゆっくりと扉を閉めて、部屋の中を見回す。部屋の中は、彼が借りていたものとさほど変わりはなかった。扉を開けて左手の方に、ベッドがあるのが見えた。山のように盛り上がっている布が、一定の間隔で上下していた。ひとまず、扉を閉めた音で起こすことは無かったと分かった彼は、胸をなでおろした。
そこから、佐藤はすり足で部屋の中を歩いた。ベッドの真横に差し掛かったところで、横で眠っているであろうシルワの方をちらりと見た。彼女の体に掛かっている布が、少しだけズレていた。少しの邪な思いを含んでいたからこその気付きだった。そのまま彼女に近づいて、少しだけ手を伸ばした時の事だった。
シルワが泣いていた。
今までの彼女の言動からは想像もつかない、弱く、儚げに泣く女の姿が、そこにはあった。涙に月明りが反射して、淡く輝いていた。
お母さん、ごめんなさい――と、何か夢を見ているのだろうか、独り言のように彼女が言った。その光景を見て、佐藤には動揺や、罪悪感のような物など、全くと言っていいほど湧いてこなかった。
美しい。と、高貴とも言える姿で泣く彼女を見て、彼はそう思った。
「苦労しますね」
彼は小さく呟いて、布を掛けなおした。
翌日。シルワは朝早くから狩りに出かけた。当然と言えば当然であるが、彼女はほぼ狩猟生活をしている。付いて行こうか佐藤は迷ったが、結論を出す前にシルワに止められた。本人曰く、集中が途切れるからとの事だった。
そんなわけで、残った佐藤は一人、ツリーハウスの中を掃除していた。シルワに対するお礼のつもりでそれをしていたのだが、異様な程にツリーハウス全体で物が少なく、数部屋の掃除はほんの一時間と少しで終わってしまった。
手持ち無沙汰になった佐藤は、リビングの椅子に座って、暫くの間、ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。風に揺れる木々を見ながら、元の世界に帰る方法を模索していた。しかしながら、いくら考えたところで鼻で笑われるような答えしか出なかった。それが無駄だと悟った佐藤は――
「この世界の事、知りに行くか……」
一人そう呟いて、佐藤は立ち上がった。
昼が過ぎて少し経った頃、シルワが大きな布袋を持って、ツリーハウスに帰ってきた。その時佐藤は、木の棒を使って地面に何かを書いていた。彼は凄まじい集中力で腕を動かしていた。シルワが至近距離で声をかけないと気が付かない程だった。
「何してるの?」
シルワが彼の後ろから、そう声を掛けると、佐藤はぴたりと手を止め、首だけをシルワに向けた。
「あ、どうも。重力加速度を調べてました」
「じゅう……なんて?」
「重力加速度。物が地面に落ちる速さのことです」
シルワが納得したかのように何度か頷いた。佐藤はその事に喜びながらも、正確には違うが。と、心の中だけでそう呟いた。
「それを調べると何の役に立つの?」
「現時点ではあまり役に立たないですね。一応、元の世界の数値と何か違う所がある可能性がありますが……仮にそうだとしても、この星の大きさや密度が違うからとか、色んな可能性があって何とも言えないです」
「うーん……?」
と、シルワは首を曲げ、困惑した表情を佐藤に見せた。
「要はこの世界と、俺のいた世界の違いを調べてるって理解してもらえれば大体大丈夫です」
佐藤がそう言うと、シルワは首をますます曲げた。悲しいが仕方の無い事だと、佐藤は自分に言い聞かせた。
佐藤がそう、肩を落とした時だった。シルワは地面に書き殴られている計算式を一目見て、
「よく分からなかったけど、なんか綺麗だね。そうやって数字が丁寧にキチンと並んでて、綺麗っていうか――美しい?」
と言った。
「……凄いっすね。シルワさんの前世はきっと数学者ですよ」
感嘆の目で、佐藤はシルワを見ていた。実際――理系以外の出身の人間で、そんな事風に数字を見る人間を、佐藤は知らない。高校の時に、数学は美しいと主張した同級生が、クラスから明らかに浮いているのを目撃して以来、彼はその言葉を封印していた。
(そうか、ここではそんな事を言ってもいいのか。誰も知らないんだから)
別に状況を鑑みず、何処かしこで言うつもりでは無いが、それでも何と言うか、同調圧力という名の不当な圧政から解放されたような、そんな気分であった。
「数――? 何かよく分からないけど、ありがとう?」
「それであってます」
「それで、調べた結果どうだったの?」
「あくまで大雑把な測定ではあるんですけど、殆ど違いは無かったですね。正直、体重の違いを感じなかった時点でそんな気はしてましたけど」
実権によって導き出された答えは9.7m/s^2だった。振り子を使った測定だったので、多少誤差もあるだろうが、地球のそれとほとんど変わりないと考えるべきだろう。
「じゅうなんとかが違うと、重さが変わるの?」
「はい」
「じゃあ、重い荷物を持つ時はときはそれを変えちゃえばいいんだね!」
「……まあ、そうとも言えるかもしれないですね」
スケールの大きい話だ。と、佐藤は苦笑する。そもそも重力加速度は変えようと思って変えるものでは無い。重力によって生じる加速度の話であり、条件次第でいかようにも変わる。
「重力を変えるなんて、無理ですよ」
「そうなの?」
「少なくとも俺達の世界では不可能です。精々他の力で誤魔化す程度のことしか出来ません。まあでも、魔法ならもしかしたら出来るのかもしれないですね。俺には魔法の概念なんてさっぱりですが」
「きっと出来るんじゃないかな。魔法で空を飛ぶ人だっているし」
「いずれにせよ、俺には縁のない話ですね」
佐藤は足を使って書いた数式を消し始めた。
「良かったの?」
「はい。目的はもう達成してますし、どうせ明日には消えてますから」
「そうだね。でも、ちょっと勿体無いなって」
佐藤にとってのその言葉は、何よりも有難いものだった。それを誤魔化すように咳をして、
「それより、狩りの成果はどうだったんですか?」
と訊いた。
するとシルワは、手に持っていた布袋を彼の前に差し出した。一メートル程の大きな袋が露骨に膨らんでいた。
「鹿一匹。暫くはご飯に困らないかもね」
「……ナイフ一本でですか?」
佐藤は彼女の腰に取り付けられたナイフをちらりと見ながら言った。鞘に収まっているのではっきりとは分からないが、刃渡りは恐らく20cm程はある大型のナイフだ。特にこれと言った装飾が施されておらず、シンプルな一品だ。彼女はそれ以外に、武器らしい武器を持っていない。罠を使ったのなら、何かしらその残骸が残っている筈である。しかし彼女がそれらしき物を手に持っていたり、肩にかけたりはしていない。
「うん。首の辺りを切った」
「どうやって?」
「どうって、普通に走って捕まえた」
彼女の言葉に、佐藤は言葉を失った。鹿の走行速度など佐藤は知らない。けどそれが、自分には不可能――と言うか、例えウサイン・ボルトでも可能だとは思えない。出来るとしたらただの化け物だ。人間を辞めていると、堂々と宣言してもいいだろう。勿論、この世界の鹿が大した事のない可能性はある。戦国武将たちが乗っていた馬が実はずっと小さかった、という話のように、この世界の鹿も小さく、遅く、弱い可能性もある。
それでも、佐藤の中の常識で考えるのなら、可能性は前者の方が高い。自然選択で考えるなら、そのような生物が生き残っている可能性は低い。だとするなら、シルワが走って鹿を捕まえることが出来るのは、一体何に起因するものであるのだろうか。魔法とやらのせいなのか、それとも、この世界の人間という存在が、ここまで強力な存在なのか。
「これも調べる必要があるか……」
「何か言った?」
「いえ、なんでも。……ちょっとそれ、持ってみても?」
「それ?」
「袋」
「ああ。はい」
と、シルワはまるで、それを持つのが簡単だと言わんばかりに、腕を伸ばして佐藤に差し出した。彼はそれを同じように、腕を伸ばして受け取ろうとした。しかし、その袋を掴んだ瞬間、彼の腕は袋の重さに耐え切れず、地面へと引っ張られてしまった。
その袋が重すぎる。という訳ではない。持とうと思えば、両手で十分に運搬できる。しかし彼女のように、片腕だけで軽々と持ち上げるなんて芸当は出来ないし、それを持ったまま森の中を歩けと言われたら、もっと疲れが顔に出ている。しかし彼女は、疲れる様子どころか、汗一つ流していない。
「もう、大丈夫です。分かったので」
佐藤はその袋をもう一度持ち直して、シルワに渡す。彼女はやはり、さして力を込める様子もなく、それを受け取った。
佐藤はシルワの腕を観察してみた。彼女の腕は、自分のそれよりも断然細い。折れそうという程ではないにせよ、かと言って先のように、軽々袋を持ち上げられる程だとも思えない。
「よく分からないけど、それならよかった。ちょっと早いけど、ご飯食べよっか。私が作ってあげる」
「食べたので大丈夫です。勝手に食糧を拝借してすみません」
「えっ。そうなの……」
シルワは肩を落としてそう言った。それは佐藤にも、悲しんでいるのが分かる程だった。
「何かあったんですか?」佐藤は思わず訊いた。
「え、ううん。せっかくなら、一緒に食べたかったなって。ほら、私ね、お母さんがいなくなるまで、ご飯はずっとお母さんと一緒に食べてたから、だから、ここ十年くらいずっと一人でご飯食べてて。だから、その、寂しいなって」
長い睫を揺らしながら、シルワはそう言った。卑怯だ、と佐藤は思った。そんな風に美人に言われてしまったら、協力したくなってしまう。それが男の悲しい性だ。
「食べます……」
「ホント!? ――って、何で泣いてるの?」
「シルワさんの話に胸を打たれまして」
嘘である。半分だけ。
それから、佐藤とシルワは共に夕食をとった。作ったのはシルワだ。佐藤は別に、料理が苦手という訳では無い。むしろ、自炊をする機会には恵まれていたので、得意とさえ言える。しかし、彼にジビエをどうにかする知識は無いし、何より、「作ってあげる」という彼女の言葉に答えた手前、自分が作るとは言い辛いものだった。
彼女の料理は、相変わらず不味かった。なるべく舌の上で転がさないように、素早く飲み込む事でそれを平らげた。
「ねえ、そういえばさ」
食事も終わり、一緒に食器を片付けた後、シルワが話を切り出した。
「はい。何ですか?」
「サトウ君は、国って知ってるの?」
なんだか哲学的な質問だなと、佐藤は思った。最も、シルワがそんなつもりで佐藤に質問していないことは分かりきっているが。
「はい。俺もこの世界に来る前は、国に所属している人間の一人でしたし。何なら、随分助けてもらったと言えば、助けてもらいましたね」
「そうなんだ」シルワは一度頷く。「ねえねえ、サトウ君の国って、どんなところなの?」
「どんなところ……。場所によって全然違うんですけど、俺が住んでいたところは、角ばった灰色の高い建物が沢山あって、それこそ、ここの森みたいにひしめき合っていて。それで、何処を見ても人ばっかりって感じですね」
「へええ」
シルワは、感嘆の声を上げた。そして、顔を上に向けて、何かを考えるような仕草を見せた。暫くそうしたのちに、
「全然わかんないや」
と、はにかみながら佐藤に言った。佐藤もつられたように笑った。
「まあ、ですよね。俺の説明も下手でしたし。でも、どうして突然?」
「いやあ」シルワは指先で頬を撫でた。「サトウ君と話して、私思ったんだ。私って、この世界の事何にも知らないんだなぁって。きっと、この世界に飛ばされたサトウ君よりも、分かってないんだって」
シルワは、佐藤を真っ直ぐに見つめて言った。一瞬だけ見せていた、己を恥じらうように泳いでいた瞳が嘘のようだった。
「でもそれは、仕方の無い事じゃないんですか? シルワさんのせいじゃありませんよ」
「ありがとう」シルワは短い間を置いた。「でもね。やろうと思えば私、一人でも旅が出来たはずなんだ。何で旅をしたいと思わなかったのかは、自分でもよく分からないんだけど……。だから、私のせいなんだよ、きっと」
佐藤は何か、言おうとした。それは、彼女の自虐的な言葉をあまり聞きたくはなかったという、彼の無意識の働きかけがそうした。しかしそれよりも前に、まるで制するかのように、彼女が口を開く。
「まあ、そのおかげでサトウ君と出会えたって考えたら、案外悪くなかったのかも」
シルワが、笑顔を佐藤に向ける。彼は唇を固く結んだ。
「だから、今はね。勿論、サトウ君を助けたいが一番だけど、この世界の事を知りたいっていうのもあるんだ」
佐藤は言葉に詰まった。しかし何か言わなければ変だ。慌てたように口を開く。
「……それに、旅をしていれば、お母さんの事も何かわかるかもしれないですしね」
「あー……うん。そうだね!」
シルワの笑って言った。しかし佐藤は、その返答に、何かざわつくような音が聞こえた。彼は首を振って、その音を無視することにした。




